文責:村山芳昭 2008.11.01

目次

はじめに

従来、「浦島説話」研究においては多くの優れた論文が発表されてきている。説話に関係する研究書、文献を紹介したい。しかしながら、この説話を読み解くうえで、「暦」及び暦日表記に用いられた干支、干支に畳み込まれた易(陰陽)・五行、讖緯思想の哲理は非常に重要なファクターなのである。今後、この思想哲理は、「浦島説話」研究に新たな光を照射することになると思う。以下に私見を記載する。

2008年11月1日 村山芳昭

「説話」研究の分岐点

伊預部馬養連は説話の「採録者」か、「原作者」か

持統、文武両朝の治世で活躍した伊預部馬養連(いよべのうまかいのむらじ)は「浦島説話」の「採録者」か、あるいは「原作者」であるか。

この問いは愚問かもしれない。というのは、説話を伝える始原の三書のうち、国家正史である『日本書紀』と『丹後国風土記』「逸文」の二書が、説話に書かれた内容が「長谷朝倉宮御宇天皇」つまり「雄略天皇」の治世のこととしており、『日本書紀』では具体的に年月を記している。因みに、雄略22年、西暦478年の7月としているのである。馬養が書いた「説話」が西暦700年前後に成立したとして、両者は220年以上の時を隔てているのである。馬養が丹波国宰(後の国司)として任地に赴いていた時に、土地に伝承されていた「説話」の内容を伝え聞き、それを記録にとどめた、というのが一般的な理解といえるだろう。「逸文」の書き出しには、「ここに書かれた内容は、旧の宰(みこともち)であった伊預部馬養連が記した内容と相違ない」とある。「雄略朝の御世」の出来事と記したのは馬養自身ということになる。本来、馬養は、説話の「採録者」、あるいは「記録者」「筆録者」「伝承者」とでも呼ぶべきなのかもしれない。

しかし、本論は、馬養を「原作者」とみる。そうすると、彼は、説話に書かれた内容を雄略朝のこととして設定し、創作したということになる。

「浦島説話」と伊預部馬養連との関係をどうみるか、このことの考察は、説話研究の重要な分岐点となる。馬養は、たんなる民間伝承の「採録者」にすぎなかったのか、あるいは「原作者」といえるのか、説話研究の出発点に戻って検討する必要がある。そして、この点は、依然未解決の問題として残されている、と本論は考えている。

「逸文」の二段構造をどのように分析、解釈するか

「浦島説話」の原作者は、持統、文武両朝の治世で体制側の中枢メンバーの一人として活躍した伊預部馬養連(657年?~702年?)である。彼は「大宝律令」撰定作業にも参画している。

現在、彼が書いた「原作」それ自体は散逸し伝存していない。しかし、原作内容を知る手掛かりが『日本書紀』、『丹後国風土記』「逸文」、『万葉集』に残されている。「浦島説話」を伝える始原の三書と呼ばれるものである。『万葉集』の「浦島説話」は高橋虫麻呂を作者とし、成立時期も、馬養が書いた時期とは異にする。始原の三書のうち、「逸文」が最も詳細に内容を記している。作中に、「伊預部馬養連が記すこと(ここで語られている内容)に相背くことなし」とあり、原作内容を知る手掛かりとして中核を成す史料となっている。そのため、「逸文」を中心とした三書の分析と考察が「浦島説話」研究の基本となる。水野祐氏は、「逸文」が「浦嶼子伝説のわが国における最古の文献」「最もその原型に近い姿を留めている」(水野祐 古代社会と浦島伝説 上 p54 雄山閣出版 1975年)と指摘しているが、こうした見解が現在の通説といえるだろう。

成立時期は、文武朝初頭の698年頃を中心に、700年前後とみられている。

「逸文」を研究考察する際、乗り越えなければならない大きな課題が残されている。それは、「逸文」は漢文で書かれた前段と、万葉仮名による表記を中心とした後段の二段構造をなしているのであるが、両者には内容に大きな隔たりがみられるため、成立時期すら異にするのではないかといった見解もみられる。水野氏は「後世の潤色」があるとみている(前掲書 p54)。

