文責:村山芳昭 2008.11.01

『丹後國風土記』「逸文」の「浦島説話」

 丹後國風土記曰。
 与謝郡。
 日置里。
 此里有(二)筒川村(一)。此人夫、日下部首等先祖、名云(二)筒川嶼子(一)。
 爲人、姿容秀美、風流無レ類。斯、所謂水江浦嶼子者也。
 是、旧宰伊預部馬養連、所レ記無(二)相乖(一)。故、略(二)陳所由之旨(一)。
 長谷朝倉宮御宇天皇御世、嶼子独乘(二)小船(一)、汎(二)出海中(一)爲レ釣。経(二)三日三夜
 (一)、不レ得(二)一魚(一)、乃得(二)五色龜(一)。心思(二)奇異(一)、置(二)于船中(一)即寐、
 忽爲(二)婦人(一)。其容 美麗、更不レ可レ比。
 嶼子問曰「人宅遥遠、海庭人乏、詎人忽來」。
 女娘微咲對曰「風流之士、獨汎(二)蒼海(一)。不レ勝(二)近談(一)、就(二)風雲(一)來」。
 嶼子復問曰「風雲何處來」。
 女娘答曰「天上仙家之人也。請君勿レ 疑。垂(二)相談之愛(一)」。
 爰嶼子知(二)神女(一)、鎭(二)懼疑心(一)。
 女娘語曰「賤妾之意。共(二)天地(一)畢。倶(二)日月(一)極。但君奈何、早(二)先許不之意(一)」。
 嶼子答曰「更無レ所レ言。何觸乎」。
 女娘曰「君冝レ廻レ棹、赴(二)于蓬山(一)」。嶼子従往。
 女娘、教(二)令眠目(一)、即不意之間、至(二)海中博大之嶋(一)。其地如レ敷レ玉。
 闕臺晻映、樓堂玲瓏 。目所レ不レ見、耳所レ不レ聞。
 携手徐行、到(二)一太宅之門(一)。
 女娘曰「君且立(二)此處(一)」、開レ門 入レ内。
 即七竪子來、相語曰「是龜比売之夫也」。
 亦八竪子來、相語曰「是龜比売之夫也」。
 茲知(二)女 娘之名龜比売(一)。及女娘出來。
 嶼子語(二)竪子等事(一)。
 女娘曰「其七竪子者、昴星也。其八竪子者、畢星也。君莫恠焉」。
 即立レ前引導、進(二)入于内(一)。
 女娘父母共相迎、揖而定レ坐。
 于斯、称(二)説人間仙都之別(一)、談(二)議人神偶曾之嘉(一)。
 乃薦(二) 百品尊味(一)。兄弟姉妹等、擧レ坏獻酥酬。隣里幼女等、紅顔戯接。
 仙哥寥亮、神儛逶迤。其爲(二)歡宴 (一)、万倍(二)人間(一)。於茲不レ知(二)日暮(一)。
 但黄昏之時、群仙侶等、漸々退散、即女娘獨留。雙レ肩接レ袖、成(二)夫婦之理(一)。
 于時嶼子、遺(二)舊俗(一)遊(二)仙都(一)、既経(二)三歳(一)。
 忽起(二)懐土之心(一)、独恋(二)二親(一)。
 故、吟哀繁發、嗟歎日益。
 女娘問曰「比來観(二)君夫之貌(一)、異(二)於常時(一)。願聞(二)其志(一)」。
 嶼子對曰「古人言。小人懐レ土。死狐首レ岳。僕以(二)虚談(一)。今斯信然也」。
 女娘問曰「君欲レ帰乎」。
 嶼子答曰「僕近離(二)親故之俗(一)、遠人(二)神仙之堺(一)。不レ忍(二)恋眷(一)、
 輙申(二)軽慮(一)。所望暫還(二)本俗(一)、奉(二)拝二親(一)」。
 女娘、拭レ涙歎曰 「意等(二)金石(一)、共期(二)萬歳(一)、何眷(二)郷里(一)、棄遺一時」。
 即相携徘徊。相談慟哀。
 遂、接レ袂退去、就(二)于岐路(一)。於是、女娘父母親族。但悲レ別送之。
 女娘取(二)玉匣(一)、授(二)嶼子、謂曰「君終不レ遺(二)賎妾(一)、有(二)眷尋(一)者、
 堅(二)握匣(一)、 慎莫開見」。
 即相分乗レ船、仍教(二)令眠目(一)、忽到(二)本土筒川郷(一)。即瞻(二)眺村邑(一)、
 人物遷易、更無レ所レ由。
 爰問(二)郷人(一)曰「水江浦嶼子之家人、今在(二)何処(一)」。
 郷人答曰「君何處人、問(二)舊遠人(一)乎。
 吾聞(二)古老等(一)曰、先世有(二)水江浦嶼子(一)。
 独遊(二)蒼海(一)、復不(二)還來(一)、今経(二) 三百餘歳(一)者、何忽問レ此乎」。
 即銜(二)棄心(一)、雖レ廻(二)郷里(一)、不レ会(二)一親(一)、既逕(二 )旬月(一)。
 乃撫(二)玉匣(一)、而感(二)思神女(一)。
 於是嶼子、忘(二)前日期(一)、忽開(二)玉匣(一)、
 即未レ瞻之間、芳蘭之体、率(二)于風雲(一)、翩飛(二) 蒼天(一)。
 嶼子、即乖(二)違期要(一)、還知(二)復 難(一)レ会。廻レ首踟蹰、咽レ涙徘徊。 

