文責:村山芳昭 2008.11.01

道教

道家の名のもとに神仙道と天師道とを混合し、さらに民間信仰を包含して仏教と儒教の教義と儀式を融合したもの。老子を神格化し、長生昇天を教旨とし、消災滅禍のため、あらゆる方術を行なう」(P.7)、「合理主義的孔子の儒教に対し、道教は神秘主義的、隠遁・瞑想の老子をたて、呪術による病の調伏や自然力の支配を説く」(p.7)、「中国古来のシャーマニズム的呪術信仰[鬼道]を基盤とし、その上部に儒家の神道と祭祀の儀礼・思想、老荘道家の「玄(げん)」と「真(しん)」の形而上学、さらに仏教の教理・儀礼などを重層・複合的に採り入れ、隋唐時代に教団としての組織と儀礼と神学とを一応完成するに至った、“道(タオ)の不滅”と一体になることを究極の理想とする中国民族の土着的・伝統的な宗教が道教である。

福井康順ほか監修 道教 第一巻 道教とは何か p.9 平河出版社 1983年

「神仙思想」と「三神山」

古代中国には三神山という伝説上の神山があった。・・・渤海には蓬莱山、方丈山、瀛洲山となっていた。この一つ蓬莱山は山東半島のはるか東海にあり、不老不死の仙人が住む仙境だと紀元五世紀頃に神仙術を行なう方士が説き、そこにある神薬を入手しようと燕、斉の諸王はこの山を探した。海岸からそう離れていないとされる二山は近づくと風波が起こり船を寄せつけない。そこで望みを蓬莱山にしぼって秦の始皇帝は方士の徐福を遣わした。おそらく幻の山は蜃気楼だったのだろう。司馬遷の『史記』にあるこの話、日本にも早くから伝わり、蓬莱山は理想郷として詩歌や絵画の題材とされ、園庭様式にも取り入れられ、やがて正月の祝儀に用いる蓬莱飾りになり、これには必ず鶴亀が関係してくる

矢野憲一 亀 p.189 法政大学出版局 2005年

「易」

『易』は、大宇宙と小宇宙を一貫する「道」を明らかにする哲学、中国のことばでいう天人之学である。・・・『易』の名称は何を意味するか。後漢の許慎が西暦121年に著わした、中国ではほとんど最初の字書、『説文解字』によれば、易は蜥蜴である。トカゲの象形である。それがなぜこの書物の名になるのか。明の楊慎(1494-1533)の説では、トカゲは体の色がよく変わる(つまりカメレオンである)。そこで易の字にカワルの意味が生ずる。ところで『易』という書物は天下の千変万化を現わす故に、この色の変わるトカゲを名としたという(『升庵外集』巻24)。『説文解字』はまた異説として、易とは日と月を組み合わせた字だという。『易』の哲学が陰陽の二元論であるところから、陽の代表として日を、陰の代表として月をとったというのである。・・・『易』という書は、このかわりつつ、かわらないものを、象徴と数によってたやすく示してくれる。

本田濟 易 pp.6~7 朝日新聞社 1997

易は「六義にて成る」というが、その六義とは、変・不変・簡・象・数・理の六つを指す。このうち、変・不変・簡は、規則であり、象・数・理は、いわば宇宙原理を認識するための方法である。変とは「変易」であって、宇宙の変転の理を説くものである。即ち、宇宙森羅万象は一瞬の間も止まることなく運行し輪廻するが、この変転極まりない相(すがた)を宇宙の実相として捉えるのである。不変とは「不易」ということで、宇宙の変転極まりない実相の中に、また永久不変の理をみるわけである。

吉野裕子 十二支 p.275 人文書院 2000年

一年の構造を示す易の卦は十二消息の卦である。消は陰が消えてゆくこと、息は陽が伸びてゆくことである。この陰陽の消息は、冬至をふくむ「子」、夏至をふくむ「午」を軸とする軌(みち)である。即ち子から午は日ざしののびる陽の軌、午から子は日脚の短くなる陰の軌である。この陰陽の消長によって四季の順当な循環も期待することが出来、この消長の卦は、伊勢神宮祭祀から・・・厄年に至るまで日本人の信仰、あるいは俗信の中に広く深くとり入れられているわけである。

