文責:村山芳昭 2008.11.01

はじめに

古代史研究において、従来、易(陰陽)・五行、讖緯思想が一顧だにされなかったというのは不可思議な限りだが、それには理由がある。明治維新を機に移入された西欧近代合理主義思想に基づくパラダイムシフトの影響である。未来予言に関わる占いや神秘主義思想を基底に据える同思想は、人心を惑わす非科学的で荒唐無稽な迷信、俗信に過ぎぬ低俗な思想として徹底的に排斥された歴史的経緯がある。そのため学問体系からも排除されたのである。フロイトに始まる深層心理学は神話の研究と密接不可分な関係を持ちながら発展してきたが、彼の弟子であったユングは、易の世界観に豊かな示唆を得て、人間の無意識に対する洞察を深め独自の学説を説いた。神秘主義思想と深層心理学とは親和的関係性を有している。深層心理学の知見を照射することで、古代人の他界観や宗教観などを学術的な尺度で理解する手掛かりを得ることができると考える。

「浦島説話」を伝える始原の三書では、「夫婦の理」、つまり男女交合という性的主題について触れているが、このモチーフには、深層心理学の立場からみると心(魂)の変容という問題と意義深い関係性が感じられるのである。

2008年11月1日 村山芳昭

元型

元型はイメージであり、また情動である。その両者が同時に存在するときにおいてのみ元型ということができる。たんなるイメージだけのときは、それはたんなる絵文字で、何らの結果ももたらさない。しかし、情動を担うことによってイメージは、そのヌミノス(あるいは、心的エネルギー)を獲得する。したがってそれは力動的となり、何らかの結果がそれから生じてくるにちがいない。元型の概念を把握することは困難であることを、私は知っている。それは、その本来の性質からいって正確な定義を不可能にするような何ものかを、私は言葉を使って記述しようとしているからである。・・・元型は生命そのものの部分―情動という橋によって、生きた個人に統一的に結合されているイメージーなのである。このために、どの元型にたいしても任意の(あるいは一般的な)解釈を与えることは不可能なのである

C.G.ユング 河合隼雄監訳 人間と象徴~無意識の世界~上 p.148 河出書房新社 1994年

こころとその働き

生前、アインシュタインは「自然の中には神が仕掛けた謎があり、その謎をできるだけ単純で明快な法則で解き明かす」ことを主張し、その実現に情熱を注いだ。彼は自然を構成している原理は、複雑なものでなく、シンプルで美しさを備えているはずであるという信念を持っていた。彼は終生にわたって全宇宙を表現できる「たった一つの方程式」を探し求めた。彼の死後も多くの物理学者がその謎の解明に取り組んでいるが、現段階でそれを解く答えは得られていない。たった一つの方程式とは、宇宙を支配する四つの力の統一的記述である。四つの力とは重力と電磁気力、そして強い核力と弱い核力をいう。重力はニュートンが発見した万有引力であり、電磁気力は磁石の力や静電気の力、あるいは電波や光の伝搬をつかさどる力である。強い核力と弱い核力はいずれもミクロのレベルで、原子核をまとめている力と放射性原子核の分裂や崩壊をつかさどる力である。物質の世界は、こうした「力」によって絶えず変化し、姿を変えている。物理法則とは、力の法則といえる。アインシュタインの目標は物理学の統一にあった。彼は「物理学の統一が私の最高の聖なる職務だ。単純性がこの宇宙の基準(クライテリオン)なんだ」と述べている。ここには、こころとその働きをどのように考えるかという問題提起が含まれていると思われます。

ウィリアム・ヘルマンス(雑賀紀彦訳) アインシュタイン 神を語る p234 工作舎 2000

心(魂)の変容

グノーシス主義やその流れをくむ錬金術の人間観には、肉体あるいは物体の内部に蔵されている霊的なものを現実化させることができる、という考え方があった。錬金術はふつう、卑金属から貴金属をつくり出す技術と考えられているが、現代の深層心理学の立場からみると、そこには心(魂)の変容の問題が含まれている。つまり、卑金属とか貴金属というのは一種の象徴的表現(アナロジー)であって、人間の魂を、卑金属のような濁った状態から輝く状態に変化させることが、錬金術の目的であると考えられていたのである。このような考え方に従えば、肉体の内部にある心のはたらきを変化させることによって、精神の霊的変容と浄化をもたらすことができる。ここには、キリスト教の正統的人間観(霊肉二元観)とはちがった見方があり、むしろ東洋の伝統的人間観に近いところが感じられる。しかし西洋の精神史では、グノーシス主義や錬金術は異端的思想として排斥される傾向がつよかった。

