文責:村山芳昭 2008.11.01

古典としての「浦島説話」

「源氏物語千年紀よびかけ人」(千玄室代表)、「源氏物語千年紀委員会」(村田純一会長)は新聞紙上の「古典の日宣言」中で、「古典」の概念について次のように触れている。

「古典とは何か。風土と歴史に根ざしながら、時と所をこえてひろく享受されるもの。人間の叡智の結晶であり、人間性洞察の力とその表現の美しさによって、私たちの想いを深くし、心を豊かにしてくれるもの。いまも私たちの魂をゆさぶり、「人間とは何か、生きるとは何か」との永遠の問いに立ち返らせてくれるもの。それが古典である」(2009年3月19日付 産経新聞 18頁)。

『源氏物語』で「物語の出で来はじめの祖なる竹取の翁」と評された『竹取物語』は9世紀末頃の成立とされているが、「浦島説話」の原作が誕生したのは、それを遡ること200年余りである。

原作それ自体は、残念ながら残されていないが、説話の原作内容を知る手掛かりとなる『日本書紀』、『万葉集』、『丹後國風土記』「逸文」という始原の三書は、日本文化を理解する手掛かりとしての第一級の史料であり、古典であることは間違いない。

「始原の三書」の相違

「浦島説話」の原作内容を知る手掛かりとなる史料は、『日本書紀』、『万葉集』、『丹後國風土記』「逸文」の三書である。三書に共通するのは、この説話には神仙思想の影響が看取されるという点にある。

一方、大きな相違もある。まず、日本書紀と逸文には「亀」が登場する(『紀』は「大龜」、「逸文」は「五色龜」)のに対し、万葉集には亀に関する記述はない。

その理由としては、作者を異にすることが指摘できる。原作者は伊預部馬養連で、彼が書いた原作内容を最も詳しく反映しているのは「逸文」である。日本書紀には「語は別巻にあり」とあり、それが馬養の原作であろうとみられている。そのため『紀』と「逸文」には「龜」が登場するのである。

万葉集の作者は高橋虫麻呂である。原作内容を反映した『紀』と「逸文」に対し、『万』の作者も原作内容を理解してはいたが、大幅な潤色を加えたと想定することができる。

その他にも相違がある。まず、『紀』と「逸文」は説話の舞台が「丹波」「丹後」であるのに対し、『万』は「墨吉」とある。この地は、現在の大阪・住吉あたりに比定されている。

そして主人公の人物像である。「逸文」は「姿容秀美、風流無類」と記すが、『万』では「愚人」と全く相反するような人物評となっている。

原作と『万』の作品とは成立した時期も大きく異にすると思われる。

日本書紀万葉集丹後国風土記「逸文」
主人公の名前瑞江浦島子
(水江浦嶋子)
水江浦島子水江浦嶼子
時代雄略22年(478年)7月古之事長谷朝倉宮御宇天皇御世
舞台丹波國餘社郡管川墨吉之岸丹後國嶼謝郡日置里
釣り上げたもの大亀堅魚、鯛五色亀
赴いた場所蓬莱山常世蓬山
出典資料『日本書紀』
小島憲之ほか校注・訳
日本書紀②
新編日本古典文学全集3
小学館 1996
『万葉集』
小島憲之ほか校注・訳
万葉集②
新編日本古典文学全集7
小学館 1995
『丹後国風土記』「逸文」
植垣節也校注・訳
風土記
新編日本古典文学全集5
小学館 1997

「浦島説話」の原作者について

この説話の原作者は伊預部馬養連(いよべのうまかいのむらじ)である。彼は、持統、文武両朝の治世に活躍した官人で、皇太子学士や書物編纂官である撰善言司などを務めたほか、天武帝の皇子である刑部親王や藤原不比等、薩弘恪らと「大宝律令」の撰定にも参画した。律令制度という国家の大綱作りにも関わった彼は、漢籍に通暁した当時第一級の文人でもあった。