 于斯、拭レ涙歌曰、
 等許余蔽尓 久母多智和多留 美頭能睿能 宇良志麻能古賀 許等母知和多留
 神女遥飛、芳音歌曰、
 夜麻等蔽尓、加是布企阿義天 久母婆奈禮 所企遠理
 等母与 和遠和須良須奈
 嶼子更、不レ勝(二)恋望(一)、歌曰、
 古良尓古非 阿佐刀遠比良企。和我遠礼婆。等許与能波麻能。奈美能等企許由。
 後時人、追加歌曰、
 美頭能睿能、宇良志麻能古我 多麻久志義 阿気受阿理世波 麻多母阿波麻志遠
 等許余蔽尓 久母多智和多留 多由女 久母波都賀米等 和礼曾加奈志企

前田家本『釈日本記』第十二「浦嶋子」条
植垣節也校注・訳 風土記 pp479~483 新編日本古典文学全集5 小学館1997

『丹後國風土記』「逸文」の「浦島説話」解説

「丹後國風土記曰。與謝郡日置里。此里有筒川村。此人夫日下部首等先祖。名云筒川嶼子」

『丹後國風土記』は伝える。與謝郡日置里に筒川村があり、その地の住人で、日下部首等の先祖にあたり、名を筒川嶼子という一人の人夫がいた。

いわゆる「浦島説話」の原作者は、持統、文武朝に活躍した官人・伊預部馬養連であるが、残念ながら原作それ自体は伝存していない。しかし、『日本書紀』、『万葉集』、『丹後國風土記』「逸文」に原作内容を知る手掛かりが遺されている。

「浦島説話」を伝える始原の三書と呼ばれる史料である。このうち、「逸文」が最も詳しく内容について触れている。

「爲人姿容秀美。風流無類。斯所謂水江浦嶼子者也。是舊宰伊預部馬養連所記無相乖。故略陳所由之旨」

「逸文」は、主人公の人となりについて、美男子なうえ、高貴で洗練された雅(みやび)な雰囲気を醸し出す類(たぐい)なき人物と賞賛している。この好青年こそが、いわゆる水江浦嶼子という者である。

丹後國與謝郡日置里筒川村に住む筒川嶼子なる人物と水江浦嶼子とは同一人物であるという。

「逸文」の文面を読む限り、筒川嶼子という名が本名で、水江浦嶼子は、いわばニックネームの如き印象を受けるのである。

これから語る内容は、丹波國で元の国守(「旧宰」)を務めた伊預部馬養連が書き記した内容を忠実に反映している。以下、概略を語ることにする、というのである。

「長谷朝倉宮御宇天皇御世。嶼子獨乘小船汎出海中爲釣。經三日三夜不得一魚。乃得五色龜。心思奇異。置于船中。即寐。忽爲婦人。其容美麗更不可比」

「浦島説話」の原作内容を知る手掛かりとなる始原の三書のうち、『日本書紀』と『丹後國風土記』「逸文」は、この説話にある出来事は雄略朝(「長谷朝倉宮御宇天皇」)のこととしている。

「浦嶼子」の読み方については、「ウラシマノコ」、「ウラノシマコ」、あるいは「ウラシマコ」等、いくつかの見解があるが、「嶼子獨乘小船」という記述からみると、「浦」を氏、「嶼子」を名としているように思われ、ウラノシマコと読むのが理に適っているように考えられる。

ただ、後述するが、「逸文」は、漢文で書かれた前段と、万葉仮名を主として構成された後段の二段構造になっており、後段では、六文字の万葉仮名で「宇良志麻能古」、つまり、ウラシマノコと読ませている。前段と後段とは成立時期を異にするといった解釈もあり、このあたりの問題も説話研究の課題となっている。

主人公は海に出て釣りをするも、三日三晩一尾の魚すら釣り上げることができなかった。と、「五色龜」を得た。奇異な感じを覚えつつも、船の中に置き、眠りについた。すると、忽ち、龜は美しくも妖艶な「婦人」に変身したのであった。

  • 主人公の名前の読み方について、小島憲之ほか校注・訳『万葉集②』(新編日本古典文学全集7 小学館 1995年)は、次のような注を施している。「浦島子―逸文『丹後国風土記』にはこの浦島子説話にまつわる五首の歌が収められているが、それらに「宇良志麻能古」とあるのによって一般に「浦島の子」と呼ばれているが、同書には「筒川島子」「嶼子」ともあり、これを引いた『釈日本紀』『古事談』などにも「嶼子」「島子」とあるのを尊重し、「浦の島子」と読む」とある(p414)。

「嶼子問曰。人宅遥遠。海庭人乏。詎人忽來。女娘微咲。對曰風流之士獨汎蒼海。不勝近談。就風雲來」

嶼子は問う。人家は遥か遠く、広い海原に人などいようはずもない。どうして、ここにやって来ることができたのか。女娘は微笑む。素敵な男性が一人大海原にいるのを目にし、お近づきになりたいと思い、風雲に乗りやってきたの。海から釣り上げた五色の龜は比べようもない美しい女性に変身したが、彼女は仙人の如く風雲に乗ってやって来た、というのである。