湯浅泰雄 気・修行・身体 p.27 平河出版社 1993年

「太極」と「両儀」

物理学者のニルス・ボーア(デンマーク)が、自身の「相補性の原理」について、哲学的世界観を表わす象徴として易の太極図をもって説明したことはよく知られています。『易経』の「太極分かれて両儀あり」という言葉の意味について、湯浅泰雄氏は、次のような説明を付しています。

「「太極」とは「道」Tao(タオ)つまり宇宙のすべての現象の根本になる究極のリアリティであり、それは、見ることができないという意味において形而上的な(メタ・フィジカル、つまり感覚される物質現象を超えた)ものである。これに対して「両義」とは「陰陽」のことである。これは、われわれの経験することのできる形而下的(フィジカル、つまり物質的)な次元の状態を示す原理である。つまり究極の不可見のタオから、経験できる二つの状態が分かれてくるという考え方」と指摘しています。

湯浅泰雄 共時性とは何か PP30-32 山王出版 1987

ユングと『易経』

中国学者でもない私が『易経』などに興味をもつようになったのは、ひとえにユングの影響である。彼はその後半生、アジアの思想について真剣に研究を進めるようになるが、中でも特に関心を抱いた対象は、中国に代表される東アジアの文明であった。彼は、中国の古典の中で『易経』を最も重視した。中国文化についてユングに教えたのは、ドイツの中国学者リヒアルト・ヴィルヘルム(1873~1930)である。ヴィルヘルムは『論語』『老子』をはじめ儒教・道教の多くの古典を訳しており、ユングもそれらは知っていたはずであるが、彼は、中国人の思考のエッセンスは『易経』の中にある、とみたのである。

湯浅泰雄 身体の宇宙性 pp.49~50 岩波書店 1994年

『太乙金華宗旨』と三神

「太乙」は神名である。古くは「太一」「泰一」と記されている。史記封禅書によると、泰一・天一・地一は、古代における最高の三神である。漢の武帝は長安の郊外に泰一壇を造って三神を祭ったという。天一は陽神、地一は陰神であり、泰一は陰陽二神が分かれてくる根源の神であるから、三神の中でも最も尊い。易経に「易に太極あり、これ両儀を生ず」という有名な言葉があるが、泰一は太極の人格的表現であり、天一と地一は両儀(陰陽)の人格的表現と解される。道教の伝統では、この「泰一」を「太乙神」とか「皇上帝」などとよぶ。道教の基本理念である「道」(Tao)は、太乙神の哲学的表現ということができる。また「金華」は、瞑想の中からひらけてくる黄金の華を意味する。ユングはこれを、彼のいうマンダラ象徴と解する」(湯浅泰雄)

黄金の華の秘密は、太乙金華宗旨の訳語である。道教の中核を成す神仙思想の影響がみられる「浦島説話」を研究する際、陰陽と両儀を含む一なる観念に留意する必要がある。宗教心理学的観点からみても重要な要素が含まれていると思われる。

C.G.ユング R.ヴィルヘルム著 湯浅泰雄・定方昭夫訳 黄金の華の秘密 P.312 人文書院 1993

東洋宗教における性

ユングは、道教やヨーガをはじめ東洋の宗教に対して深い関心をよせましたが、東洋の宗教では昔から、性と宗教体験の間に深い内的関連を認めている場合が少なくありません。たとえば、ヒンズー教や日本の密教などはその一例です。これは、東洋の宗教的伝統において瞑想修行の方法がよく発達し、深層心理領域に関する経験的探究の成果が古くから蓄積されてきたことによるものと考えられます。