伊預部馬養連は、天平勝宝3年(751)の成立といわれる日本最古の漢詩集『懐風藻』に「皇太子学士、詩一首、年四十五」とあり、『釈日本紀』という書物によれば、丹後守の任にあった時、浦島太郎物語の原型である「水江浦島子」の説話を記録したと伝わる。『丹後国風土記』の編修に深く関与していたと見られている人物でもあり、彼を『日本書紀』編纂史局のメンバーとみなす説もある。

・丹後國宰

伊預部馬養連は、持統、文武朝に活躍した官人である。説話は、彼が丹波國宰として現地に赴任していた時に土地に伝承されていたものを採録したということになっている。

・皇太子学士

伊預部馬養連は、皇太子学士として、草壁皇子の遺児・軽皇子(後の文武天皇)の教育係を務めた。692年(持統6)、父草壁皇子が薨去されてから3年を経た冬、軽皇子は阿騎野の地で父の御霊を慰霊した。『万葉集』巻1の45~49番歌は、柿本人麻呂がこの時に詠んだ歌である。「東(ひむがし)の野に炎(かぎろひ)の立つ見えて、かへり見すれば月かたぶきぬ」の読みで知られる歌は48番歌である。馬養は、この慰霊の宿りに同道し、朝、東の空に差し昇る太陽を感慨深く凝視したかもしれない。

・撰善言司

伊預部馬養連は、689年(持統3)に撰善言司に任命されている。この内容については不明な点も多いのであるが、日本史広辞典(山川出版社刊)には次のようにある。

「「善言」を編纂するための官司。「善言」とは為政者 の倫理の指針となるような教訓を集めた書物で、幼い皇太子軽皇子(文武天皇)をはじめ、皇族・貴族の 教育に資すべきものであった。施基皇子以下、古今の典籍に通じた官人が任命されたが、「善言」の完成 をみることなく解散したと思われる。編纂の途中で集められた史料は「日本書紀」撰述の材料になったと 考えられる」(p1234)。

馬養は、おそらく702年頃に45歳で亡くなっているのであるが、当時 は国史編纂作業が大きく進展をみた時代であった。あるいは、馬養も国史編纂作業に何らかのかたちで関与していた可能性も高いと思われる。

説話の伝承時期

「浦島伝説は恐らく6、7世紀頃に濫觴(らんしょう)し、今日に至るまで諸種の文献や昔話の形式で、書きつぎ語り伝えられてきた、かなり息の長い説話である」(重松明久 浦島子伝(オンデマンド版) 105頁 現代思潮新社 2006年)。

始原の三書のうち、『日本書紀』と『丹後國風土記』「逸文」の二書が出来事を雄略朝の治世としている。

この説話の伝承時期を「6、7世紀頃」とみる根拠の背景にあるのは、おそらく「雄略朝治世」を踏まえ、「旧辞」の内容などを基に成立したとみていると思われる。

雄略朝を古代の画期とみる歴史認識は、『万葉集』巻一の巻頭を飾る歌が雄略天皇御製であるとすることからもうかがえる。

「浦島説話」の原作者・伊預部馬養連は、丹波國宰として赴任していた時に、土地に伝承されていた内容を基に説話をまとめた、というのが一般的理解である。

原作成立時期

この説話の原作が成立したのは西暦700年前後のことである。おそらく697年から701年頃の間と思われる。

当時は暦に対する関心が一段と高まった時期でもある。690年(持統4)、それまで使用されていた元嘉暦に加え、新たに儀鳳暦を併用する勅が出された。

文武天皇が即位した697年8月1日の暦日は、『続日本紀』によれば儀鳳暦に基づいている。以降、暦日表記は全て儀鳳暦による。つまり、「浦島説話」の原作は儀鳳暦が単独で用いられ始めた頃に成立したのである。

説話原作誕生時期の問題

1872年(明治5)11月9日、「太陰暦ヲ廃シ太陽暦」に切り替える勅が出された。現在、我々の生活は太陽暦(太陽太陰暦)に基づいているが、それ以前は、「太陰」つまり「月」の見かけの活動(満ち欠け)周期に基づく太陰暦(太陰太陽暦)が長く行用されてきた。