吉野裕子 易と日本の祭祀 p.59~60 人文書院 1999年

陰陽五行思想の渡来

陰陽五行思想は大陸からはやく日本に渡来し、その時期はおそらく文字移入の原初にまでさかのぼるかと思われるが、もちろんはっきりしたことはわからない。しかし次のようなことはおよそ想像がつく。正史に記載の暦本の初めての渡来は、欽明天皇14年の紀元553年。降って推古天皇10年の602年には百済僧観勒による暦本・天文地理・遁甲方術書の移入があった。そこで日本に入った陰陽五行思想の歩みは、7世紀初頭まではやや緩慢であったが、640年頃、南淵請安、高向玄理らの学僧や、留学生の帰朝後は急速に浸透し、ことに663年、百済滅亡の結果、多数の百済亡命者を迎えた天智朝に至ってその様相は一変し、さらに次の天武朝に及んで陰陽五行思想の盛行は、その頂点に達したと思われるのである。

吉野裕子 持統天皇 P.234  人文書院 1999

太極と陰陽二元

陰陽二元以前に存する原初唯一絶対の存在、「混沌」を、易は「太極」とするのである。この太極から発生した陰陽二元は、相対的存在であって、そのもの自体に万物を発生させる力はない。ただ、陰陽が合するとき、はじめて生成が可能となる。つまり万物発生の端緒は、陰陽二元の交合にあり、また宇宙間の万物は一瞬の間もその活動を停止せず、千変万化する。

吉野裕子 持統天皇 p.240 人文書院 1999

陰陽の根本原理

原初、宇宙は天地未分化の混沌たる状態であったが、この「混沌」の中から光明に満ちた、軽い澄んだ気、つまり「陽」の気がまず上昇して「天」となり、次に重く濁った暗黒の気、すなわち「陰」の気が下降して「地」となった、という。この陰陽の二気は、元来が混沌という一気から派生したもので、いわば同根の間柄である。そこで陰陽二気は、互いにひきあい、親密に往来し、交感・交合する。陰陽五行において、もっとも重要な根本原理は、この●天地同根、●天地往来、●天地交合、の三つである。これをもう少し詳しくいえば、天と地、あるいは陰と陽は互いにまったく相反する本質をもつが、元来が同根であるから、互いに往来すべきものなのである。更に本質を異にする故に、反って互いに牽きあって、交感・交合するものでもある。

吉野裕子 持統天皇 p.p 235~236 人文書院 1999年

「五行」

地上には陰陽の二大元気の交合の結果、木・火・土・金・水の五原素、あるいは五気が生じた。この五原素の輪廻・作用(はたらき)が「五行」である。くり返していえば、五行の「五」は木火土金水の五原素、あるいは五気をさし、「行」は動くこと、廻ること、作用を意味する。要するに、五原素の作用・循環が五行なのであって、・・・一日の朝・昼・夕・夜も、一年の春・夏・秋・冬の推移も、すべてこの五行なのである。ところで、この陰陽五行の基をなすものが、「易」の陰陽思想である。

吉野裕子 持統天皇 p. 237 人文書院 1999年

五行とは、万物を生成するもとであり、人の道の始めである。天地間のあらゆる物は五行の変化を受け、全ての霊は五行に感じそれに通ずることによって生ずる。五行は、陰・陽にもとづき、精霊と形体に散らばり、天と地に周くゆきわたり、鬼神の世界と人間の世界におよんでいる。子午・卯酉を経緯とし、八風・六律を網紀とする。だから天に五度があり、それにより象(かたち)をあらわし、地に五材があり、それにより用(はたらき)をたすけ、人に五常があり、それにより徳をあらわす。ありとあらゆるものは、全てを五をもって基準とするのである。そして、この五を超えると、数は変化する。まことに五行は、木火土金水の気の働きをたすけ、等しく春夏秋冬を調和させる。

五行大義 上 pp46 中村璋八、古藤友子 1998.1 明治書院

日本人には哲学がないといわれる。果してそうであろうか。稲作民族にとっては最も重要な時間の単位は一年である。私見によれば日本人は古来、中国古代哲学の易・五行によって、この重要な一年という時間をも構造化し、その四季の順当な推移を、人間の側からも促し続けて来ているのである。換言すれば、四季の推移も自然に任せきりにすることなく、その折目節目に、祭り、年中行事を配置して、その調整に心をくだいている。その四季の推移が、即ち「五行循環」である。・・・・・一年の五行循環とは、木・火・金・水の四気を、春・夏・秋・冬の四季に配当し、この各季の中間に土気を置いて、四季の廻りを促す術の謂(いい)である。その状況は正月行事にもっとも顕著であるが、正月とはつまり寅月。この寅月は年始であると同時に木気の始め、及び火気の始めでもある。