湯浅泰雄 歴史と神話の心理学 p.51 思索社 1984年

集合的無意識

深層心理学は、人間の心を意識と無意識に分け、両者の関わり、関係性について考究する。

フロイトやユングは、いずれも心が階層構造を有するものとしてとらえている。ユングは無意識を個人的無意識(the personal unconscious)と集合的無意識(the collective unconscious)に区分した。集合的無意識は、個人の経験を超越し、広く人類一般に共通する領域を包含すると考えている。

「浦島説話」が深層心理学の観点からみて興味深いのは、主人公が異界という超越的世界を訪れ、そこで神女と男女交合を果たすというモチーフを含んでいる点にある。「性的主題」は世界共通の神話素でもあり、集合的無意識との関わりから考察する意味があるように思われる。

湯浅泰雄氏は「私の考えるところでは、ユングの言う集合的無意識は、いくつものレベルあるいは層に分けられるのではないかと思います。個人から家系、さらに種族や民族といったより広く深いレベル、そして人間一般から、動物のレベルの無意識といったレベルまで考えられるのではないでしょうか。ユングは先に述べたように、たましいPsycheの世界は、意識から遠ざかるにつれて次第に時間と空間の制約から離れ、最後には無時間・無空間の次元にまで至るように思われる、と言っています」と指摘している(湯浅泰雄 共時性とは何か p60 山王出版 1987年)。

時間と空間が消滅する次元とは一体いかなる世界なのであろうか。

「浦島説話」を伝える「逸文」で、主人公が超越的次元に至るのは、「一太宅之門」の中においてである。本論は、それは太一(太極)の次元を象徴的に表現したものではないかという認識をもっている。湯浅泰雄氏は「道教の基本理念である道(Tao)は太乙(太一)神の哲学的表現ということができる」と指摘している(C・G・ユング R・ヴィルヘルム著 湯浅泰雄 定方昭夫訳 黄金の華の秘密 p312 人文書院 1993年)。この説話に古代中国の思想哲理が深く影響を及ぼしていることは間違いないのであるが、主人公の体験が人間のたましい(Psyche)の経験に関わるものであるなら、それは国家や文化、歴史、伝統、言語、宗教といったさまざまな要素を超え、人類に普遍的な心理構造の基盤にその端緒をもつととらえることができるのではないかと考えられるのである。

2010.7.18 村山芳昭

「神話話研究に対する集合的無意識と元型の理論の意義」

「彼(ユング)の考え方は、神話的主題が示す超個人的性格について、心理学的観点から解明を与える試みであるということができます。(超個人的transpersonalといういい方はノイマンがよく用いるものですが、この言葉はユングのいう「集合的collective」という形容とほぼ同じ意味です)。・・・

歴史的事実とは、個体の生において一回かぎり起こった事実です。これに対して神話的事実は、未開人が、生物学的(つまり歴史的)個体としての感覚的経験のレベルをこえた別個の経験領域(私のいう「背後世界」)を設定し、そこに根拠をもつと彼らが考えた出来事を表現しようとしたものです。彼らのこのような考え方を何らかの形で認めるとすれば、神話に表現されている出来事は、本来、個体の生物学的生の時間的制約をこえた超個人的領域から、個体の生に対してはたらきかけてくる作用を、主体の心の深層領域から発する情動的想像力を通じて、外界の事物へ投影的に表現したものと解さなくてはなりません。・・・

ユングのいう集合的無意識は、個体の生活史を通じて蓄積された個人的無意識過程に対して、さらにその根底に潜在し、作用している超個人的な、いいかえれば個体をとりまく環境的条件に還元できない、より深い先験的な心的作用の領域を意味します。また元型は、そのような超個人的次元から発現する心的エネルギーについての内面的体験のイメージ(厳密にいえば、そういうイメージの発生母胎)を意味します。神話的事実と歴史的事実の理論的区別はユングのこのような考え方によって、はじめて心理学的観点から明確にされた、といってよいと思います。・・・