埼玉県行田市稲荷山古墳出土の鉄剣銘には「辛亥年」(西暦471年)という干支紀年が用いられている。当時の国家統治者は「獲加多支鹵大王(ワカタケル大王)=雄略天皇」の治世であった。当時行用されていた暦は元嘉暦である。

『日本書紀』「雄略紀」が伝える「浦島説話」は雄略22年7月条に記されている。西暦換算すれば478年である。690年11月11日、持統天皇は元嘉暦と儀鳳暦とを併用する勅を発せられた。そして、文武天皇即位の697年8月1日をもって、暦は儀鳳暦に単独行用されることになる。

伊預部馬養連が説話を創作したのは700年前後、つまり儀鳳暦単独行用時期と時を同じくするのである。

「浦島説話」と雄略朝

「浦島説話」の原作が成立したのは文武朝治世初頭の700年前後のこととされているが、『丹後國風土記』「逸文」によれば、「長谷朝倉宮御宇天皇御世」のことと記している。

『日本書紀』は「雄略紀」22年7月条にこの説話について収載している。西暦換算すれば478年ということになる。原作者は、この説話の端緒を雄略朝の御世に求めているのである。原作が誕生した時代からさらに220年以上も遡ることになる。

原作者・伊預部馬養連は丹後國分置以前の丹波國の時代に国宰として赴任しており、その時に土地に伝承されていた話として採録したといわれている。

説話を伝える始原の三書の特質について

「浦島伝説の最も原初的な構想は、『万葉集』の伝える如きものであり、本質的には海宮ないし竜宮伝説であるとする見解が、むしろ一般的であった」(重松明久 浦島子伝 106頁 現代思潮新社 2006年)という見解について、どのように考えるべきであろうか。

久松潜一氏は、『万葉集』と『丹後國風土記』「逸文」の二書の所伝内容を比較検討し、前者に比べ後者は「支那の神仙思想によった作為の痕を十分に見得る」と指摘している(前掲書 116頁)。

「浦島説話」を伝える始原の三書は、神仙思想の影響が看取されるという共通の要素をもつ。

「浦島伝説は、基本的には中国伝来の神仙思想的背景に裏付けられていることは、認めなければならない」(前掲書 227頁)という指摘のみならず、この説話は、背後に易(陰陽)・五行、讖緯思想の哲理を忍ばせているとみるが、その端的な特長は、実は主人公の名前にこそあると考察できるのである。

一夜の秘め事

「浦島説話」は『遊仙窟』の影響を受けている、とみる見解がある。

『遊仙窟』は、唐代の伝奇小説の一つで、官命によって任地に赴く主人公が、知らず知らずのうちに仙境に足を踏み入れ絶世の美女と巡り会い、幻想的な世界の中で官能的な一夜を共にするという物語である。

重松明久氏は、「仙境の表現」「主人公の容姿」、感情表現など、『遊仙窟』と「逸文」との類似性について両書を比較しながら考察を加え「大局的にみて同一轍といえよう」とし、「『風土記』は、『遊仙窟』のみでなく、『文選』よりも或る程度ヒントをえたのではなかろうか」と指摘している(重松明久 浦島子伝 211~212 現代思潮新社 2006年)。

仙境と男女交合というモチーフは、「浦島説話」と『遊仙窟』とに共通することは確かである。

「文武天皇在位年間頃日本に伝わったと思われる」(前掲書 210頁)とするなら、文武朝初期の700年前後に成立した「浦島説話」に影響を及ぼした可能性に意を配る必要があるのではなかろうか。

