文責:村山芳昭 2008.11.01

目次

『万葉集』の「浦島説話」

詠(二)水江浦嶋子(一)一首 并短歌
春日之 霞時尓 墨吉之 岸尓出居而 釣船之 得乎良布見者 古之事曾所レ念
水江之 浦嶋兒之 堅魚釣 鯛釣矜 及(二)七日(一) 家尓毛不レ來而
海界乎 過而榜行尓 海若 神之女尓 邂尓 伊許藝趍
相誂良比 言成之賀婆 加吉結 常代尓至
海若 神之宮乃 内隔之 細有殿尓 携 二人入居而
耆不レ爲 死不レ爲而 永世尓 有家留物乎 世間之 愚人乃 吾妹兒尓 告而語久
須臾者 家歸而 父母尓 事毛告良比 如(二)明日(一) 吾者來南登 言家礼婆
妹之答久 常世邊 復變來而 如レ今 将レ相跡奈良婆 
此篋開勿勤常 曾己良久尓 堅目師事乎
墨吉尓 還來而 家見跡 宅毛見金手 里見跡 里毛見金手 恠常 所許尓念久
従レ家出而 三歳之間尓 垣毛無 家滅目八跡 此筥乎 開而見手歯
如レ本 家者將レ有登 玉篋 小披尓 白雲之 自レ箱出而 常世邊 棚引去者 立走
叫袖振 反側 足受利四管 頓 情消失奴 若有之 皮毛皺奴 黒有之 髪毛白斑奴
由奈由奈波 氣左倍絶而 後遂 壽死邪流 水江之 浦嶋子之 家地見
反謌 
常世邊 可レ住物乎 釼刀 己(之)行柄 於曾也是君

小島憲之ほか校注・訳 万葉集② 新編日本古典文学全集7 小学館 1995

『万葉集』の「浦島説話」解説

「春日之 霞時尓」

『万葉集』は「浦島説話」の原作内容を知る手掛かりとなる始原の三書のうちの一史料である。

長歌と短歌一首が『万葉集』巻九に収載されているが、作者は高橋虫麻呂である。彼の生没年は不詳であるが、「719年(養老3)前後の藤原宇合の常陸守時代にその下僚となり、以後宇合の庇護を受けたとされる」(日本史広辞典 p1330)ことから、成立は、おそらく馬養の原作内容を知ったうえで後に詠まれたものであることは間違いないであろう。

書き出しは「春日之 霞時尓」(春の日の 霞める時に)である。

『日本書紀』「雄略紀」収載の「浦島説話」が時を「雄略22年(西暦478)秋7月」としているが、『万葉集』は季節を春としている。

「霞」について、広辞苑は「①微細な水滴が空中に浮遊するため、空がぼんやりして遠方がはっきりと見えない現象。古くは、春秋ともに霞とも霧ともいったが、後世は、春のを霞、秋のを霧という」「②朝または夕、微細な水滴が、日光を受けて、空の赤く見えること。あさやけ。ゆうやけ。和名抄「霞、加須美、赤気雲也」」とある。