吉野裕子全集 第9巻序文より 五行循環 十二支 2007.11 人文書院

五行循環と五徳終始

最初の陰陽家の哲学は疑いもなく、シャーマニズム哲学の起源だった。それは自然の世界に対する最も大ざっぱな認識の理論であり、それ以前の神霊・天・地・人に関する最も一般的、原始的な経験を総合したものだった。それは戦国時代に発展して陰陽五行学派となり、『漢書』芸文誌では、当時の「九流」のひとつに数えられている。戦国時代の最も著名な人物は鄒衍(すうえん)と鄒奭(すうせき)であった。漢代にはすでに、かなり影響力のある思想流派へと発展していた。『漢書』芸文誌の記載によれば、当時の陰陽家の著作は二十一家、三百六十九篇もあったという。その内容は、陰陽と四時、八位、十二度、二十四時を尺度として自然界の変化を測り、陰陽を自然界から社会の分類と変化まで広げた。五行によって自然の万物を区分し、人類の社会も木・火・土・金・水という五種類の勢力の支配を受けていると考えた。「五徳は終始する」「五徳は転移する」という学説を打ち出し、五行を「五徳」と称し、それが各王朝を代表するとして、王朝の盛衰と社会や歴史の変動を無理にこじつけて、社会変化の循環論を宣伝したのだった。

漆浩 (池上正治訳) 中国養生術の神秘 pp.107~108 出帆新社 1999年

陰陽説と五行説

ジョセフ・ニーダム(『中国の科学と文明』の著者)は、陰陽論について『「中国の陰陽論はペルシャのマニ教的善悪二元論ではなく、互いに切り離すことのできない有機的哲学であり、その働きと存在は、物質の精製の過程の中で、外見上どちらか一方が優勢に見えようとも、正と負はやはり結合したままにある。陰陽的思考とは、ある時は一方が、ある時は他方が、波のように継続的に優勢となる作用の過程をいうのである」と。五行説については、「ギリシャの元素説と五行説の関係について、多少の相似性があるにしても、相違こそ強調すべきである。従来西欧の研究者が五行をエレメントと訳してきたが、本来運動を意味する行の訳語としてはふさわしくはなかった。五行説とは、事物の基本的性質、つまり事物が変更を受ける時のみに現れる性質を暫定的に分類しようとする努力であった。五行の行とは、永遠の循環運動を行う五つの強力な力をいい、単に受動的で運動のない、エレメントという基本的物質を意味するものではない」と述べている。

根本光人監修 陰陽五行説―その発生と展開― p.248 薬業時報社 1991年

「陰陽五行」

陰陽五行は古代中国の宇宙観・世界観であるが、確乎とした法則の上に成り立っている科学でもあって、古来、中国の文化現象、即ち政治・宗教・信仰行事・医学・薬学・農業から民俗諸行事に到るまで、この法則の基礎の上にはじめて動き出している、とみて殆ど間違いない。この隣国の古代哲学は、日本にも確実に招来され、その証しの最大のものは日本の正史たる『日本書紀』の冒頭の記述である。そこにみられるものは陰陽五行の精髄そのものであって私どもの先人たちが如何に深くこの哲学に傾倒していたかがよく窺われる。

井上聰 古代中国陰陽五行の研究  pp1-2  1996.3  翰林書房
「古代中国陰陽五行の研究」の上梓に寄せて(吉野裕子)<抜粋>

陰陽五行の内容は複雑で、これは宇宙間の原理・原則を有形無形を問わず、あらゆる事象事物のなかに見出し、それに則った行為・行動を時に己自身にも課する実践哲学である。

吉野裕子:陰陽五行と日本の天皇、p.81、人文書院、1998

古代中国人は世の始まりを唯一絶対の存在、「混沌」として把握した。これは根元的一大元気、即ち「気」であって、そのなかに全く性質の相反する「陽気」と「陰気」を内在させている。この陰陽二気の顕在化が、「天」「地」であるが、その成立については次のように説かれている。即ち、清明の「陽」の気は先ず上昇して天となり、ついで重濁の「陰」の気は下降して地となった、というのである。この陰陽二気の本性は全く相反するものではあるが、元来、根元の大元の気から派生したものなので根は一つ、同根である。その結果、互いに往来し、交合して、万物を生ずるのである。従ってこの哲学は一元にして二元、二元にして一元の宇宙観であって、これを単純に一元思想、或いは二元思想というのは当たらない。「混沌」を根本とする陰陽二気は、同根にして且つ相反する性質故に、互いに牽き合って相合し、交感交合して、そこから一切の生成の作用が動き出す。