二段構造

『丹後國風土記』「逸文」が伝える「浦島説話」は、漢文で書かれた前段と万葉仮名を中心として書かれた後段の二段構造を成している。

後段の万葉仮名の表記によって主人公の名前の読み方がわかるのである。

「水江浦嶼子」は「美頭能睿能 宇良志麻能古」と表記され、「ミズノエノ ウラシマノコ」と読むことがわかる。

前段と後段では、内容に大きな隔たりが感じられ、そのため、両者は成立した時期を異にするといった議論もある。

自然現象と生命原理

・「雲」について

古代人にとって、自然現象と生命原理とは非常に深く結びついていた。

例えば「雲」であるが、これは死と密接に結びついたイメージをもたれていた。

『万葉集』巻3・416番歌には「ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」という歌がある。

同じく428番歌に「隠口(こもりく)の泊瀬の山の山のまにいさよふ雲は妹にかもあらむ」という歌がある。

両歌とも「雲」は、人間のたましい、霊的なもの、あるいは死を象徴的に表現している。

天空にぽっかりと浮かぶ雲は時々刻々と姿形を変え、やがてはかなく消え行く。その様相に生命原理との同一性を感じとっていたのであろう。

古代人にとって、自然現象と生命原理とは相即不離な一体感をもって捉えられていたのであろう。

・「風」について

風という自然現象もまた生命原理と深く結びついていた。

たとえば、「水を得るを上とし、風を蔵するはそれに次ぐ」風水理論では、家宅を陽宅、埋葬地を陰宅として区別するが、陽宅では「風を蔵する」、つまり日常の生命活動においては風をおさめることが要諦である。

「浦島説話」を伝える始原の三書のうち、『万葉集』では、主人公の死の描写に「氣左倍絶而」という記述がある。

この箇所は、息が絶える意であるが、感じ取ることはできるが不可視なもの、という意味では「氣」と「風」はいずれも目に見えない霊的なものである。

「逸文」後段に万葉仮名で書かれた「加是布企阿義天、久母婆奈禮」という箇所がある。

突風が巻き起こり、雲が切れ切れに離れる様子が描写されている、というのが一般的な理解である。

この箇所を暗喩や寓意といった象徴表現とみるなら、「風(加是)」と「雲(久母)」という文字を用いて主人公を取り巻くのっぴきならない状況を表現することもできるのである。

「入レ海」の意味について

「浦島説話」というと海底にある竜宮城が思い浮かぶ。

そのようなイメージが定着しているのは、明治時代の童話作家・巖谷小波の作品が大きく影響している。

「鯛や平目の舞い踊り」という小学唱歌にもあるが、主人公を出迎えるのは多くの魚である。

当然、海中、海の底が想定される。

『日本書紀』には「相逐入海」という記述がある。

「相逐入海」という記述について、重松明久氏は「両人が一緒に海上遥かに漕ぎ出したとの意味をもつと解すべきであろう」と指摘している。そして、漢籍の用例にその根拠を求めている。

重松氏は「例えば『史記』巻6「秦皇本紀」にみえる始皇帝が斉の徐市に命じ、童男女数千人をつれ海に入り、蓬莱・方丈・瀛洲の三神山にいる仙人を求めさせたという場合の「入海」と同趣のものである。一致する表記は、『漢書』巻25上「郊祀志」の同様の説話の場合にも用いられている。一般的に海上への航行の途についたとの意味に解すべきこと、いうまでもなかろう」と指摘している(重松明久 浦島子伝(オンデマンド版) 110頁 現代思潮新社 2006年)。

説話の主人公が赴いた先は蓬莱山。とすれば、『史記』の記述との類似性は説得力を持つと思われる。

「逸文」では、主人公は神女によって目を閉じさせられ、眠りにつくやたちまち「海中博大之嶋」に至る。

不老不死の神仙の住む理想的な世界は、渤海沖に存在するといわれたが、渤海沖にはしばしば蜃気楼現象が現れることが知られている。おそらく、海上航行中に、遥か水平線の上に、蜃気楼現象となって浮かぶ山並みを神仙堺と想定したのであろう。

『紀』あるいは「逸文」の記述にしても、遥か海の沖合いに神仙の世界を想像していたのではなかろうか。

「主人公」について

【出身地】

・與謝郡日置里筒川村

「浦島説話」について触れた『丹後國風土記』「逸文」によれば、主人公は丹後國「與謝郡日置里筒川村」に住む人物であると記されている。

『日本書紀』「雄略紀22年7月条」には「丹波國餘社郡管川」の人とある。

「浦島説話」の原作が誕生したのは西暦700年前後のことであるが、残念ながら、現在、私たちは「原作」それ自体を手にすることはできない。が、原作内容を知る手掛かりとなる史料が残されている。『日本書紀』、『万葉集』、『丹後國風土記』「逸文」の三書で、「浦島説話」を伝える始原の三書と位置付けられている。三書の中では、風土記・逸文が最も詳しく説話の内容に触れている。