この場合、「春日」としているので、春の霞であることがわかる。時間帯は朝か夕か、この記述だけでは判別できない。

「墨吉之 岸尓出居而」

「浦島説話」原作内容を知る手掛かりとしての始原の三書では、説話の舞台を異にする。

『日本書紀』は「丹波國餘謝郡筒川人」と記し、『丹後國風土記』「逸文」は「與謝郡日置里筒川村」とするが、『万葉集』は「墨吉」とする。

「墨吉」については、見解に諸説がある。重松明久氏は『浦島子伝』で「墨吉」について詳細な「注」を設けて次のように触れている。「『万葉集古義』・『万葉集略解』ともに墨吉は与謝郡にある地名であろうとする。吉田東伍の『大日本地名辞書』は水の江の浦島子という場合の水の江は、与謝郡の西方、竹野郡の網野町の北の海浜一帯を水の江とし、澄江浦もここだろうとする。武田祐吉の『万葉集新解』では、墨吉を摂津の住吉とし、浦島伝説は諸国にあってよいので、丹後や摂津にあったのだろうという。沢瀉久孝の『万葉集註釈』にも摂津説をとり、作者の高橋虫麻呂が住吉の海岸に立ち、書物で読んだ、浦島伝説を思い出し、ここを舞台とし、作者の浦島伝説を創作したのだろうという。私見も摂津説をとる。さらに単に摂津の海岸というのでなく、住吉神社に伝承されていた浦島伝説に取材して、虫麻呂が作歌したために、舞台としても、墨吉の海岸が登場するに至ったものと推測される。なお『古事談』所収の『浦島子伝』も舞台を澄江としており、大体同系統の伝説と解すべきであろう。・・・宮津市府中の籠神社は住吉系だから、この神社の古伝として墨吉の地名が採用されていたのかもしれない。後考に俟つことにしたい」(p25)。

この注記では、「墨吉」は丹後、あるいは摂津國内の地名という両論を取り上げているが、一般的には摂津説が有力視されているようである。ただ、「後考に俟つことにしたい」という末尾の言葉が示すように決定的な結論を得るにはいたっていないとみるべきであろうか。

虫麻呂の作品については、①原作者、②成立時期という2つの事柄を異にすることだけをみても、『万葉集』の作品は、原作内容をベースにしつつ、虫麻呂が独自の視点を織り交ぜて創作したと解釈するのが妥当と思われる。

「釣船之 得乎良布見者」

高橋虫麻呂は、「墨吉」(現在の大阪・住之江地区が比定されている)、おそらく、当時は現在の住吉大社近くまで海岸線が迫り、海浜からは多くの船が往来する風景を目にすることができたのであろう。

今では高層ビルが林立し、海は視界には入ってこない。当時の情景など想像することすら不可能である。住吉大社から2㌔程歩き、ニュートラム南海ポートタウン線の住之江公園駅から乗車し、広大な工業地帯の埋立地を20分近く電車に揺られコスモスクエア駅に到着。ようやく大阪湾を目前にする。それは瀬戸内海へと続いている。だが、砂浜があるわけではなく、堤防から海を眺めるのみである。大型船舶を目にしつつ、往時に思いを馳せてみた。砂浜に腰をおろして霞に揺れる船影を見やりながら、虫麻呂は、すでに伝説化していた「浦島説話」に思いを巡らせたのであろう。

万葉仮名表記の「得乎良布」(とをらふ)について、重松明久氏は「『万葉集古義』には釣船が波の上に猶予(タユタ)ふさまを見ればとし、鴻巣盛広の『万葉集全釈』にも、船が波に動揺している状態をあらわしたものとする。揺れているさま」と注を施している(重松明久 浦島子伝 p25 現代思潮新社 2006年)。

現場を歩いてみて感じたことがある。虫麻呂が、往来する船の、その先、水平線上に見たものは、太陽が沈む西方であったということである。

古代人にとって、東西軸は、東方は“生”、西方は“死”を象徴するものでもあった。刑死した大津皇子(663~686年)は、死を前に歌を残しているが、西方に沈みゆく太陽と死を結びつけている。

いずれにしても、海を舞台にしているという意味で、虫麻呂の「浦島説話」も始原の他の二書と共通項を持っている。

「古之事曾所念」

高橋虫麻呂は、霞がかった海に往来する釣船をぼんやりと眺めながら「古(いにしえ)の事そ思(おも)ほゆる」、昔のことが思い出されるものだと感じたのである。

問題は「古(いにしえ)」をどう解釈するか。

「浦島説話」を伝える始原の三書のうち、『日本書紀』と『丹後國風土記』「逸文」は、いずれもこの説話成立を雄略朝のこととする。

馬養が700年前後に「浦島説話」の原作をまとめあげたとすれば、220年以上の時を隔てていることになる。虫麻呂は、この時の隔たりを「古」と表現したのであろうか。

「広辞苑」(第5版)は「古(いにしえ)」について、「(往にし方へ)の意で、時間的に遥かに隔たったあたりをいう語」①遠く過ぎ去った時代。古代。②過ぎ去ったころ。過ぎし日」とし、因みに「古人(いにしえびと)」を「①昔の世の人。②昔から親しくした人」と記す。「古語辞典」(久松潜一ほか編 角川書店)には「(往にし方への意)①昔。古い時代。②過ぎ去った時。過去」とある。