神話の主題が個体の生の有限性をこえた先験的次元の出来事を象徴的な形で示しているということは、その現象の発生根拠が個体の存在次元をこえた超個人的で集合的な心理経験の領域に由来すると考えるときに、はじめて理論的に正当であるといえるからです。要するにわれわれは無意識作用の発生母胎を個体的レベルと超個体的レベルに分け、後者に無意識の本質を求めるユングの考え方を承認することによって、はじめて、神話的事実は歴史的事実ではないという人文科学上の発見の意味について、学問的に立証することができるのです」(湯浅泰雄 歴史と神話の心理学 pp37~39 思索社 1984年)

本論は、「浦島説話」で語られている男女交合の性的モチーフは超越的次元の心理的体験内容が表現されているという意味で神話的主題であると考えている。そのうえで、前述の湯浅氏の文章に結び付けて考えると、この説話が語る象徴表現の心理学的意味について新たな認識を得ることができると考える。深層心理学の観点に照らすならば、この説話が表現する内容は今現代の問題として分析考察することができるのである。

2010.8.10 村山芳昭

「浦島説話」と夢機能

「ユングとフロイトの文通や著書の交換は、1905年ごろから始まっている。ユングはフロイトの『夢判断』から感銘を受け、そのころの著作の中でフロイト理論をはっきり弁護した。ユングはそのころ、患者ばかりでなく自分自身の夢についても分析を行ない、夢は意識の態度に対する無意識の補償作用であるという見解を固めつつあった。この考えはフロイトとは方向を異にするものであるが、夢が無意識の理解にとって決定的な重要性をもつという点では、ユングは全くフロイトと同意見であった」(湯浅泰雄 ユングとキリスト教 p13 人文書院 1986年)。

「夢が無意識の理解にとって決定的な重要性をもつ」という考え方を共有していたユングとフロイト。彼らの交流は1913年まで続くことになる。二人が決別する契機は、「性欲や宗教や超心理現象などに対する評価の点」(前掲書p14)で大きな隔たりがあったことにある。因果決定論を基軸に解釈するフロイトに対して、ユングの無意識への理解は、予知夢などをはじめ未来に関与する内容をも含むものであった。時として未来の出来事を告げ知らせる機能を有する無意識の働きに対するユングの信頼は、たましい(Psyche)の高次構造への深い想像力・洞察力と密接に関係していた。

「浦島説話」が深層心理学の観点からみて重要な研究対象になり得るのは、「逸文」には主人公の眠りについての描写が3箇所出てくることにもある。この説話はさしあたり、主人公の夢物語と解せなくもない。

2010年8月11日 村山芳昭

男女交合の心理学的意味 -元型としての本来的自己Selbst

本来的自己Selbstについて、湯浅泰雄氏は次のように述べている。「この言葉は「自己」と訳されることが多いが、この訳語では意味がとりにくいので「本来的自己」と訳してみた。実存哲学の用語法をかりていえば、自己は日常的非本来的自己と本来的自己という二つのあり方をもち得る。日常的経験の場における自我意識のあり方は前者である。自我が意識の根底を成す無意識の深層に深く分け入ってその隠れた中心に結びついてゆくとき、日常的自己としての自我意識は本来的自己に結ばれてゆくのである。ユングの説くところでは、本来的自己は意識と無意識の両者を含めた心の中心であり、心の全体性をあらわしている。それは、人間の心のすべての営みがそこから発し、そこに帰るべき中心点ともいうべきものである。それは一切の対立と差別を解消させ、完全な調和にもたらす統合中心である。河合隼雄氏は、こういうユングの考え方は、ヴィルヘルムを通じて得た道教の「道 タオ」の観念から示唆されたものではないかと言われている(76)。「道」は万物の運行を支配する陰陽の対立をこえた究極の原理である。ユングはまた、本来的自己をヴェーダンタ哲学のアートマンやヨガのプルシャに類比している場合もある。これらの概念もまた「本来の我」とか「真我」などと訳されるべきものである。要するに本来的自己とは、集合的無意識の領域における元型的諸経験の究極におかれた限界概念ともいうべきものである。宗教的観点からいえば、それは「霊性」「神性」「仏性」といった超越的次元を指示している。そこから発する力は人格的な力あるいは汎神論的な力として体験されるが、それを概念的に固定しようとすることは不毛な思弁に終るであろう」(湯浅泰雄 ユングとキリスト教 pp72~73 人文書院 1986年)