・地名と行政区画名

『丹後國風土記』「逸文」は書き出し部分で主人公の出身地について「丹後國風土記曰、與謝郡。日置里。此里有筒川村」と触れている。

「浦島説話」が編纂され『丹後國風土記』に収載された期間は、行政区画名という観点から絞り込むことができる。

『風土記』撰進の詔勅が出されたのは713年(和銅6)5月2日(『続日本紀』)である。

国・郡・里という呼称は7世紀末、おそくとも702年(大宝2)の「大宝令」施行時には使われていたとされる。

『出雲國風土記』は、715年(霊亀元)に行政区画名が改定されたことを記している。それまでの「里」は「郷」に、「郷」の下に「里」が置かれた。

つまり、国・郡・里と呼称されたのは、715年(霊亀元)までということになる。

とすると、『丹後國風土記』に「浦島説話」が盛り込まれたのは713年(和銅6)から715年(霊亀元)までの2年間の間ということになる。元明朝、あるいは元正朝にかけての治世である。

原作成立は700年前後であるので、馬養が丹波國宰として赴任していた当時、すでに「與謝郡日置里」と呼称されていた可能性は高い。

この説話誕生の端緒について、「逸文」と『紀』はいずれも「雄略朝」の治世としているが、地名の呼称は8世紀初頭の言い回しが用いられていることになる。

・「日置里」について

『丹後國風土記』「逸文」によれば、主人公の出身地を「與謝郡日置里筒川村」としている。

『和名抄』に「日置郷」の郷名がある。「日置郷の範囲については、今・日置・世屋・野間・養老・伊根・朝妻・本庄・筒川・日ヶ谷等にわたると推測されている」(重松明久 浦島子伝 115頁 現代思潮新社 2006年)。

古代の部民に日置部(ひおきべ・へぎべ)がある。『日本書紀』「垂仁紀」の伝承によれば、大刀の製作に関係した品部(しなべ)の一つとされる。

『日本史広辞典』(山川出版社)によれば、日置部の「職掌は神霊を迎える聖火とその材料を調達したとする説と、武器鍛造の際の炭焼に従事したとする説が有力。この部の設置は6世紀に大和朝廷の祭祀体制が整備されたときであるという。律令時代には日置部姓の人々が出雲国に多数実在し、日置郷も西日本を中心に広く分布した。伴造としての日置氏の役割は、令制下では灯燭・炭燎などをつかさどる主殿(とのも)寮の殿部(とのもりべ)に継承された」とある(1915頁)。

「浦島説話」が伝承されたとする「丹後國與謝郡日置里筒川村」という土地と、品部(しなべ)の一つ「日置部」とはおそらく密接な関係をもっていたと思われる。

【人となり】

・「日下部首等先祖」「人夫」「姿容秀美、風流無類」

丹後の國與謝郡日置里筒川村に住む主人公は「人夫」であると「風土記・逸文」は伝える。つまり市井の人物であると。そして、彼は「日下部首等先祖」であり「姿容秀美、風流無類」と表現されている。男前で粋な人物であったと「逸文」は記すのである。

・「日下部首等先祖」

『丹後國風土記』「逸文」によれば、「水江浦嶼子」(=「筒川嶼子」)は「日下部首等先祖」であるとされている。

「日下部首」は『新撰姓氏録』によれば、和泉国の皇別で、第9代・開化天皇の子、彦坐命の子孫にあたり、日下部宿禰と同祖とされる。伊預部馬養連が丹波國宰を務めていたのは7世紀末で、当時、任地で説話伝承を耳にし、それをもとに「浦島説話」を書いたということになっている。日下部首は、雄略朝に生きた主人公の後裔氏族にあたることになる。