吉野裕子:十二支~易・五行と日本の民俗~、pp.126~127、人文書院、2000

四神とは四方を守護する、禽獣である。東は青竜、西は白虎、南は朱雀、北は玄武を守護神とする。中央に黄竜を配して五神とする場合もある。我が国では薬師寺の本尊の台座に刻まれたものが、よく知られていたが、1972年春、高松塚古墳の壁画が発見されて以来、色彩を施された男女群像とともに、天井の星宿図とこの四神図が注目を集めるところとなった。・・・・・この四神の成立はあまり定かではないが、『准南子』の「天文訓」や「兵略訓」ではすでに確立しているので、戦国後期から前漢初期の頃と考えてよいと思う。また四神のうち、玄武だけが蛇と亀交合図として表されていることに対し、一説には禽獣の数を五行に合せたためではないかとも言われている。

陰陽五行説 その発生と展開 P72 監修/根本光人 著者/根本幸夫・根井養智 薬業時報社

干支と易(陰陽)・五行思想

『紀』編纂事業の発端は681年であるが、『紀』には十干十二支の組み合わせである干支の紀年法が用いられている。今日、「えと」というと単に十二支の意味で用いられることが多いが、本来「えと」とは、十干の「干」と十二支の「支」とが組み合わされた「干支」のことをいう。干支は中国古代哲学の陰陽五行思想と深く結びついている。陰陽五行思想は、陰陽二気の相互作用から生じる木・火・土・金・水の五元素(気)の生成と消長によって森羅万象の変化を説く。五行は相生、相剋(相勝)という相互関係から成り立っている。相生関係は、木は火を生み(木生火)、火は土を生み(火生土)、土は金を生み(土生金)、金は水を生み(金生水)、水は木を生む(水生木)という関係で無限循環する。また、これとは反対に相剋(相勝)関係は、木は土に勝つ、土は水を剋し、水は火を剋し、火は金を剋し、金は木を剋する。土から養分を吸収する木(木剋土)、水をせきとめる土(土剋水)、火を消す水(水剋火)、金属をも溶かす火(火剋金)、木を切り倒す金属(金剋木)という関係である。共に生かし合う相生と、相互制約の相剋(相勝)という相反する二つの原理である。

村山芳昭 「浦島説話」と易(陰陽)・五行、讖緯思想 pp128~147 東アジアの古代文化119号 2004年・春 大和書房

『天人相関』

催眠療法の創始者とされるアントン・メスメルが、1766年にウィーン大学で取得した学位論文のタイトルは「遊星ノ人体ニ及ボス影響ニツイテ」というもので、18世紀当時の医学では、人体(ミクロコスモス)と宇宙(マクロコスモス)の照応という考え方が学問上の議論の対象として残されていたことがうかがえる。人体と大宇宙との照応という思想は、中国道教の修行法にもみえる。気を体内に循環させる「小周天」とよばれる内丹の技法がある。周天という言葉は、もともと中国天文学の用語で黄道を意味した。ここには人体が大宇宙と照応するミクロコスモスという見方が反映されている。

2008年11月1日 村山芳昭

ローマ神話で「月の女神」であるルナの英語表記Lunaは、ラテン語で「月」をさすことに由来する。夜の闇に輝く月の光は、女性的なイメージを持っている。「精神に異常をきたした」を意味する英語のlunatic の原義は、ラテン語で「月に影響された」という意からきている。月の発する霊気が、人を狂気に導くと信じられた時代があった。精神の病の発症について、現在でも春の芽吹きの時、秋の草枯れの時といった表現が使われることもある。四季の変化は天体の運行と関連している。精神病院はmental hospital と表記するのが一般的であるが、かつてはlunatic asylumともいった。形容詞lunar は、「月の作用による」の意味もある。目には見えなくとも、人間の精神と月との間には密接な関係があるとする考えは昔から根強く存在している。