「漢語林」(鎌田正ほか編 大修館書店)は「古」を「①いにしえ。昔。②ふるい。ふるめかしい。③ふる。古くなる。年月を経る。④昔のきまり。昔の道徳」などと記す。

「古」という文字と語義から受ける印象は、時間的に極めて遠く隔てている場合と比較的近い場合と両義を有するようにも思われる。

『万葉集』では他の二書のように特に出来事の時期を特定するような表現はしていない。後に続く文脈との関係から、「古」を、墨吉の浜で往来する釣船を見ながら虫麻呂が想起した時点を起点とし、雄略朝の治世に思いを馳せた、というのが一般的な理解であろうが、虫麻呂の作品の成立時期をいつ頃とみるかという問題と併せ、あるいは原作成立時期に思いを寄せたことを「古」と表記したとも可能性として残されているのではなかろうか。一考を要すると思われる。

「水江之 浦嶋兒之 堅魚釣 鯛釣矜 及七日 家尓毛不來而」

「浦島説話」の主人公の名前については、始原の三書では「水江浦嶼子」(「逸文」)、「水江浦嶋子」(『紀』)のほか、「瑞江浦嶋子」「水江浦島子」など、史料によって表記に若干の相違はある。

「兒」の字義は「こ(子)」で、「①男の子、②こども」のほか、「青年。若者」(「漢語林」(鎌田正ほか著 大修館書店))といった意味を含んでいる。

つまり「浦嶋兒」は「浦嶋子」と言い換えることができる。

彼は、鰹や鯛を釣り7日間も家に帰らなかったという。この記述から、彼は漁師だったのではないかという推測も成り立つ。漁を生業にしているからこそ、1週間も家を留守にできたとみる見解である。

「矜」には、「①あわれむ。いたむ。②ほこる。おごりたかぶる。③つつしむ。うやまう。貴ぶ。④おしむ(惜)。⑤あやぶむ。また、あぶない」(「漢語林」鎌田正ほか編 大修館書店)といった意味があるが、「矜持」といえば「自分の能力を信じていだく誇り。自負。プライド」(「広辞苑」第5版)の意味がある。

重松明久氏は「堅魚(かつお)釣り 鯛釣り矜り」とし、「矜り」を「豊漁のため得意になって」という注を施している(重松明久 浦島子伝 p25 現代思潮新社 2006年)。

虫麻呂は「矜」という文字を用いることで、釣果のみならず、暗に主人公の人物像をも彷彿とさせる意図を含んでいたかもしれない。自らの生業に自身と誇りを持ち、気骨ある人間像を表現しようとしたとも忖度することができるだろう。

「海界乎 過而榜行尓 海若 神之女尓 邂尓 伊許藝趍」

「浦島説話」といえば「海」と「亀」は切り離せない。が、始原の三書の中で、『万葉集』には何故か亀が登場しない。

作者は何らかの意図をもっていたのか。これは無視できない相違である。

主人公が釣り上げたのは「堅魚」(鰹)であり「鯛」である。ひたすら「海界」を漕いで行くと「海若 神之女」に偶然にも出会うのである。

重松明久氏は「海界」を「海の限界。海のはて」とし、「海若」を「海神のこと。単に若ともいう」、「神之女」を「従来ムスメ。ヲミナとも訓まれるが、一般的には神のヲトメとされる」、「伊許藝趍(「い漕ぎ向ひ」)を「漕いでいって」とする注を施している(重松明久 浦島子伝 p26 現代思潮新社 2006年)。

『紀』と「逸文」がいずれも釣り上げた「大龜」あるいは「五色龜」は、「女」、「婦人」に変身する。虫麻呂は原作内容を意識しつつも、プロットに手を加えていることになる。

『万』では「女」は海に住まう神女として登場する。ただ、次元を異にする世界に住する聖なる女は、主人公を幻惑させ魅了するという筋立ては三書に共通する主題といえるだろう。

  • 「榜」・・「②かじ。かい。舟をこぎ進める具。③いかだ」(鎌田正ほか著 漢語林 p691)
  • 「邂」・・「邂逅は、①会う。めぐり会う。出会う。②うちとけるさま」(前掲書 p1316)
  • 「趍」・・「趨」の俗字。「①はしる。②おもむく」「①はやい(速)。急ぐ」(前掲書 p1260)