美男美女の出会いは、女性からのアプローチで始まる。今から1300年以上前に書かれた物語としては、新鮮な驚きを覚える記述である。女娘は海中に住まうのではなく、天上に住まうと言うのである。

  • 詎・・「反語を表す副詞。①なんぞ(何)。どうして」の意(鎌田正ほか著 新漢語林 大修館書店)。

「嶼子復問曰。風雲何處來。女娘答曰。天上仙家之人也。請君勿疑。乗相談之愛。爰嶼子知神女。鎭懼疑心。女娘語曰。賤妾之意。共天地畢。倶日月極。但君奈何早先許不之意」

嶼子は再び問う。風雲とはどこから来たのか。女娘は答える。仙人が住む天上界から来たのです。どうか信じてくださいね。そして、お願いですから私と親しくしてくださいね。彼女が神女であることを知り、疑念は氷解した。女娘は口を開く。私の気持は、二人で天地、日月の永久(とわ)の次元に身を置くことなのです。貴方はどうお考えですか。まずもってお気持が知りたいの。この場面でも、女性の積極性は変わらない。

「天上仙家之人」について、重松明久氏は次のような注を施している。「天空に住む仙人、いわゆる天仙をさす。『抱朴子』などでは地上に居る地仙に対し、仙人の上等なもので、天空にも自由に昇れるものを天仙とする。のちに星の幼童が島子を迎えるとし、天空の物語であるとともに、蓬莱山を訪れたこととし、地上神仙境を訪れたともしている。天仙は地上・天上ともに自由に往来でき、島子が誘導されて訪れたことになるので、矛盾・不自然さはない」(重松明久 浦島子伝 p17 現代思潮新社 2006年)と指摘する。

「請君勿疑。乗相談之愛。」について、植垣節也校注・訳 風土記(新編日本古典文学全集5 小学館 1997年)は「請(ねが)はくは君な疑ひそ。相談(かたらひ)の愛(うつくしみ)を垂(たま)へ(お願いだから疑わないで。親密な情愛をかけてください)」(p475)と解し、「かたらふ」は「男女における親密な会話を意味」(p476)するとしている。

「嶼子答曰。更無所言。何觸乎。女娘曰。君冝廻棹赴于蓬山。嶼子従往。女娘教令眠目。即不意之間。至海中博大之嶋。其地如玉敷。闕臺晻映。樓堂玲瓏。目所不見。耳所不聞」

嶼子は答える。拒否する理由などない。望むところです。女娘が言う。貴方が船を漕いで下さい。蓬山に行きましょう。嶼子は従った。女娘は嶼子を眠らせた。忽ち、海中の大きな嶋に着いた。その地は美しい宝玉が一面に敷き詰められたよう。門の外の高殿は暗く見えたが、内にある高殿は光り輝いていた。そんな情景は、これまで見たこともなければ、聞いたこともない世界だった。「蓬山」は、神仙の住む蓬莱山の略。

文中の「何觸乎」について、植垣節也校注・訳 風土記(新編日本古典文学全集5 小学館 1997年)は「何そ懈(おこた)らむ(どうして躊躇しようか)」(p475)と解し、「海中」について、「海上の意。海の遥か彼方を思い描いている」(p476)としている。また、「闕臺」を「宮城門外の高殿」、「樓堂」を「門内の高殿」としている。「晻映」について、「意改して「暸映」とし、「暸映・玲瓏」は共に闕台・樓堂が美しく輝く様の讃美。遊仙的気分が横溢する」(p476)としているが、「晻」は暗い意であり、光り輝く世界を際立たせるための表現とも思われる。

「玲瓏」は「①金属や玉などが美しいさえた音をたてるさま。また、音声の澄んで響くさま。②玉などが透き通り曇りのないさま。③うるわしく照りかがやくさま」(広辞苑 第5版)とある。

想像を絶した魅惑的な世界が眼前に現れてくる様が描かれている。

「携手徐行。到一太宅之門。女娘曰。君且立此處。開門入内。即七竪子來。相語曰。是龜比賣之夫也。亦八竪子來。相語曰。是龜比賣之夫也。茲知女娘之名龜比賣。及女娘出來。」

二人は手を取り合ってゆっくりと進んで行く。すると、一軒の見事な家の門にたどり着いた。女娘が言う。少しの間、ここにいてください。彼女は門を開いて中に入っていった。すると七人の童子が来て、この人が龜比賣の夫だね、と語り合った。また八人の童子が来て、口々に同じことを言った。こうして女娘の名前が龜比賣であることがわかったのである。そうこうするうちに女娘が戻ってきた。

この場面では、女娘が「龜比賣」と呼ばれていることが明らかになる。

美しい女娘は龜と同体視されている。「一太宅之門」は一軒の見事な(大きな)家の門とみるが、作者が「太一」と読み替えることを企図して「一太」と表記したと解することはできる。

そのように解釈する根拠として、嶼子と女娘とのやりとりがあげられる。女娘が嶼子に「共天地畢。倶日月極」と語りかける場面があったが、この表現と「一太」(太一)とは連動していると解すべきである。「一太」宅は「共天地畢。倶日月極」の世界(異界)に連なる象徴表現とみる解釈である。