2008年11月1日 村山芳昭

『讖緯(しんい)思想』と『天人相関』

吉凶は糾える縄のごとし、という言葉があるが、「瑞祥は災異と対の観念で、易(陰陽)・五行思想に基づく讖緯思想の根幹をなしている。未来予言に関わる神秘主義思想である讖緯説は、地を治める天子の政治と自然現象の間の相関を説く。悪政が続けば、地震や雷雨など天変地異の災異現象が現れ、為政者は交替を余儀なくされる。」古代中国の世界観には、人事百般には見えざる天の意思が反映されているとみる天人相関思想の考えがあった。

村山芳昭 国史編纂と易(陰陽)・五行、讖緯思想の哲理-その象徴的意味と深層心理学的理解を含む一考察- 東アジアの古代文化 2008・夏 136号 p232 大和書房

「風水」

晋の郭璞(かくはく)によれば「『風水』とは『蔵風得水』に由来し、蔵風とは風をおさえることなので、風をおさえ水を得ることがその根本義である。死者の陰宅(墓)も、生者の陽宅(住居)もこの風水の理に適う処が吉地と相される。

吉野裕子:持統天皇~日本古代帝王の呪術~、p.216、人文書院、1999

二十八宿と四神

高松塚の星宿(星座)は、西洋の星座とはまったく別物で、はるか古代から中国人が考えてきたものであります。二十八宿というのは、天の赤道にそって全天を二十八に分割しまして、その付近にある顕著な星座をそれぞれ一つずつ選んで定めたものであります。二十八は、月が天を一周する期間(恒星月)の二十七日余の端数を切り上げたもの。つまり、二十八宿は、夜ごとに宿る月の位置を知る必要から考え出されたものであり、日月五星(五惑星)の天球上における位置や運動を示すための中国天文学の基本星座であります。二十八宿はまた古来、高松塚のように東北西南の順で七宿ずつに区分されております。しかも、この七宿ずつを具象化した総称が、四神であります。四神は四方を守る神ですが、もともとは、東方七宿の総称が青竜で、北方七宿が玄武、西方七宿が白虎、南方七宿が朱雀なのです。つまり、二十八宿と四神とはもともとは同じものなのです。

有坂隆道 古代史を解く鍵 p.191 講談社 1999年

史跡・資料

高松塚古墳とキトラ古墳

キトラ壁画では唐の影響である人物群像が描かれていないが、高松塚古墳では、四神図像と人物群像が一体となって表現されている。大宝元(701)年には、四神の旗をかざした朝賀儀式が定められ、『貞観儀式』には舎人・蔵部・掃部らのもつ威儀物が記されているが、高松塚壁画の太刀・如意・払子などの持物と一致する(岸俊男「文献史料と高松塚壁画古墳」『壁画古墳高松塚』)。高松塚古墳に人物群像が表現されるようになったのは、大宝元年に再開し、704年に帰国した遣唐使(粟田真人ら)とかかわる。つまり当時唐の長安城で見聞した他界観、葬送儀礼・壁画表現などがもとになった可能性があろう。