しかし、作中には「日下部首等先祖」とあり、必ずしも「日下部首」に限定しているわけではない。

こうした背景について、重松明久氏は「一般的には筒川あたりを中心に、浦島伝説が巷間にかなり流布したのちに、やや神格化しつつあった主人公を、自家の先祖としてとり入れることにより、自家の祖先伝承の潤飾の一助としようと試みた精神の産物と解すべきであろう」と指摘している(重松明久 浦島子伝(オンデマンド版) 113頁 現代思潮新社 2006年)。

5世紀末に国家統治者として君臨した「長谷朝倉宮御宇天皇(雄略天皇)」の治世に生きた主人公と、7世紀末に丹波・筒川あたりを支配した地方豪族「日下部首等」とは血脈を有するという設定が成されているのである。

【本名】

・「筒川嶼子」「水江浦嶼子」「水江浦嶋子」「水江浦島子」

「浦島説話」の主人公の名前はと問われれば、「浦島太郎」と答えるのが定番である。しかし、この名前は室町時代に成立した御伽草子によって初めて登場した名前である。

始原の三書では、主人公の名前は「筒川嶼子」「水江浦嶼子」「水江浦嶋子」あるいは「水江浦島子」などと呼ばれている。

『丹後國風土記』「逸文」によれば、筒川村に住む「筒川嶼子」という人物をいわゆる「水江浦嶼子」のことをいうとし、両者を同一人物としている。

また、「逸文」は漢文で書かれた前段と万葉仮名を中心として書かれた後段と二段構造を成しているが、後段では「美頭能睿能 宇良志麻能古」と万葉仮名で人名を表記している。

つまり、「ミズノエノ ウラシマノコ」と読んでいる。「浦島説話」の主人公の本来の名の読み方を示しているのである。

・「水」との深い縁

「水江浦嶼子」なる人物が実在したか否かという議論は別として、主人公の名前は字義に沿って解釈すると非常に興味深い意味を含んでいることがわかる。

「水」は五行を構成する要素の一つで、「江」は海や湖などが陸地に入り込んでいる場所である。

「浦」には海辺や波の静かな入り江といった意味がある。

「嶼」は島嶼の嶼で、大きな島に対する小さな嶼、二つの文字は対を成す語である。

「浦」も「嶼」(「嶋」「島」)もいずれも海、つまり水と密接に関係している。

また、十二支の第一である「子」は、五行思想では「水」にあたる。

さらに、「水江」は、「逸文」後段に万葉仮名で「美頭能睿」と読み方が記されているが、十干で「壬」は水の兄(え)である。「子」と十二支との相関のように、水江=ミズノエ=壬という十干との照応すら想定できるのである。

それだけではない。「浦」は表に対する裏、陰陽思想に照らせば「陰」とも照応すると推論することもできる。

つまり、主人公の名前には、陰陽五行、十干十二支を意識した原作者の意図を感じさせるのである。穿った解釈をさせるほど、説話の主人公の名前からは深い含意が汲み取れるのである。

神仙思想について

・主人公の名前

説話を伝える始原の三書には神仙思想の影響が色濃く反映されているが、「浦嶼子」という名前にも留意したい。

『抱朴子』は自ら山中に籠って仙術を修めたという葛洪が著した神仙を得るための書である。

彼が活躍したのは西晋から東晋の時代にかけてであるが、遡ること、中国漢代には「韓湘子(かんしょうし)」や「赤松子(せきしょうし)」といった代表的な仙人がいる。

説話と神仙思想という観点からみると、「浦嶼子」という名からは、やはり原作者の深い含意を感じるのである。

・「神仙の堺」

「浦島説話」を伝える始原の三書は、いずれもこの説話が神仙思想と深い結びつきをもっていることについて触れている。

『丹後國風土記』「逸文」には、「天上仙家之人」「蓬山」「等許餘(常世)」「仙都」のほか、「神仙の堺」と「神仙」の文字を用いてもいる。

また、『日本書紀』では「蓬莱山」「仙衆」、『万葉集』でも「不老不死」「常代」「永世」といった記述が見られる。

・「蓬山」と「蓬莱山」

「浦島説話」を伝える始原の三書に神仙思想の影響がみられることについて触れたが、主人公と「神女」(「逸文」)は「逸文」では「蓬山」、『紀』では「蓬莱山」へと赴いている。