本論は、「浦島説話」とは「たましい(Psyche)の物語」と言い得ると考えている。馬養は、おそらく、そのような明確な意図を持ってこの説話を構想し、執筆したと考察する。彼が主人公を「一太宅之門」に導き、超越的次元の世界で神女と交合させたのは、陰陽統合のモチーフを、説話という形に転換させ、主人公の尊貴性を象徴的に表現しようとしたからであると考える。本論が、この説話を宗教経験を含む無意識の体験内容が反映されていると考えるのは、心理学的な観点からみると、ユングのいう本来的自己Selbstの概念を、説話という形式の中に見事に織り込んでいると考えるからである。

2010年8月18日 村山芳昭

性の心理学

「アニマ anima という言葉は「霊魂」を意味するラテン語の女性形から来ている。それは男性の無意識を全体として性的に色づけている心のエネルギーをあらわすものであって、多くは女性的性格をもつ心像として経験される。アニムスは逆に女性の無意識のあり方を示している。一般的に言えば、それは魂のエロス的原理と言ってもよいであろう。このアニマ・アニムスの考え方がフロイトの性欲説を継承したものであることはいうまでもない。ユングはこの点について、「私が性欲の価値を認めていないと考えるのは、一般にひろがっている思いちがいである。それどころか、性欲は私の心理学の中で、心の全体性のー唯一ではないがー本質的な現われとして大きな役割を演じている」とのべている(65)。後にいうように、ユングの精神史研究にとってこの問題は非常に重大な役割を果している。ただしユングの考え方は、次のような点でフロイトと非常にちがっていることに注意しなくてはならない。フロイトはエロスの問題を「性欲」という生物学的ないし動物的次元においてのみとらえようとしたが、ユングの場合、エロスはそういう次元だけでとらえられるものではない。それはより精神的また霊的な性質をもった領域とも深く関係している。フロイトは性を生物学的にのみとらえた結果、この問題がもつ歴史的文化的側面に対して全く注意を払っていない。しかしユングの場合、性は歴史的文化的に規定された形においてとらえられるべき問題なのであって、単に生物学的な問題ではない。なぜなら、あらためて言うまでもなく、ここで問われているのは性の心理学であって性の生理学ではないからである。ユングが特に関心を払っているのは性と宗教の関係である(66)。たとえば近親相姦の観念である。フロイトはこれを字義通りの生物学的意味に解釈することに固執したが、ユングはこの主題が多くの神話や古代人の宇宙観の中で重要な役割を演じていることに注目し、近親相姦という観念が宗教的意義を担った一種の象徴であることを指摘している。古代人が近親相姦をタブー視したのは、近代人が考えるような道徳的人間的理由によるものではなく、それが神々にのみ許されたー従って人間には許されないー神聖な行為とみなされたためである。たとえば古代エジプトの「王(ファラオ)」が近親の女性を形式上の皇后として立てたのは、王が神々の一人とみなされていたからである。神話学者が明らかににしたように、古代エジプト人にとって、王は人間の中でただ一人、神々と同格な存在であった。また、ユングは、神話や錬金術の中に現われる「母なる大地」とか「大地の霊」という観念が性的心像と結びついていることにも注意している。ユングの指摘をまつまでもなく、性は古くから宗教と密接な関係をもつ主題であった。世界のほとんどすべての未開宗教には性器崇拝の習俗が見出されるし、母なる大地の生産力をたたえる地母神信仰も多くの文明宗教の中に見出される。たとえばヒンズー教の神殿を飾る官能的な神像群を一見すれば、人は、インド文明の核心に性と宗教の不可分な結合が存在していることを容易に認めるであろう」(湯浅泰雄 ユングとキリスト教 pp66~68 人文書院 1986年)

ユングが、心理学の立場からみて性的主題の問題(「魂のエロス的原理」)を単に生物学的次元にとどめることなく「より精神的また霊的な性質をもった領域とも深く関係している」という認識を得たことの意味は非常に重要である。