「相誂良比 言成之賀婆 加吉結 常代尓至」

「浦島説話」原作内容を知る手掛かりとしての史料である始原の三書に共通する要素としては、①神仙思想の影響、②男女交合の性的主題が盛り込まれている、という点にある。「

相誂良比 言成之賀婆 加吉結」の箇所は後者の内容を象徴的に表現している。

重松明久氏は「相誂」を「相互に誘い合い求婚すること」とし、「言成之賀婆」を「結婚の同意が出来たから」、「加吉結」を「お互に約束して。『古義』に「加吉は添いふ辞、結は夫婦の約(ちぎり)をなすを云り」とする」という注を施している(重松明久 浦島子伝 p26 現代思潮新社 2006年)。

お互いに求め合い、熱き抱擁後、男女の交わりを果たすのである。

『日本書紀』は性的モチーフについて記述した後に「蓬莱山」に赴いたことを記し、『万葉集』の場合は前述の記述の後に「常代」つまり常世に至るのである。二書ともに男女交合を経て、神仙界へと至るのである。

男女交合の記述が示す象徴性は深層心理学の観点からみて大変重要な主題である。

また、「逸文」と『万葉集』では、主人公の悲劇的最期という点でも共通している。

一つの物語として、なんとも後味の悪い内容なのである。

●「誂」・・・「①いどむ。さそいかける。」(鎌田正ほか著 新漢語林 p1209)

「海若 神之宮乃 内隔之 細有殿尓 携 二人入居而」

二人が手を携えて訪れた「常代」(常世)には「海若 神之宮」があった。

「内隔之 細有殿」について、重松明久氏は「「内の重の妙なる殿に」とし、「真中のへだての中の立派な御殿。『古義』に内隔は禁裏の内重(ウチノヘ)になずらえていったものとする」と注を施している(重松明久 浦島子伝 p26 現代思潮新社 2006年)。

「常世」について、谷川健一氏は「祖霊の住む島が常世であり、また人が死んだら、その魂がいくところが常世と考えられていた。常世は妣の国とも根の国とも称せられていた」「客観的にみれば、常世は諸民族が所有しているさまざまな他界観の一つにすぎない。しかし常世は死後の魂のおもむくところというばかりではない。亡き母の在す国として思慕の対象である。また万物根源の国として崇敬の対象である。さらには五穀や果物の常熟している場所として渇望の対象である」と指摘している(谷川健一 常世論 pp3~4 講談社 1995年)。

現世における「禁裏」と、異界における「海若 神之宮乃 内隔之 細有殿」とが、あたかも「表」と「裏」との一対の対象構造を成すといった解釈は興味深い。後者はあたかも次元を異にする霊界と表現することができる。

「耆不爲 死不爲而 永世尓 有家留物乎」

仙境である「常代」(常世)の世界では、不老不死、永遠の生命を得ることができたのである。が、「永世尓 有家留物乎(永久に ありけるものを)」、つまり、せっかくその世界に赴いたのに主人公は実際にはそれが叶わなかった、というのである。

神仙思想は、道教の中核的な要素を成すものである。

下出積與氏は『神仙思想』で、窪徳忠氏の次の言葉を引用している。「道教とは・・・しいて定義づけてみるならば、古代の民間の雑多な信仰をもといとし、神仙説を中心として、それに道家・易・陰陽・卜筮・讖緯・天文などの説や巫の信仰を加え、仏教の体裁や組織にならって宗教的な形にまとめられたもので、不老長生をおもな目的とする現世利益的な宗教が道教だということができよう(『庚申信仰』)」(p7)。

顕界の有限性と次元を異にする常世国の無限性とを対比させることを、作者は表現しようとしていることが伺われる。

「世間之 愚人乃 吾妹兒尓 告而語久」

「浦島説話」の原作内容を知る手掛かりとしての始原の三書は、内容に大きな相違も抱えている。

『万葉集』に遺された高橋虫麻呂の作品と他の二書との埋めがたい相違は二つある。

『紀』と「逸文」の二書は、いずれも女性に変身した亀と主人公が結ばれるというモチーフを有するが、虫麻呂の作品には「亀」が登場しないということが一つ。この説話を語るうえで、亀は重要な役割を担っている。主人公と女性が結ばれるというのは三書に共通するが、この相違は何を意味しているのであろうか。