後述するが、一太宅之門をくぐり中に入っていった嶼子は、そこで女娘と夫婦の交わりをするのである。

「太一」は、天地分離以前、つまり陰陽未分の混沌とした太初、万物の根源を象徴するが、「太一」は陰陽を統合したシンボリックなものである。

男女交合の記述は、陰陽統合の象徴的表現、とみることができるのである。

昴(スバル)星と畢(アメフリ)星

「嶼子語竪子等事。女娘曰。其七竪子者昴星也。其八竪子者畢星也。君莫恠焉。即立前引導。近入于内。女娘父母共相迎。揖而定坐。于斯稱説人間仙都之別。談議人神偶曾之嘉。」

嶼子は女娘に童子(竪子)等のことについて語った。女娘は言う。七人の童子は昴(スバル)星。八人の童子は畢(アメフリ)星。怪しむ必要など全くないですよ。嶼子の前に立つと、女娘が案内して中に入っていった。女娘の両親も揃って出迎え、挨拶を交わした後に座った。両親が人の世と仙界との違いについて説明し、人と神とがたまたま出会えた喜びを語り合ったのである。

昴星と畢星は、二十八宿の西方七宿の一つ。「二十八宿は、夜ごとに宿る月の位置を知る必要から考え出されたものであり、日月五星(五惑星)の天球上における位置や運動を示すための中国天文学の基本星座」(有坂隆道 古代史を解く鍵 p191 講談社 1999年)。

「揖而定坐」の「揖」には「①両手を胸の前で組み合わせて、上下し、または前におしすすめてする礼の作法。②胸の前で組み合わせた両手を胸にあてて人を招きすすめる動作」(鎌田正ほか著 新漢語林 p546 大修館書店 2007年)という意味がある。

重松明久氏は「両手を胸の前に組み合せ、身をかがめながら、上下し又は前におし出して挨拶する」としている(重松明久 浦島子伝 p18 現代思潮新社 2006年)。

嶼子と女娘の父母との出会いの場面が目に浮かぶようであるが、美しい女性に変身する五色の龜、赴く先は蓬莱山、出迎えたのは二十八宿の西方七宿にある昴星と畢星の竪子、そして、この挨拶の作法にもどことなく中国風な印象を受ける。「仙都」について「仙人の住む所。仙郷・仙境・仙界・仙寰ともいう。和語では常世」とする(前掲書 p18)。仙界と常世とは同義とされている。

女娘の正体は、海から釣り上げた五色の龜であるが、その龜とともに訪れた仙界は、天空に存在することになる。変幻自在である。

「乃薦百品尊味。兄弟姉妹等擧坏獻酥酬。隣里幼女等紅顔戯接。仙哥寥亮。神儛逶迤。其爲歡宴。萬倍人間。於茲不知日暮。但黄昏之時。群仙侶等漸々退散」

(女娘の父母等は)目を楽しませる数々の料理を薦めた。兄弟姉妹たちも杯を重ね合い、賓客に酒をすすめた。隣の里の幼女等もほほを赤らめ座を盛り上げた。仙界の人たちの歌は透き通るように響き渡り、連なり続く舞も神々しいさまであった。宴の在り様は人間界の比ではなかった。日が暮れるということすら分からなかった。黄昏時。宴に参加していた多くの仙人等は三々五々席をたっていった。

作者は、仙界と人間界、つまり異界と顕界との際立った相違を、宴席の場面をとおして表現した。食をそそる料理の品々、芳しい香り、女人等の艶やかさ、といった幻想的雰囲気が五感をとおして伝わってくる。

「即女娘獨留。雙肩接袖。成夫婦之理。于時嶼子遺舊俗。遊仙都。既経三歳。忽起懐土之心。獨戀二親。故吟哀繁發。嗟歎日益。女娘問曰。比來観君夫之貌。異於常時。願聞其志。」

多くの仙人等が退席した後には、女娘が一人残った。二人は肩を寄せ合い、袖を接しながら、遂に夫婦となるのである。嶼子が仙界に留まってから既に三年の月日が流れた。突然、望郷の念にかられ、父母への思いが募った。悲しさとやるせなさから嘆息し、嘆く思いは日々募るばかり。女娘は問う。最近様子が変ですわ。顔色もすぐれず一体どうしたというのですか。理由を教えてください。

「比來観君夫之貌。異於常時。願聞其志。」の箇所について、植垣節也校注・訳 風土記(新編日本古典文学全集5 小学館 1997年)は「比来(このころ)君夫(わがせ)の貌(さま)を観(み)るに常時(よのつね)に異(ことな)れり」(p477)という解釈をあてている。

「逸文」は、漢文で書かれた前段と、万葉仮名を中心として書かれた後段との二段構造を成しているが、前段におけるクライマックスの一場面がここに描かれている。仙界を訪れた嶼子は、手厚いもてなしを受けた後、女娘と「夫婦の理」を行ない法悦に浸る。二人は、まぐわい、一つになるのである。しかし、仙都での滞在は三年に及び、故郷に残した父母への思慕の念にかられる嶼子。女娘は嶼子の様子を案じるのである。

「嶼子對曰。古人言。小人懐土。死狐首岳。僕以虚談。今斯信然也。女娘問曰。君欲帰乎。」

嶼子は女娘の問いに答える。古(いにしえ)の人は言い残している。市井の人物は故郷(ふるさと)を懐かしみ、狐は故郷の岳に頭を向けて死する。所詮は他人事(ひとごと)と思っていたが、今は違う。その言葉の意味がしみじみと感じられる。嶼子は故事を引き合いに、自分の率直な気持を女娘に伝えた。女娘は、貴方は帰りたいのですね、と問うた。