本論は、「性は古くから宗教と密接な関係をもつ主題であった」という意味において「浦島説話」における性的主題(主人公と神女との交合)に注目している。このモチーフを陰陽合一の象徴表現と解しているのであるが、陰陽を生み出す母体は道教でいう太一、あるいは易でいう太極であるが、陰陽は相互に対立しつつも本来同祖同根なのである。この両者が結びつくことによって世界は生成を始める。つまり、心理学的に解するなら、陰と陽は近親相姦の要素が認められるという点に留意したい。

「近親相姦という観念が宗教的意義を担った一種の象徴であることを指摘している」ユングの心理学は、ある意味で「性の心理学」といっても過言ではないだろう。湯浅氏も指摘しているが「ユングの精神史研究にとってこの問題は非常に重大な役割を果している」(武田祐吉編『風土記』 岩波書店 1937年)の「玉匣」の注記「たまは霊魂を意味する。霊魂を斎ひ鎮めた箱で、人の魂の遊離することを防ぐのである」(p301)について既述したが、神女によって禁忌を課せられた「開けてはならない玉匣」に秘められた意味は、玉匣を開く=魂魄の分離(死して天に帰す魂と地に帰る魄は、陽と陰に照応)=死=男女の別離という象徴形式において関連性を認めることができるのではないだろうか。

本論はそのように考察する。

2010年8月22日 村山芳昭

相対時差という問題

『丹後國風土記』「逸文」が伝える「浦島説話」の内容が深層心理学の観点からみて大変興味深いのは、この説話が、さしずめ主人公の夢物語と解せなくもないからである。というのは、作中、3回にわたり主人公は眠りにつくのである。

1回目は、五色の亀を釣り上げた際、奇異に思いつつも船の中に置き「やがて寝ねつる」(即寢)に、五色亀は「忽ちに婦人と為りき」。

2回目は、蓬山に赴く際、女娘によって「目を眠らしむ」(教令眠目)。

3回目は、神女と別々の船に乗って異界を離れる際、「目を眠らしめき」(教令眠目)。

不可解なのは、異界で過ごした3年は、顕界では300年余りに相当するという点にある。この、相対時差という問題は、説話を際立って特徴づけている。

実は、相対時差は、我々が日常的に経験している主観的な心理現象でもある。例えば、眼が覚めた時に感じる睡眠時間の8時間は、日中に体験する8時間の時間経過に比べ、(別な言い方をするなら、無意識を含むたましい(Psyche)が感得する主観的な時間は、時計の針が指し示す物理的量としての客観的時間とは、)基本的に大きくその性質を異にする。前者のなんと短く感じることか。通常、夢見体験は、自我意識とは関わりなく、無意識の自律的な働きによって睡眠時に勝手に生起する。「逸文」が語る内容は、主人公の無意識の体験を描写した物語と考察することもできるのである。

古代人にとって、夢を含む無意識の体験は現代人の想像をはるかに超え、リアルで現実感覚を伴うものであったはずである。このような体験に対し、豊かな感受性と深い想像力を働かせつつ洞察することが、説話を読み解くうえで大切な要素と考える。

2010年8月25日 村山芳昭

死者を他界へと導く「船」

「往路も復路も船に乗ることになっている。しかも両度とも、眠っている間に往来したことになる。人界と仙界とは、本来隔絶しているとされるので、物語の筋としても、このような配慮が必要であろう。なお嶼子の原像かとも察せられる伊勢外宮の豊受大神は、『延喜式』「大殿祭祝詞」の中に「屋船豊宇気姫命」として、船に関係づけられていることに注目される」(重松明久 浦島子伝 p20 現代思潮新社 2006年オンデマンド版)

“死”は「浦島説話」を彩る重要な主題であると、本論は考えている。この説話は、主人公の死を語る哀切に満ちた物語として読むことも可能である。

異界との往来にいずれも「船」が用いられていることには注意を払う必要がある。「船」は死者を他界へ導く乗り物でもある。被葬者が船形石棺や船形木棺に納められて埋葬されることも多かった。