二点目は「主人公の人物像」である。「逸文」は主人公を「姿容秀美 風流無類」と表現するのに対し、『万葉集』は「世間の愚か人」と酷評しているのである。侮蔑ともいえる言い回しである。『紀』は人間像には言及していない。虫麻呂は、主人公の容姿については触れていないが、俗を離れ雅(みやび)な趣きを醸し出す雰囲気を有し、粋でどことなく高貴な人物像として描写する「逸文」に対し、「愚か」と記した虫麻呂の真意は何か。

おそらく、虫麻呂の作品は、馬養が書いた原作内容を参考にしつつ新たに手を加え創作したものと思われる。

そして、市井の愚かなる主人公は、妹(妻)に語りかけるのである。

「須臾者 家歸而 父母尓 事毛告良比 如明日 吾者來南登 言家礼婆」

主人公は「少しの間家に戻り、父母に事情を話し、すぐに、明日にでもきっと帰って来る」と妹(妻)に告げる。

家で心配しているであろう両親に、異界の様子、自分が体験したこと等を説明したうえですぐにまた戻って来るというのである。

「逸文」では、主人公が異界で過ごした時間は「三歳」と記されているが、『万』も海宮での滞在期間が「三歳」であることが後に語られる。

一方、「逸文」では、異界を離れようとする主人公が望郷の念を切々と語る様子が記されるが、ここでみるように『万』の記述は簡潔である。

「妹之答久 常世邊 復變來而 如今 将相跡奈良婆 此篋開勿勤常 曾己良久尓 堅目師事乎」

主人公が、一旦家に帰りすぐに戻ってくると告げると、妹(妻)は「もう一度、ここ(常世)に帰ってきて、今と同じように再会しようというのであれば、この篋(はこ)は決して開けてはなりません」と言って堅い約束を交わすのである。

決して開けてはならない玉手箱を手渡す、というよく知られたシーンであるが、何故、妻は開けてはならない箱などを、わざわざ渡したのであろうか。

禁忌を課されても、結局タブーは破られることになる。この「篋」の象徴的意味は一体何なのか。この説話を読み解く重要な要素であろう。

  • 篋「箱・匣と同じで、書物などを入れる長方形の箱。クシゲと訓む」(重松明久 浦島子伝 p27 現代思潮新社 2006年)
  • 開勿勤常「開くな勤と・・・絶対に開いてはいけないと」(前掲書 p27)
  • 曾己良久尓「そこらくに・・・十分に。たくさんに」(同)
  • 堅目師事乎「かたく約束をした事であるのに」(同)

「墨吉尓 還來而 家見跡 宅毛見金手 里見跡 里毛見金手 恠常 所許尓念久」

主人公が墨吉の地に戻ってみると様相は一変。家を探せど見つからず。故郷の地であるか確認しようにもそれも叶わず。狐につままれたような状態に戸惑う主人公。

そこで考えてみたことには。始原の三書のうち、『紀』と「逸文」は主人公の出自を丹波國与謝郡筒川に求めている。

これに対し、「墨吉」は、一般的には摂津国住吉の地が比定されている。この箇所を読む限り、「墨吉」が主人公の故郷に解釈できる。

虫麻呂が、馬養の原作内容を読んだうえで、自ら創作したとすれば、その意図は何か。あるいは、「墨吉」とは丹波國筒川の近くに実在した土地なのか。謎は残されている。

そもそも、この説話が語る内容は歴史的事実なのか否か。疑問を氷解させるには解決しなければならない多くのハードルが残されている。「墨吉」の地をどこに比定するか、という問題もハードルの一つではある。