「後世の潤色」とは何か。以下、「逸文」が抱えている問題点について、水野氏の見解を『古代社会と浦島伝説 上 雄山閣出版 1975年』からみておきたい。

「この伝説の末尾を飾り、かつ結びをなす重要な意味をもつ贈答歌であるが、嶼子と神女亀比売との間の贈答歌は、三首ともその内容からいって、ばらばらであり、首尾一貫していず、贈答歌とはいえない。すなわち、この伝説に因んで詠まれた歌らしいのは、第一首の嶼子の詠んだ歌のみであり、しかもこの歌でさえ、海中の島が「トコヨ」であると伝説では言いながら、この歌では、天上として詠んでいて矛盾している。第二首の神女の歌にいたっては、『古事記』の「仁徳記」に見える黒日売の歌という。

 倭方(やまとべ)に、西風吹き上げて、雲離れ、退(そ)き居(お)りとも、我忘れめや。

の改作であることは明らかである。丹後国の伝承であるのに、「大和」という地名を改めもせず載せていることは、まことにずさんな添加である。第三首も「トコヨ」を海中の島に見立てて歌っていて、その点では伝説に合うが、この歌を嶼子が歌っているのは、筒川の浦の浜辺で、家もなく、たたずんで思案のあげく玉匣を開いて呆然自失して海辺を徘徊して歌っているのであるから、朝戸を開いて常世の浪の音を聞くというのは、ぜんぜん情景を無視したものであり、また第一首、第二首が、「トコヨ」を天上にしているのに矛盾している。したがってこの三首は、この伝承とともに初めから存在したものではなく、古風土記の編纂時よりも後に、あるいはさらに後の時代に至って、伝写の間にさかしらな何びとかが伝説の末尾に加筆したもので、第二首で明らかなように以前から知られていた歌を改作し、または別途伝承されていた歌を採り入れて脚色したものと判断すべきである。さらに後人の追加して歌ったという二首も全く同じ性質のもので、その二首はともに嶼子が神女とのタブーを干犯して、ついにみずから再び神女に逢うチャンスを失なってしまったことを、愚かしいことだと揶揄する意図を含んだ歌とみられ、その点では『万葉集』の伝説歌に附された反歌と同じ性質のものであろうと思われる。またこれらの歌が、この伝説とは関係なく、後に作られて附加されたものであるという、また別な一つの証左となるのは、伝説の本文では、浦の嶼子といっているのに、歌ではすべて浦島の子としていることで、嶼子という名が、浦島の子と改められた平安時代に入ってから作られた歌であることが明らかである。したがって『丹後国風土記』の成立した時には、この贈答歌は加えられていなかったと考え、伝説を考える場合に、この部分は抹殺して扱うべきであると考える」(pp59~60)。

果たして、「逸文」の二段構造における前段と後段は本当に成立時期を異にするのであろうか。水野祐氏が指摘したこの箇所も、「浦島説話」研究の重要な分岐点となる。水野氏の見解を了とし承認・追認するのか。あるいは、その見解に異を唱えるのであるか。

本論は後者の立場である。後段部分について、水野氏が言うように「この部分は抹殺して扱うべきであると考える」なら、原作者の隠された意図を紐解くことは決してできない、と本論は考えている。

「一時」と「玉匣」の象徴的意味

3本の柱

「浦島説話」に限ったことではないが、一つの作品を分析考察するとき、問題設定の数だけそれについての解答を得ることができるはずである。

例えば、この作品を「文学作品」と位置づけ、文学史の観点から考察する方法、あるいは、この説話には「蓬莱山」「蓬山」といった記述を含め明らかに古代中国の神仙思想の影響が反映されているが、そうした情報・知識の伝播について民族学的観点から考察する方法、さらに、神話学や民俗学、古代思想といった様々な視点からの分析を試みることができるだろう。

本論は、この説話を大きく3つの観点から考察する立場である。

①「説話」の成立時期と時代背景

一つは、この説話の「成立時期と時代背景」という観点からの分析である。一口に「成立時期」と言っても、この説話を書き残した伊預部馬養連を「原作者」とみるか、「採録者」としてみるかによってその時期は220年ほど違ってくる。