「小人懐土。死狐首岳。」という故事について、植垣節也校注・訳 風土記(新編日本古典文学全集5 小学館 1997年)は「『論語』里仁篇の「君子は徳を懐ひ、小人は土を懐ふ」による。原文「少」。「小」「少」は通用して用いる。『礼記』檀弓上に「古の人に言有りて曰はく、狐死して正に首を丘にせるは仁なりといふ」とあるのによったもの」と注を施している(p477)。

また、重松明久氏は、この記述について「『楚辞』に「狐の死するとき、必ず丘に首ふ」とある。狐が死ぬさい、自分の巣のある丘に向いて死ぬということで、故郷を忘れないことの表現」と指摘している(重松明久 浦島子伝 p19 現代思潮新社 2006年)。つまり、この箇所は作者が『論語』『礼記』あるいは『楚辞』の一節を参考にして記述しているとみている。

原作自体にも同様の記述があったとすれば、馬養が当時、漢籍に通暁していた第一級の人物とされたことを裏付ける一つの材料となろう。

故郷(ふるさと)を遠く離れて暮らす人びとにとって、その地を思う気持というものは、昔も今も変わるものではないということなのだろう。

「嶼子答曰。僕近離親故之俗。遠人神仙之堺。不忍恋眷。輙申軽慮。所望暫還本俗。奉拝二親。」

嶼子は答える。自分は親元を遠く離れ、今は神仙の世界にいる。故郷を思う気持抑えがたく、軽々しい言葉を口にしてしまった。だが、できることであるなら、暫く故郷に帰り、両親の顔を見たいのだ。

「うさぎ追いしかの山、こぶな釣りしかの川・・・、山は青きふるさと、水は清きふるさと」文部省唱歌として親しまれた「故郷(ふるさと)」が誕生したのは明治31年。当時は、この歌詞のような風景は日本全国いたるところで見られたであろうが、今や生活の高度化、都市化の拡大に伴う環境破壊は地球規模で進み、美しい河川や緑豊かな山々は減少の一途をたどっている。

「浦島説話」原作が成立したのは今から1300年余り前。「小人懐土。死狐首岳。」という記述が、作者が『論語』や『礼記』、『楚辞』等の一節を参考にして書いたとするなら、当時から遡ること更に700年以上、今から2000年以上も前ということになる。

「故郷は遠きにありて思うもの」という言葉もあるが、自分が生まれ育った故郷を思う気持というものは、人間も動物の一種である以上、回帰性、帰巣性といった本能に根ざした働きも作用するのであろうか。いずれにしても、嶼子は帰郷することを強く願ったのである。

「女娘拭涙。歎曰。意等金石。共期萬歳。何眷郷里。棄遺一時。即相携徘徊。相談慟哀。」

女娘は涙を拭い、嘆いて語る。心は金石に等しく不朽不変なのに。それを願っていたのに。何故、望郷の念に苛まれるのか。二人の一時を棄てるのか。二人は手を取り合って愛を確かめつつも悩み苦しみ、語り合っては嘆き悲しんだのである。

「意等金石」について、重松明久氏は「あなたを想う心は金石の如く堅く変りなく」とし、「共期萬歳」を「永遠に夫婦であろうと約束していたのに」としている(重松明久 浦島子伝 p19 現代思潮新社 2006年)。

問題は次の「棄遺一時」の解釈である。

重松氏は「棄遺」を「心変りして私を捨て忘れること」、「一時」を「瞬時」と解している(前掲書 p19)。

植垣節也校注・訳 風土記(新編日本古典文学全集5 小学館 1997年)は「意等金石。共期萬歳。何眷郷里。棄遺一時」の箇所について「二人の思いは金属や石ほどに固いと永遠を約束したのに、古里を懐かしむあまりに私を棄て去るということがどうしてこのようにあっけなくもやってくるのか」という解釈をあてている(p478)。

「一時」とはどのような状態を表現しようとしているのであろうか。「浦島説話」の主人公の名が「浦島太郎」に変質するのは室町時代に成立した御伽草子からである。そこでは、主人公が赴いたのは「竜宮城」であり、主人公は東が春、南が夏、西が秋、北方が冬という「四方四季」を同時に体験する。

御伽草子の「浦島説話」の作者は、当然、原作内容、あるいは原作内容を知る手掛かりとなる始原の三書についての知識はあったはずである。御伽草子の作者は、「一時」と「四方四季」とを重ね合わせて描写したのではなかろうか。

「一太宅之門」をくぐり、そこで夫婦としてまぐわい一つになる。男女交合の性的主題は、一太ではなく太一、つまり象徴表現としての陰陽統合という見方を示したが、同様に、一なる時とは、我々が日常体験している一方向に流れる“時間の矢(arro of time)”とは異なる、過去と現在、未来が同時に畳み込まれた円環的時間の認識という心理的体験の事実を表現したものではないか、とみるのである。