「蓬莱山」は『史記』「秦始皇本紀」に不老不死の神仙が住む地で東海中にある三神山の一つとある。三神山とは、「蓬莱」「方丈」「瀛洲」の霊山である。

「浦島説話」は丹波の地に伝承されていたという設定が成されているが、主人公が神女と赴く異界が古代中国の伝説の地であることを含め、始原の三書を読む限り、丹波・「與謝郡日置里筒川村」という特定の地域に限定する確かな手掛かりを得ることはできないのである。

説話の内容自体からは、土地の匂いを嗅ぎ取ることは全くできないのである。

・蓬莱山

「浦島説話」の主人公・水江浦嶋子が訪れた世界は蓬莱山(『紀』)。

不老不死の仙人が住む蓬莱山は、方丈、瀛洲と合わせて三神山と称され、渤海沖に存在すると信じられていた。秦の始皇帝が徐福に命じ、童男童女数千人を引き連れて三神山に向かわせたことが知られている。

『丹後国風土記』「逸文」では「蓬山(とこよ)」、『万葉集』では「常世(とこよ)」とある。

亀」

「五色龜」と「大龜」

『丹後國風土記』「逸文」によれば、主人公「水江浦嶼子」は一人「小船」に乗って漁に出たものの「三日三夜」「一魚」の収穫もなかったが、そのとき、「五色龜」を得たのであったと記す。『日本書紀』には、「水江浦嶋子」が「舟」に乗って釣りをしていると、遂に「大龜」を得たとある。五色といえば、一般には青・赤・白・黒・黄の五種の色を指すが、これは五行思想を連想させる。五行思想では、方位と四季と五色は対応関係を有する。東方は青で春、南方は赤で夏、西方は白で秋、北方は黒で冬、中央は黄を象徴する。鶴は千年、龜は万年という寿ぎの言葉があるが、龜(亀)は不老長寿の神仙道教と深い結びつきをもつ。因みに、『万葉集』巻九に収載された「浦島説話」に「龜」は登場しない。

美しい女性に変身する「亀」

「始原の三書のうち、日本書紀と丹後国風土記・逸文にはそれぞれ「亀」が登場する。日本書紀では、浦嶋子が釣り上げた「大亀」は女性に変化する。逸文では、浦嶼子は「五色亀」を釣り上げ、寝ている間に亀は女性に変身する。両書とも、主人公は女性と化した亀と結ばれる。亀は主人公を神仙の世界へと誘う重要な役割を担っている」

「天上仙家之人」

『丹後國風土記』「逸文」によれば、主人公は釣り上げた「五色龜」を手に奇異な感じを持ちつつ船の中に置いてしばらく寝ている間に、「五色龜」は「婦人」に変身していたのである。嶼子と婦人(「女娘」)の間で言葉が交わされ、「女娘」が「天上仙家之人」であることがわかる。『日本書紀』も「大龜」は「女」に変身する。龜と女性を同体視している点は、「逸文」、『紀』とも共通している。一方、『万葉集』には「亀」は登場しない。大きな相違である。もっとも、『万』は作者を異にし、成立年も異なる。しかし、「天上仙家之人」の記述にもあるように、始原の三書に共通するのは、この説話に神仙思想の影響があるという点である。

祥と災異の讖緯思想

緯書は、前漢末から後漢の頃にかけて形成され流行した。この内容は、緯と讖とに大別することができる。儒教の根本経典に『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』の五経がある。経と緯の関係は一枚の織物にたとえられることが多い。「たて糸」を意味する経に対し、「よこ糸」を意味する緯は、相互に補完し合う関係性を有しているためである。両者をより合わせることで初めて一枚の布ができあがるように、経の内容を補足するものが緯書とされる。「経書の内容に沿った解釈書が緯」、「天文占などの未来予言書が讖」であり、両者を合わせて緯書、あるいは一般的には「讖緯」といわれる。(安居香山 緯書と中国の神秘思想 p23 平河出版社 1994年)緯書と讖緯は同義である。古代中国の予言説である讖緯思想は陰陽五行説に基づいている。「浦島説話」の原作者・伊預部馬養連はこの思想哲理に通暁していた。「逸文」に登場する「五色龜」、『日本書紀』の「大龜」は、いずれもこの思想と密接な関係性をもっている。