「浦島説話」を伝える始原の三書のうち、『日本書紀』と『丹後国風土記』「逸文」両書はいずれも、この説話伝承の端緒を雄略朝の治世としている。特に、『紀』「雄略紀」には「雄略22年秋7月」つまり西暦換算すれば「478年7月」と具体的に年・月を特定した書き方をしている。馬養を「原作者」とするなら、彼はなぜ、雄略朝の治世としたのか、という問いが生じてくる。あるいは、丹波の地に雄略朝の時代から連綿と口承された民間説話を馬養が整理しまとめたという見方もできないことではない。

本論は、697年から701年頃にかけて、馬養が独自に創作したという立場である。

②「説話」と易(陰陽)・五行、讖緯思想

二点目は、馬養が、この説話を易(陰陽)・五行、讖緯思想を基に象徴や寓意、暗喩といった手法を用いてメッセージを織り込んだとみる。この説話は、二通りの解釈を可能とするとみるのである。つまり、「表」の解釈に対する「裏」の解釈が成立するという両義的な見立てである。そして、作者の隠された真の意図は後者にこそあるという認識である。

③「説話」と深層心理学

三点目は、この説話は、宗教経験を含む無意識の体験が反映されていると本論は考えている。漢籍に通暁し、当時第一級の知識人であった馬養は、不老不死を体得し神仙となるための修行法などについての理解も深かったことは十分考えられる。彼が裏づけられた知識を基に作品に投影させたか、あるいは彼自身の体験がベースにあったかを問うことは大きな意味をもたない。

本論は、作品それ自体の深層心理学の観点からの分析と心理学的意味を考察することが作者の意図を探る重要な鍵を握っていると考える立場である。

「説話」の研究史と西欧近代合理主義的世界観

前述の二、三点目は共通の要素と課題を含んでいる。それは、この説話の研究史とも関わる問題である。現在までに「浦島説話」、とりわけ“原作”内容に関連する研究は、高木敏雄氏の『浦島伝説の研究』が嚆矢とされるが、これは大正年代に入ってからである。以後、現在に至る研究史を紐解くとき、明治以降の西欧近代合理主義に基づく科学的世界観を基軸とした価値観が底流にあるように思われる。つまり、作品を分析考察する場合、「科学的」「合理的」「論理的」といった価値尺度が字句の解釈の前提に厳として置かれているように思われてならない。

しかし、本論は、馬養等が生きた時代、当時の人々の精神世界を想像する時、不死なる魂の存在とその死後存続、再生といった観念は疑う余地など微塵もない確たる自明性の上に成り立っていたであろうという認識をもっている。このような前提は、近代合理主義的世界観のもとでは信仰の対象として括られ、学問の次元とは厳密に峻別されてきた歴史的背景がある。大正年代以降の研究史においても、このような見えざる呪縛が、たとえ無意識的であろうとも、はたらいていたと思われる。

易(陰陽)・五行、讖緯思想の根底には、神秘主義思想が色濃く横たわっている。そこにはオカルティズムといった近代主義が忌避、排斥してきた観念が脈々と息づいている。

深層心理学、とりわけユング心理学は、こうした問題と真正面から向き合っている。二、三点目は共通の要素と課題を含んでいる、という認識はそこにある。

今あらためて、古代人の死生観、他界観を含む宗教意識、そうした意識に基づく生命観、より広義な意味での人間観といった観点に目を注ぐ必要性を感じている。

こうした視点から、説話を考察してみるとき、注意しなければならない表現がいくつかある。「逸文」にある「一時」と「玉匣」がそれである。

円環的時間表象

本論は、「一時」と「玉匣」の解釈について、次のような見解をもっている。

まず、「一時」は主人公と神女の別離の際に、神女が投げかける言葉に含まれている。「意等金石、共期萬歳、何眷郷里、棄遺一時」である。一般に、読み下し文では、意(こころ)は金石にも等しく、共に萬歳を期(ちぎ)りしに、どうして郷里を眷(かえり)みて、棄(す)て遺(わす)るることの一時(たちまち)なる。つまり、「一時」は「たちまち」という意味に解する考え方が通説になっている。本論はこの見解に異論をもっている。この説話が宗教経験を含む無意識の体験がベースにあるという認識は、「男女交合」と「男女別離」という表現と「一時」は相即不離の関係性を有するという立場に基づく。「男女交合」を陰陽合一、つまり太一(太極)の象徴表現と解するからである。主人公は宇宙の最高実在の体現者とみている。そうした観点から前述の記述を読むと、「一時」は「いっとき」ではなく、「一なる時」と理解する。これは「たましい(Psyche)」が深い次元で感得し認識する時間体験であると考える。