「従家出而 三歳之間尓 垣毛無 家滅目八跡 此筥乎 開而見手歯」

家を出てから三年の時間が経過したことが明かされる。

「三年」という期間について、重松明久氏は「海宮における滞在を三年間とするのは、海宮遊幸神話で、彦火々出見尊が海宮に滞在した期間と一致する。両者の間に密接な関連をみとめるべきであろう」とし、日本神話と「浦島説話」との類似性、関係性について言及している(重松明久 浦島子伝 p27 現代思潮新社 2006年)。

住み慣れた故郷の風景は変貌し、当時の面影は跡形も無い。垣根も家もなくなってしまっている。途方にくれた主人公は、淡い期待とすがるような思いで、手渡された「筥」を開いてみる。課された禁忌が破られる場面である。

「如本 家者將有登 玉篋 小披尓 白雲之 自箱出而 常世邊 棚引去者 立走」

『万』では、いわゆる“玉手箱”は「篋」「筥」「玉篋」「箱」と四通りの表記がなされている。

「もとの如(ごと) 家はあらむと」家は元通りになるのではないかというすがるような思いをもって「玉篋」をわずかに開いてみると、「箱」から白い雲が出てきて常世の方に棚引いていってしまったので立ち上がって走り・・・。箱からは、白い煙ではなく、白い雲が出てくるのである。「『古義』には「玉は美称にて、ただ筥なり」という」(重松明久 浦島子伝 p27 現代思潮新社 2006年)との注もあるが、「玉」には、神々しい美しさと優れた価値、尊いという意味がある。

天皇の声の尊称を「玉音」といい、天皇の顔の尊称は「玉顔」、天子が坐るところを「玉座」、天子の印の尊称を「玉璽」と表記することなどをふまえるなら、「玉篋」は非常に価値のある篋、あるいは天子が手にする尊い篋という意味に解釈することもできよう。

虫麻呂は、主人公が手渡された箱は、ただの箱なのではない、という意味をこめたのではないだろうか。

因みに、「逸文」は「玉匣」と、やはり「玉」を冠している。

「叫袖振 反側 足受利四管 頓 情消失奴 若有之 皮毛皺奴 黒有之 髪毛白斑奴」

袖を振りながら叫び回り、身悶えしながらのたうちまわり、足をひきずり苦悶するうちに、たちまち気を失ってしまった。艶のある若々しい肌はあっという間に皺だらけとなり、黒々としていた髪も白髪に変わってしまったのである。受け入れがたい現実を前に、どうしようもなく、茫然自失の状態に陥ってしまった主人公。

みるみるうちに若者から老人へと変化していく様を描いたこの記述は、最近の映画ではよく目にするCGを駆使した映像を思わせる。

「由奈由奈波 氣左倍絶而 後遂 壽死邪流 水江之 浦嶋子之 家地見」

重松明久氏は「由奈由奈波(ゆなゆなは)」について「後々は」の意としている(重松明久 浦島子伝 p28 現代思潮新社 2006年)。一般的に、「そうして」「そののちには」といった解釈がなされている。みるみるうちに若者から老人に変貌した主人公は、苦悶の末に息も絶え、とうとう死んでしまったのである。主人公が暮らした家のあった場所が見える(家地見)、というのである。やはり、主人公の家は「墨吉」にあったのか。

ここで、息を「氣」と表記していることに留意したい。この記述からは、虫麻呂を含む当時の人々の生命観をうかがうことができるのである。死とは、「氣」が絶えることを意味したのである。「気息」は息づかいのこと、「空気」「気分」「電気」「磁気」「気運」「気鋭」「気炎」「気持」等、「気」という文字には、目に見ることができない生命エネルギーに関与する何ものか、といったニュアンスが含まれている。古代人は、「氣」という不可視の存在こそが生命を支える重要な働きを担っていることを体験的に覚知していたといえよう。

湯浅泰雄氏は「生体には感覚的手段によって直接認知することのできない独特なシステムがそなわっている、という観点に立って人体のしくみを理解すべきではないかと思う」(湯浅泰雄 「気」とは何か p103 NHKブックス 1994年)と指摘したうえで、「気の流れは生理的側面だけでなく、主観的な心理的側面において感じられるはたらきである」(前掲書 p102)、「気のエネルギーは、心理→生理→物質という三つの次元に変換して作用する」と触れている(前掲書 p193)。