心理学的な観点からいうと、男女交合の性的モチーフ、円環的時間といった記述には大変興味深い内容が含まれていると思うのである。

「遂接袂退去。就于岐路。於是女娘父母親族。但悲副送之。女娘取玉匣。授嶼子。謂曰。君終不遺賎妾。有眷尋者堅握匣。慎莫開見。即相分乗船。」

遂に嶼子と女娘はそでを合わせ、別れのときをむかえた。女娘はもとより、父母、その親族が悲しみをこらえ見送った。そして、女娘は玉匣を取り出すと、嶼子に手渡した。女娘は語りかける。どうか私のことを忘れないで。また再会しようと思うのであれば、この匣を固く握り締め決して開けないでください。そして、二人は別々の船に乗った。

「浦島説話」といえば、欠かせない小道具が“玉手箱”。

植垣節也校注・訳 風土記(新編日本古典文学全集5 小学館 1997年)は「玉匣」を「乙女が愛用している美しい化粧箱」と表現し(p478)、重松明久氏は「貴重な物を入れる玉で飾った立派な箱」としている(重松明久 浦島子伝 p19 現代思潮新社 2006年)。「玉匣(たまくしげ)」と読む(水野祐 古代社会と浦島伝説 p53 雄山閣 1975年)。

「君終不遺賎妾。有眷尋者堅握匣。慎莫開見。」の箇所について、阪口保氏は「君、終に賎妾(われ)を遺(わす)れずして眷(かへり)み尋ねむとならば、堅く匣を握(と)り、慎(ゆ)めな開き見給ひそ」と訳している(阪口保 浦島説話の研究 pp27~28 新元社 1955年)。

この説話の原作者は、非常に深い含意をもって作品を構想、執筆していると思う。タブーは破られることになるにも関わらず、決して開けてはならない玉匣をわざわざ渡すという内容、別離の際、二人がそれぞれ別々の船に分乗する、という記述も豊かな示唆に富んでいる。

作者の隠された意図を推理する作業は知的興奮を惹起せずにはおかない。

「仍教令眠目。忽到本土筒川郷。即瞻眺村邑。人物遷易。更無所由。爰問郷人曰。水江浦嶼子之家人今在何処。」

嶼子は眠らされる。すると、瞬く間に故郷・筒川に着いたのである。そこで村里をくまなく見てみたものの、様子は一変している。どうしたというのだ。嶼子は里の人に問いかけた。水江浦嶼子の家族は今どこにいるのか、と。

「仍教令眠目」について、重松明久氏は「仍(よ)りて教(をし)へて目を眠らしめき」と読んでいる(重松明久 浦島子伝 p13 現代思潮新社 2006年)。

蓬莱山は海の彼方に存在すると考えられていたが、嶼子が女娘と訪れた先は、昴星、畢星、つまり天空世界となっている。しかし、眠りに着くや否や、故郷に戻ったのである。「忽」、つまり瞬時ともいえるわずかな時間である。

記述だけをみれば、どうみても、フィクションとしかいえない。だが、我々は、しばしば非現実的で荒唐無稽な内容の夢をみることはある。夢の世界の体験ならば、説話の内容を追体験することも可能であろう。夢の内容が如何なるものであろうとも、それは心理的体験としての事実なのである。

「浦島説話」が深層心理学の立場からみて大変興味深いのは、この説話が無意識の体験と密接な関係性を有していると考察できるためである。

「郷人答曰。君何處人。問舊遠人乎。吾聞。古老等郷人答曰。先世有水江浦嶼子。独遊蒼海。復不還來。今経三百餘歳者。何忽問此乎。」

村人は答える。あなたは一体どこの方ですか。大昔の人のことを尋ねているのですか。私は聞いたことがある。村の古老等が言うのには、昔、水江浦嶼子という人物がいた。彼は一人で海に出たものの、その後再び帰ってくることはなかった。もう三百年余りも前のことなのに、何故、唐突にそのようなことを聞くのですか。

・・・嶼子が仙界で体験した時間は「三歳」であったのに、帰郷した彼を待っていたのは、まるでタイムマシンにでも乗ってきたかのごとく「三百餘歳」が経過していたというのである。つまり、仙界での「三歳」は、現世での「三百餘歳」に相当することになる。嶼子は二種類の異なる時間を体験したことになる。

豊田有恒氏は、この点を「相対時差の問題」として「ローレンツの変換式」を取り上げ、物理科学的観点から時間収縮について考察している(豊田有恒 神話の痕跡 青春出版社 1997年)。

「浦島説話」は、人と神仙との結婚を語る神婚説話であるが、男女交合のモチーフは、此岸の時間と彼岸の時間の結合・統合、あるいは、過去から未来に向けて直線的に流れる非可逆な物理的一次元の時間系と、過去・現在・未来が畳み込まれた円環的時間との並存の象徴表現といった言い回しが可能なのであろうか。

「即銜棄心。雖廻郷里。不会一親。既逕旬月。乃撫玉匣而感思神女。於是嶼子忘前日期。忽開玉匣。」

呆然とした思いにかられつつ故郷を歩き回る嶼子。だが父とも母とも会うことができない。こうして既に一月が経過したのである。嶼子は玉匣を撫でながら、神女に思いを馳せるのであった。何を思ったか、嶼子は前に契った約束を忘れ、おもむろに玉匣を開けてしまったのである・・・決して開けてはならないと固く約束をしたにも拘わらず、禁忌は遂に破られるのである。