東 潮 高松塚・キトラ古墳と東アジア p.113 東アジアの古代文化100号 大和書房 1999年

高松塚古墳

国営飛鳥歴史公園ホームページ

キトラ古墳

国営飛鳥歴史公園ホームページ

高句麗古墳群

壁画には4世紀ごろの生活風習や奈良の高松塚古墳と似た女性像が描かれたものもあり、高松塚やキトラ古墳の壁画のルーツではないかとの見方もある。

社団法人 高句麗研究会

道教的信仰と人形木製品

市原市埋蔵文化財調査センター 浅利幸一

「浦島説話」と易(陰陽)・五行、讖緯思想

村山芳昭 pp128~147 東アジアの古代文化119号 2004年・春 大和書房

宇宙原初の次元を体現した主人公

拙論『「浦島説話」と易(陰陽)・五行、讖緯思想』では、「浦島説話」の原作内容を知る手掛かりとなる始原の三書のうち、特に『丹後國風土記』「逸文」の伝える内容について、易(陰陽)・五行、讖緯思想、道教の中核を成す神仙思想との関係という観点から検討した。漢籍に通暁していた原作者・伊預部馬養連は、とりわけ、こうした思想哲理の知識を背景にしながら、象徴や寓意、暗喩、比喩、暗示といった表現手法を駆使して、重層的な構造を折り込みながら主人公の悲劇的最期について“説話”の形にまとめあげ、創作したと考察する。この説話が「水の理」で埋め尽くされている点について指摘したが、五行思想の観点に照らせば、「水」は尊貴性を象徴するもので、馬養は、説話の主人公を貴人として設定したと考えられる。この説話が道教、易(陰陽)・五行思想と密接に結びついているとみる立場からいえば、「一太宅之門」という記述には特に注意を払いたい。作者は「太一」と読み替えることを企図して「一太」と表現したと思う。その根拠として、神女が嶼子に語りかける「共天地畢、倶日月極」という言葉がある。『呂氏春秋』「大楽篇」に「太一、両儀を生じ、両儀、陰陽を生ず」とみえる。また、『易経』「繋辞伝」に「易に太極有り。これ両儀を生じ、両儀は四象を生じ、四象は八卦を生ず」とあるが、両儀とは天地、日月、陰陽といった象徴表現で示される。「太一」「太極」は、いずれも天地万物の根源を象徴するもので、陰陽統合のシンボルである。「一太宅之門」の「一太」を「太一」と読み替えるのは、主人公と神女との「成夫婦之理」、つまり男女交合の性的モチーフが語られるからである。この世界は、全て相反する二つの原理の相対的な関係性のもとに成立している、とみるのが易の世界観で、陰陽一対とはその象徴表現である。天と地、太陽と月、昼と夜、光と闇、能動的なるものと受動的なるもの、男性的なるものと女性的なるものとは、対立しつつも本源において同根であるとみる。両者を結びつけたものが「太一」「太極」にほかならない。

池田末利氏は「太一」について「思想的には老子の(一を得る)以外の何ものでもないであろう」と指摘している(道教事典 p359 平河出版社 1994年)。嶼子との別離の際、神女が涙ながらに語りかける場面があるが、そこに「棄遺一時」という表現がある。男女交合を陰陽統合の象徴表現とみるなら、「一」なる時を「棄遺」するという言葉の意味は、前述の「一を得る」の「一」に通じると解釈できるであろう。池田氏は「道教では、太一を万神の宗主として」あるいは「天地統一者の太一」という表現もしている。この説話は神仙思想の影響を色濃く反映しているが、不老不死の神仙という概念は、道教の中核をなす思想でもあり、老子は仙人の祖と位置づけられてもいる。室町時代に成立した御伽草子の「浦島説話」では、主人公は異界で四方四季という奇妙な体験をする。この表現は、円環的時間体験と換言することができよう。これは我々が日常的に体験する物理的時間とは性質を異にするが、この記述は、「逸文」の「一時」を、異なる言い回しで表現したといえるであろう。四方四季を同時に体験するという表現は、過去・現在・未来が未分の状態で溶け合い、「一」なる時に畳み込まれた状態と解することもできる。こうした体験は、宗教経験などとも深い関わりを持っている。予知夢といった無意識の体験、つまり深層心理学的な観点からも重要な研究課題を含んでいると思われる。

「一太宅之門」をくぐり、そこで男女の交わりを描くストーリーは、馬養が、主人公を宇宙原初の次元の体現者という設定のもとに構成したと読み込むのである。主人公は、天地統合者としての資格を有する貴人であったと解する。

天皇の即位、大嘗祭、蕃客朝拝、元日朝賀といった重要な国家的大礼が行なわれる際、天皇が出御し政務をとったのが大極殿であるが、元来は太極殿といった。「名称は唐の長安城の太極殿に由来し、日本では律令制度が整備される藤原宮の時代にはじめて成立したとみられている」(日本史広辞典 山川出版社)。

「浦島説話」を伝える始原の三書のうち、『日本書紀』と『丹後国風土記』「逸文」の二書は、この説話誕生の源流を雄略朝の治世としている。丹波の地に伝承されていた説話の内容を採録し、一つの作品として創作しまとめあげた人物は、七世紀末、藤原宮の時代に活躍した官人・伊預部馬養連である。本論は、説話の主人公が尊貴性を帯びた人物像として描写されていると考察するが、主人公が訪れる「一太」宅と、太一、太極とは深く結びついていると考える立場からすると、「太極殿」の名称成立の端緒が藤原宮の時代に求められるということに留意したい。馬養によってまとめられた「浦島説話」の成立時期(西暦700年前後)と雄略22年(西暦478年)とは220年以上の時の隔たりがある。仮に1代を20年と想定すれば、11代余り遡ることになる。この説話誕生の端緒は、雄略朝の治世に求められるということになってはいるが、馬養は、彼が生きた時代を強く意識しつつ、この説話を創作したのではないかと考えるのである。

村山芳昭 pp128~147 東アジアの古代文化119号 2004年・春 大和書房
2009年7月11日 追記 村山芳昭