生命現象を考察するうえで、「氣(気)」は現代的意義を有しているのである。

「反謌 常世邊 可住物乎 釼刀 己(之)行柄 於曾也是君」

末尾に反歌が一首残されているが、この箇所の解釈は非常に難解である。とりわけ「釼刀 己(之)行柄」(つるぎたち ながこころから)の部分は難しい。

因みに小島憲之ほか校注・訳『萬葉集②』の解釈をみてみたい。

①「常世の国に ずっと住んでいればよかったのに (剣大刀)おまえの量見で ばかなことをしたよこの人は」とあり、注として「剣大刀―ここはナ(汝)の枕詞。刃を古くはナといったことから同音の汝にかけたか。また、刀剣には製作者の氏名が彫ってあるので「名」を介してかけた、とする説もある」「汝が心からー原文に「己之行柄」とあり、その「己」は自分自身を表す字。歌意の上からは浦島子に向って汝自身という気持でいう。「行」は心の意。漢籍の「心行」に同じ。『名義抄』に「行、ココロ」とある。心カラは、心のままで、他の誰のせいでもなく、の意」「おそやーオソは、鈍い、ばかだ、の意の形容詞オソシの語幹」とある(p417 新編日本古典文学全集7 小学館 1995年)。「釼刀」は汝の枕詞とするのであるが、断定しているわけではない。書き方はあくまでも推量の域を出ていない。訳「(剣大刀)おまえの量見で」を読んでもしっくりこない。どうだろうか。長歌中に、主人公を「愚人」と侮蔑するような表現がみられるが、末尾の「於曾也是君」も「ばかなことをしたよこの人は」と訳されている。不死の常世に住む権利を手にいれながら、自らそれを放棄したことに対し、「ばかなことをした」と揶揄されているのである。他の研究書の解釈と注をみてみたいと思う。

②「結構な常世の国で住んでゐられるのに、自分の心から帰って来て、此様な愚な事をするに至った、此浦島さんの鈍な事よ」(阪口 保 浦島説話の研究 p3 新元社 1955年)

③「玉篋を開けなかったら、再び神仙境に行き住むことができただろうに、うっかり約束を忘れて、篋を開けたために、老死してしまった。間抜けだなあこの男は」(重松明久 浦島子伝 p28 現代思潮新社 2006年)。重松氏は「釼刀」を「枕詞で「な」にかかる」とし、「己が心から」を「『古義』に「汝が心故と云が如し」とする」、「鈍やこの君」を「間抜けだなあ。この君はの意。『古義』には「於曾は心おそきにて、にぶきなり」という」としている(前掲書 p28)

④「長寿の世界である常世国にせっかく住んでいられたものを、自分の心からとはいえ、何と間の抜けた、浅慮な人なのだろう。この人は」(水野 祐 古代社会と浦島伝説(上)p86 雄山閣 1975年)

⑤「常世辺に住むべきものを劒刀己が心から鈍やこの君」(下出積與 神仙思想 p170 吉川弘文館 1995年)

⑥「永遠の世界に住むはずであったのに 剣や太刀の刃(ナ)、その己れ(己=ナ)自らの心から 愚かなことをしたものよ、この君は」(三浦佑之 浦島太郎の文学史 p112 五柳書院 1998年)

⑦「常世に住んでいれば、よかったものを、心底から、なんと間の抜けた男だったことであろうか!」(豊田有恒 神話の痕跡 p181 青春出版社 1997年)

「釼刀 己(之)行柄」の箇所の解釈が、いずれの訳が作者の真意に近いものであったかについては、残念ながら未だ定説はないと判断せざるを得ない。末尾の反歌の解釈だけをみても、依然として深い謎を秘めているのである。

坂田千鶴子氏は「神の世と人の世とを結ぶ結婚では、せっかく結ばれた関係が、人による裏切りや辱めによって壊れるという図式が、繰り返し認められます。人の世の力は神の国の力と対等であるか、むしろ凌いでいるようにみえることさえあります」と指摘している(坂田千鶴子 よみがえる浦島伝説 p45 新曜社 2004年)。

『万葉集』巻九収載の「浦島説話」末尾の反歌からはっきり読み取ることができるのは、常世の住人でいられたなら、主人公は侮蔑されることはなかったということである。