仙界での出来事につい

異界は光り輝く美しい世界

『丹後國風土記』「逸文」によれば、眠りに落ちた主人公は、たちまち「海中」の広大な嶋に到着した。そこは「其地如敷玉。闕臺晻映。樓堂玲瓏。目所不見。耳所不聞」という在り様だった。一面にはキラキラと照り輝く玉が敷き詰められ、これまで見たことも、聞いたこともない、想像を絶する光輝く美しい世界が広がっていた。「闕臺」とは「宮城の門の両傍に、二つの台(うてな)を築き、楼観(ものみ)をその上に設け、中央がくりぬかれた形に作られ、通りぬけることができるようにしたもの。昔、法令をこの上に掲げ、人々に示した。宮闕とか城闕ともいう」。「樓堂」は「二階建ての建物」という(重松明久 浦島子伝 18頁 現代思潮新社 2006年)。

「龜比賣之夫」

丹後國風土記』「逸文」によれば、仙界に赴いた主人公と神女は、「昴星」(七竪子)と「畢星」(八竪子)の出迎えを受ける。その際、彼等は互いに「龜比賣之夫」だと呼びかける。「神女」は「龜比賣」であり、主人公はその「夫」であるとみなしているのである。その後、「神女」(「女娘」)の「父母」も出迎える。

「夫婦の理」

『丹後國風土記』「逸文」によれば、仙界で「兄弟姉妹等」の歓待を受けた主人公は、歌や舞に夢見心地の時を過ごす。やがて日も暮れ、艶やかな宴を終えて、参加者たちは三々五々席を立ち、「女娘」と主人公は二人きりになる。肩を寄せ合い、袖を交えた二人は「夫婦の理」を成す。『日本書紀』では、女性と化した大龜を、浦嶋子は感じて婦となす(「感以爲婦」)という記述で表現している。『万葉集』では、「海界」で偶然に「神之女」と出会った「浦島子」は意気投合し、互いに求め合い、常世に至った(「相誂良比 言成之賀婆 加吉結 常代」)とある。始原の三書とも、性的なモチーフについて触れている。

「天地」と「日月」

『丹後國風土記』「逸文」には、「嶼子」は女性に変身した「五色龜」が「神女」であることを認識し、その事実を受け入れる。そして「神女」は「嶼子」と共に「天地と畢(を)え、日月と極まらむ」(共天地畢、倶日月極)ことを欲する。「天地」、あるいは「日月」は相反する二つのシンボルであるが、この記述には、二つの事柄は対立しつつも同根とする易(陰と陽とは共に相対的な関係性を有する)の哲理の影響を汲み取ることができる。易の哲理によって「永遠」を象徴的に表現しているのである。

「三歳」と「三百餘歳」

『丹後國風土記』「逸文」によれば、「神仙の堺」という異界を訪問した主人公は、夢心地の中で故郷への思いもすっかり忘れ「三歳」の歳月を過ごしたのであった。しかし、気がつくと望郷の念絶ち難く、日増しにその思いは強くなり、帰郷することを願うようになる。「神女」は別離を惜しみながらも、やがて、二人は別れの時を迎える。こうして、故郷に戻った主人公であったが、周りの景色は一変し、すっかり様子が変わってしまっている。「郷人」(村人)に尋ねてもわからない。「古老等」に聞いてみると、「先世」(はるか以前)、「水江浦嶼子」という人物がいたが、一人で海に出たまま帰ることなく、すでに「三百餘歳」が過ぎてしまっている、という。主人公は、事実を受け入れられず、茫然自失の状態に陥ってしまうのである。異界での三年は、現世での三百年余りに相当することになる。