室町時代の御伽草子「浦島太郎」では、主人公は東方に春、南方に夏、西方に秋、北方に冬という「四方四季」の奇妙な時間体験をするが、この前提を成す表現が「一時」で、永遠に無限循環を繰り返す円環的時間観念の象徴表現と考える。この「一時」の解釈については、本ホームページ「浦島説話研究」の項に収載した「一時」も参照してほしい。

次に「玉匣」の解釈である。「玉」は霊(タマ)の意味を包含するが、それを収めた「匣」が「玉匣」である。これは今、「玉手箱」として広く認識されているが、その意味するところは女性の櫛を納めた箱といった意が一般的であろう。当然、女神の手のひらにのるサイズが想定されている。しかし、ここにも近代主義の見えざる呪縛が張り巡らされているように思われる。

高松塚、キトラ両古墳の発掘によって石室に描かれた鮮やかな図絵は考古学上の歴史的発見となったが、両古墳には「日輪」「月輪」「天文図」「四神」が共通して描かれている。なかでもキトラ古墳には、判明している六支像から、四方に「十二支像」が描かれていたことがわかっている。この四方に配された十二支は、四方四季に置き換えることができる。

本論は、「四方四季」=「一時」=「玉匣」という関係が成立するのではないかとみている。石室内は“円環的時間表象”という象徴的モチーフを配することで、被葬者は“永遠の生”を得ることができたのである。

馬養を原作者とみる根拠の一つは、藤原京の治世当時に築造された可能性の高い両古墳の石室に描かれた象徴的図絵と「浦島説話」が語る内容との密接な関係性においてである。雄略朝の治世には表現し得ない記述と考えられるためである。だからといって、両古墳の被葬者と「浦島説話」の主人公を結びつける考えはない。これはあくまでも馬養の知識によって構想されたものと考える。当時、大陸からもたらされた最新の思想哲理に基づく新たな葬送観であったが、円環的時間観念は、当時の人々が自然の営みのなかで体得してきた生命観であろうと考えている。「一時」と「玉匣」をそのように考える。

「玉匣」を石室の象徴表現などと解すると、合理的、論理的整合性が取れないといった批判を受けるかもしれないが、主人公が釣り上げた「五色亀」が「神女」になり、その「神女」と結ばれるという内容自体が非合理で非論理的である。「五色亀」がはじめから人体ほどの大きさを有していたとは考えにくい。

現代に息づく“円環的時間表象”

以上の観点から、本論は「玉匣」は死者を収める石室を象徴したものであったと解するが、実は、現在でも当時の石室に相当するものを葬送儀礼の中に目にすることができる。筆者がかつて、告別式に参列したときのことである。霊柩車に棺を納める際、開かれた扉の中は、天地四方を全て金色に染めぬかれ、しかも四方に十二支のレリーフが配されているのを目にして、これは“円環的時間表象”を象徴化したものに相違ないと実感した。まさしく現代の石室であると深い感慨に浸った経験がある。

「意等金石、共期萬歳、何眷郷里、棄遺一時」という神女の言葉には、作者の深い含意が込められているはずである。

むすび

この説話は「たましい(Psyche)」の物語といえるのではないだろうか。

古代人が「anima mundi(世界霊魂)あるいは「宇宙の心」psyche tou kosmou(3)と名付けた」「分割されない「大いなるたましい」(Psyche)」を「玉匣」に置き換えることができるのではないだろうかと。