円環的時間表象を象徴すると解せる十二支像、東西には太陽と月、そして天上の星宿に囲まれ、船形木棺に身を沈める人物を想像し、説話を構想する馬養の姿が思い浮かぶのである。

2010年8月26日 村山芳昭

「浦島伝説の本質的性格」

「浦島伝説の本質的性格を、神婚説話であることに認め、その原型は、『万葉集』のものと『風土記』のものに代表されるとしたのは久松潜一氏である(1)。久松氏によれば、この説話の本源はいかなるものであるかは容易に定め難いが、長生と、美女との歓楽という、二つの人間固有の欲望を、空想的に創造した仙境滞留説話であるといわれる」(重松明久 浦島子伝 pp174~175 現代思潮新社 2006年オンデマンド版)。

「神やそれに準じる者と人間の通婚を主題とする神婚譚。同様の主題は説話ばかりでなく神話・伝説・昔話にもみられ、世界各地で確認されている」(日本史広辞典 山川出版社)。神婚というモチーフが世界各地で見られる普遍的な要素であるという点が、深層心理学の観点から考察すると興味深い。ユングが説く集合的無意識、元型といった概念は、こうした現象を合理的に説得力をもって説明することを可能とする。ユングが精神科医として、長く患者と向き合って治療にあたり、つまり実践を通してこうした概念を構築したところに大きな意味がある。

存在次元を異にする二つのものの合一ということの心理学的意味を問うことが、「浦島説話」を読み解く重要な鍵を握っていると本論は考えている。

2010年9月3日 村山芳昭

結合の神秘

「ユングは『結合の神秘』の中で、集合的無意識というものを、錬金術の用語を使って、一なる世界(ウヌス・ムンドゥス Unus Mundus)と言っております。ウヌス・ムンドゥスは、物の世界が人びとにとって共通に認識できる「ひとつの宇宙」であるのと同じように、心(たましい)の内側からその一端を覗くことのできる、隠れた別の「ひとつの宇宙」なのです。つまり全体としての宇宙と人間というものは、物の面だけでなく、心の面でも共通した個体を超えた秩序によって結ばれている。われわれひとりひとりは、そのような世界の力によって動かされるひとつの客体にすぎないのだということです。ですから彼は、超心理学の研究のやり方に対してしばしば批判的な見解を述べているのですが、それは要するに、そこで起った結果というものだけを考えていたのでは、方法論的にみて従来の科学的世界観から脱してしない、ということです。超常現象の考察に当って大事なことは、そこからどのような新しい人間観と世界観が出てくるのかということ、したがって従来の科学観の見直しが必要になってくるということなのです」(湯浅泰雄 宗教と科学の間 pp72~73 名著刊行会 1993年)。

世界を「陰」と「陽」との相対的関係性から説明する易の世界観は、ある意味で、ユングが研究に没頭した錬金術の心理学的側面からのアプローチによって理解することを可能にする。ユングが易の世界観から豊かな示唆を得ることができたのは、錬金術の研究と不可欠である。陰と陽は、二元的でありながら、一元的なものに収斂される“ただ一つのもの(状態)=太極(太一)”なのである。おそらくこの状態を科学的に検証し論証(数量化、数値化、数式化)することは不可能なのではないだろうか。

湯浅氏は「ユングは、超常現象というものは本来、従来の近代科学の方法やそれに基づいた世界観・人間観を改める必要を示しているのだ、と言うのです。そしてそこから、近代以来の世界観や人間観の変革が生まれてくるのだ、と言うのであります」と指摘している(前掲書 p73)。

「浦島説話」と向き合うには、たましいの不死を確信していた古代人の心性を深く理解する必要がある。その前提なくしては、作者の隠された意図を紐解くことはできないと思う。

それには、近代の科学的世界観から脱した、別の観点からの考察が求められると思うのである。説話で語られる異次元での神女と主人公との交合というモチーフは、超越的な結合の神秘そのものにほかならない。それは錬金術でいう「一なる世界(ウヌス・ムンドゥス Unus Mundus)」の表現形式の一つであると考える。