「旬月」には「①まる一か月。②十か月。③十日か一か月の間。④わずかな日数」といった意味がある(鎌田正ほか著 新漢語林 大修館書店 2007年)。そのため「旬月」を「十日」と解する研究者もいる。

「即未瞻之間 芳蘭之体 率于風雲 翩飛蒼空 嶼子 即乖違期要 還知復難会 廻首踟蹰 咽涙徘徊」

たちまち、蘭のような芳(かぐわ)しき本質を有した玉匣の中身は、風雲につれられて天空に飛翔してしまった。神女との約束を反故にした嶼子は、二度と会うことが困難になってしまったことを悟ったのである。そして、後ろを振り返り、佇(たたず)み、悲嘆の涙にくれながら、ただ歩き回るしかなかった。

・・・この箇所も難解な表現である。とくに「芳蘭之体 率于風雲 翩飛蒼空」の箇所、とりわけ「体」をどう解釈するかという問題がある。以下、いくつかの研究書から取り上げたい。

①「かぐわしい香の匂いが風雲と共に翻って、天上に昇って行った」(植垣節也校注・訳 風土記 p479 新編日本古典文学全集5 小学館 1997年)。

②「風雲につれられて。玉匣を開いたため、匣の中にしまわれていた嶼子の若さが、天上に飛び去ってしまった」(重松明久 浦島子伝 p20 現代思潮新社 2006年)。

③「芳しき蘭のごとき体(かたち)、風雲にしたがひて、蒼空(あほぞら)に翩飛(ひるがへりとび)き」(水野祐 古代社会と浦島伝説(上) p53 雄山閣 1975年)。

ここで取り上げた研究書だけをみても、「体」の解に微妙な相違がみられる。③は「体(かたち)」としている。主体は嶼子といえるが意味は難解である。「体」という漢字は、「①からだ。み。首・胴・手・足の総称。「身体」「肉体」。②てあし。四肢。③かたち。ありさま。すがた。状態。「形体」④本性。物事の根本となるもの。⑤身につける。自分自身で行う。「体験」」(鎌田正ほか著 新漢語林 大修館書店 2007年)。

「体」の意味を理解する場合、後の記述とも関連してくる。「体」の主体を嶼子とすれば、彼の身体が蒼空に飛翔してしまったことになり、すると彼の死を描写したと解するのが自然と思うが、そうすると、その後に涙を流し、歩き回る嶼子の描写との整合性をどうみるかという問題が生じる。

坂田千鶴子氏は「故郷の変貌を知って放心状態の男が、うっかり玉手箱を開けると、雲に包まれた娘のからだは風に乗り、目にも止まらぬ速さで蒼い天空を飛んでいってしまいました。男が悲嘆にくれ、せめて娘への想いを運んでくれ・・・」とし、「体」の主体を娘としている(坂田千鶴子 よみがえる浦島伝説 p1 新曜社 2004年)。このように解すると、前述の矛盾は解消される。

「体」の意味について、原作者の記述意図は「④本性。物事の根本となるもの。」にあるのではなかろうか。

「芳蘭之体」は、玉匣に込められた本質を表現した記述とみるのである。仙界の本質は無限循環する円環的時間ではないのか。仙界に住まう神女のみならず、嶼子も、円環的時間の体得者になったのであると理解するならば、作者は、玉匣から出たものは、円環的時間の消失をシンボリックに表現したと解すべきなのではないか。

「于斯拭涙。歌曰。等許余蔽尓。久母多智和多留。美頭能睿能、宇良志麻能古賀。許等母知和多留。」

涙を拭って歌を詠んだ。常世に向かって雲がたなびいている。水江浦嶼子の言葉を添えてなびいていく。

・・・「逸文」が語る「浦島説話」は漢文で書かれた前段と万葉仮名を中心として書かれた後段との二段構造になっている。

この箇所から後段となる。時々刻々と形を変え、やがて儚く大空に溶けて消えていく白い「雲」を、当時の人々は、生命原理の象徴と見立てることが少なくなかった。

「雲」が人間の魂、霊的存在を表象するものという認識にたって『万葉集』に詠まれた歌(巻3-428番歌)がある。

常世は、不老不死の仙人の住まう仙界であるとともに、死の魂が赴く世界でもあった。この箇所は、嶼子の死を描写したと解することができる。

前段と後段とは成立時期を異にするという見解もある。理由はいくつかあるが、一つは両者の表記の仕方の相違である。

また、前段では主人公を「嶼子は・・・」と表記しており、「浦嶼子」はウラノシマコという呼び方が想定されるが、後段では「宇良志麻能古」=ウラシマノコと呼称されている点もその理由の一つとされている。

検討を要する問題ではある。

「神女遥飛。芳音歌曰。夜麻等蔽尓。加是布企阿義天。久母婆奈禮。所企遠理等母与。和遠和須良須奈。」

神女は芳しき声を飛ばして歌う。大和辺に風が吹き上げて雲が離れてしまった。でも、どうか私のことを忘れないでいてください。

・・・後段は嶼子と神女との歌の交換が行なわれている。前段と後段とが成立時期を異にするという見解があることについて触れたが、この箇所もその理由の一つにあげられている。というのは、前段では、舞台は丹後(丹波)なのに、この箇所に至り、唐突に大和辺(「夜麻等蔽」)となっているのである。