2010年10月1日 村山芳昭

たましい(Psyche)の構造と機能

湯浅泰雄 村山芳昭 ある女性臨死体験者の心理的体験の記録 (1) 人体科学第7巻第1号 1998年5月

湯浅泰雄 村山芳昭 ある女性臨死体験者の心理的体験の記録 (2) 人体科学第8巻第1号 1999年5月

装飾古墳

装飾古墳データベース (九州国立博物館)

古代人からのメッセージ・装飾古墳の謎(熊本県インターネット放送局「Movie くまもと」)

「浦島説話」と深層心理学

「夢は無意識に至る王道」と言ったのはオーストリアの精神分析学者・ジクムント・フロイト(1856~1939年)である。

「逸文」が語る「浦島説話」が深層心理学の観点からみて興味深い研究課題を含んでいるのは、主人公が①五色亀を釣り上げて間もなく、②天上仙家の神女と蓬山に赴く際、③異界から戻る際、合わせて3回眠りについていることである。いわば、この説話は主人公の夢物語と解せなくもないことにある。

釣り上げた亀が神女に変身する。神女と訪れる異界は、超越的、幻想的な世界である。海中世界ともとれるが、天界ともとれる記述が成されている。神女とともに「一太宅之門」に入った主人公は、大勢の人に歓待され、贅沢な酒食のもてなしを受ける。やがて、二人だけになると、主人公は神女と「夫婦之理」を成す。めくるめく官能的な世界を体験する主人公。しかし、そこは次元を異にする聖なる他界であった。彼は、別れ際に神女から決して開けてはならないという「玉匣」を手渡される。超越的世界で過ごした3年が、地上に戻ってみると300年余に相当していたことを悟る主人公。 絶望し、自分を見失った主人公は、神女との約束すら忘れ、「玉匣」を開けてしまう。

その結末は・・・

この説話は、悲しい結びで幕を閉じるのである。

荒唐無稽な内容ではあるが、夢の体験と解すならば、あり得ない話ではない。奇妙で不可思議な夢を体験しない人はいないはずである。非合理と無意識は、密接不可分な関係にある。

フロイトの理論をさらに発展させ深化させたスイスの精神科医であるC・G・ユング(1875~1961年)は、意識と無意識を含めたプシケ(Psyche)が実に多様な内容を含むことを説いた。男性と女性に象徴される「対立物の結合」という主題は、彼の心理学の核を成す重要なテーマである。

「浦島説話」が深層心理学の研究対象として興味深いのは、まさに「対立物の結合」というモチーフが描き込まれている点にある。象徴表現は、無意識の特筆すべき特徴である。

Psyche(プシケ)について

湯浅泰雄氏は「ユングはプシケ(意識―無意識の全体)には時間―空間の規則に従わない因子が潜在していると言い、それは永遠(時間に関して)と遍在(空間に関して)という性質をもつ、と言っている。彼はここで、プラトンのいう世界霊魂 annima mundi の考え方をあげているが、これはプラトン後期の『ティマイオス』という対話篇にみえるデミウルゴス(工作者としての神)の宇宙創成の物語をさしている。プラトンによると、デミウルゴスは天上の善美のイデア界を仰ぎ見て、それをモデルにして、混沌とした質料に形を与え、その全体(世界)に霊的な息を吹き込んだ、という。プラトンはむろん、これは神話的なお話だと断って語っているのであるが、ケプラーの宇宙モデルの歴史的源流はここにまでさかのぼることができる。つまり、世界は霊的息吹きにみちみているというモデルである」と指摘している(湯浅泰雄著・訳 ユング超心理学書簡 p202 白亜書房 1999年)。

湯浅氏は、ユングのいうPsyche(プシケ)を「たましい」と訳している。氏は「この言葉は、「心」と訳しても「精神」と訳しても収まりがわるい。プシケは意識と無意識の全体をひっくるめた表現である」と指摘している(湯浅泰雄 ユングと東洋 上 p15 人文書院 1989年)。

「浦島説話」で主人公が体験する超越的な世界は、「たましい」の体験として考察してみると新たな認識を得ることができる。この説話が深層心理学の観点からみて興味深いのは、「たましい」のはたらきに関与する現象が語られているためである。

2010年10月14日 村山芳昭