この歌は、『古事記』「仁徳段」の「倭方(やまとべ)に、西風吹き上げて、雲離れ、退(そ)き居(お)りとも、我忘れめや」の改作といわれている。いずれにしても、風が吹き上げて雲が離れるという情景描写が、嶼子と神女の永久の別離と重ね合わされている。

ここでは「風」と「雲」は、ともに霊的表象の意味としてとらえるべきであろう。哀しい歌である。

「嶼子更不勝恋望。歌曰。古良尓古非。阿佐刀遠比良企。和我遠礼婆。等許与能波麻能。奈美能等企許由。」

嶼子はまた、神女への狂おしいほどの思いに耐え切れず歌う。子らのことを思い、朝、戸を開く私。すると常世の浜の波の音が聞こえてくるのである。

・・・この箇所は興味深い内容を含んでいる。

「古良尓古非」は「子らに恋い」と解するのが一般的である。とすると、嶼子は子を持つ親だったということになる。

「嶼子」以下、「企許由。」までの解釈について、いくつかの研究書を参照する。

①「嶼子、更(また)、恋望(こひおもひ)に勝(た)へずして歌ひしく、子らに恋ひ 朝戸を開き 吾が居れば 常世の浜の浪の音(と)聞こゆ」(水野祐 古代社会と浦島伝説 上 p54 雄山閣 1975年)

②「嶼子はまた恋しさに我慢できず歌をうたった、その歌は、子等(こら)に・・・(あなたに心ひかれて朝の戸を開けて私が物思いに沈んでいると、あなたがいる常世の浜の波の音がここまで聞こえて来る)」(植垣節也校注・訳 風土記 p480 新編日本古典文学全集5 小学館 1997年)。

この解釈を読む限り、②は、「子等に」を具体的に訳していない。

豊田有恒氏は「嶼子は、恋しさに耐えきれずに、さらに歌った。子らに恋い、朝戸を開き、吾がおれば、常世の浜の浪音、聞こゆ」と、「子ら」としている(豊田有恒 神話の痕跡 p131 青春出版社 1997年)。

一方、重松明久氏は「娘らに恋ひ」とし、「(大意)仙女を恋しく思い、独り寝の夜があけ、朝になり、家の戸を開けて、外を眺めたたずんでいると、神仙境の浜辺に打ちよせる波の音が聞こえてくる。神仙境が天上でなく、蓬莱島とする構想のもとで歌われた」という注を施している(重松明久 浦島子伝 p21 現代思潮新社 2006年)。

「古良尓」という三文字の解釈もなかなかやっかいである。常世の浜の波の音、つまり嶼子はすでに他界に赴いていることを、この記述は暗示していると解すのが自然である。

「後時人追加歌曰。美頭能睿能。宇良志麻能古賀。多麻久志義。阿気受阿理世波。麻多母阿波麻志遠。等許余蔽尓。久母多智和多留。多由女久母波都賀米等。和礼曾加奈志企。」

後代の人も、前述の歌に続いて歌う。水江浦嶼子が玉匣を開けなかったならば、再び神女と会うことができたのに。常世の方に向かって、雲が大空に吸い込まれるように流れていく。(あらゆる事象は絶えず変転し無常である。)私は悲しいのだ。

・・・「逸文」を締める箇所にも難解な部分がある。「多由女久母波都賀米等」について、植垣節也校注・訳 風土記(新編日本古典文学全集5 小学館 1997年)は、「訓むことができない。誤写・脱字があるか」という注を施している。

因みに同書は、次のように訳している。「後世の人が右の歌に続けて歌った、その歌は、水江(みずのえ)の・・・・・(水江の浦嶋の子の美しい化粧の箱。もし開けなかったならもう一度会えたものを)。常世辺(とこよべ)に・・・・(常世のある方角に向かって雲が棚引いている。(多由女)雲は次々と引き続いてあらわれるが、それだけでは乙女に逢うこともできず、私は悲しくなってくることだ)」(p480)。

重松明久氏は「この部分は「はつかまどひし」(木本通房説)とか「イヒハツガメド」(岩波文庫『風土記』、武田祐吉説)などとよまれている。「たゆらに」とは動揺して定まらないさま。この語の用例としては『万葉集』巻14に、「筑波嶺の岩もとどろに落つる水、世にもたゆらに我が思はなくに」と注を添えている」(重松明久 浦島子伝 p22 現代思潮新社 2006年)。

豊田有恒氏は『神話の痕跡』で、始原の三書の原文を取り上げている。「逸文」は「釋日本紀十二」の引用となっているが、出典は明示されていない。そこには「多由万久母 波都賀未等比志」とある。豊田氏はこの箇所について「万葉仮名の意味不明な箇所で、解読には各説があるから、原文のまま引用したものだ」(pp131~132)と、あえて訳文を添えていない(青春出版社 1997年)。

このように、「浦島説話」の原作内容を知る手掛かりとなる始原の三書のうち、「逸文」にも未解決な箇所はあるのである。その他、研究者によって訳文に微妙な相違がみられる箇所があることについても触れた。万人を納得させる確たる明快な一義的解釈(全文)は、未だ得られていない、といえるのである。

こうした観点に立脚して研究にあたる必要性がある。いずれにしても、結語は「和礼曾加奈志企」(我そ悲しき)であり、この説話は、哀切を極める悲しい結末で幕を閉じるのである。