決して開けてはならない「玉匣」とは、死者を収める石室の蓋が開かれることが肉体が朽ちる死に通じることであると同時に、その死者は石室の蓋が閉じられることで四方四季の中で永遠の生(文字通りの不老不死)を獲得するという、存在の二重性と両義性(肉体の死と魂の不死)について、馬養は哲学的に語ったのではないか、と本論は考察する。

こうした二律背反的な、哲学的な解釈と意味づけを近代合理主義に基づく科学的世界観は絶対に受容してはくれないのだろうが。

しかし、それでは古代人の心性に迫ることは未来永劫不可能と言わざるを得ないと思う。「浦島説話」に込められた作者の隠された意図を探るには、不死なる魂の存在とその死後存続、そして再生といった観念に深い想像力をはたらかせなければならないと思うのである。

(2010年10月2日)

「魂出匣」

「浦島子が与えられた箱について、玉が魂(たま)であると言った最初の人物は滝沢馬琴で、その著『燕石雑誌』の中で、玉手箱は「魂出匣の義か」と述べている(11)」(三浦佑之 浦島太郎の文学史―恋愛小説の発生 p160 五柳書院 1998年6刷)。

江戸時代後期に読本作者として大成した滝沢(曲亭)馬琴(1767~1848年)が、「玉が魂(たま)であると言った最初の人物」という三浦氏の指摘に留意しておきたい。武田祐吉編『風土記』の「浦島子」には「玉匣」について「たまは霊魂を意味する。霊魂を斎ひ鎮めた箱で、人の魂の遊離することを防ぐのである」(p301 岩波書店 2010年第12刷)という注を付していることについて既述した。

「玉匣」をどのように理解、解釈するかということは、「浦島説話」研究の重要課題の一つと考える。重松明久氏は『浦島子伝』で「玉匣」について「貴重な物を入れる玉で飾った立派な箱」とし、『新論』や『南斉書』といった中国古文献から「玉匣」の用例を紹介しているが、「この物語では神仙としての不老不死の霊気をこめた箱。この物語の原拠ともなったと思われる伊勢外宮のかつての祭祀者らしい宇治土公が、呪具として最も重用していた玉串や鎮魂祭に用いた魂匣と関連があるのかとも思われる」(重松明久 浦島子伝 p19 現代思潮新社 2006年オンデマンド版)と指摘していることにも触れておきたい。

本論は、この説話は藤原京に都が置かれていた時代に、馬養が創作したとみる立場である。「玉匣」は、高松塚古墳やキトラ古墳に象徴される当時の葬送儀礼の観念と密接に結びついていて、石室並びに石室内に描かれた象徴的図絵との意味的連関に注意を払っている。

いずれにしても、「玉」・「たま」・「霊魂」・「霊気」といった表現との関連に意を配りたい。

(2010年10月2日)

“近代主義”の見えざる呪縛力

「浦島説話」始原の三書と絶対基準

非常に残念なことであるが、伊預部馬養連が書き記した「浦島説話」の原文(あるいは原作)は残存していない。しかし、原文を知る手がかりとなる史料が残されている。『日本書紀』と『丹後国風土記』「逸文」、『万葉集』で、これがいわゆる始原の三書とよばれるものである。

国家正史は「雄略紀」にわざわざこの説話を収載している。本文はわずか54文字であるが、原文内容を知る貴重な手がかりの一つであることは間違いない。末尾に「語在別巻」とあり、「別巻」が存在したことがわかる。おそらく、それが馬養の原文それ自体、あるいはその内容を書き写した書物と思われるが、この「別巻」も伝存していない。

『万葉集』が語る「説話」は作者が高橋虫麻呂で、書かれた時代も馬養のそれに比べ相当な時差があると思われる。『紀』や「逸文」とは内容を大きく異にする。『万』の作品は別の観点から考察する必要があるが、それでも、原文内容を知る手がかりになり得る史料という意味では、『万』の作品も重要な価値をもっている。

さて、始原の三書の中では「逸文」が最も詳細に説話の内容について触れている。さらに、「逸文」には「是舊宰伊預部馬養連、所記無相乖。故略陳所由之旨」(是(これ)、舊宰(旧宰)を務めた伊預部馬養連が記す所(こと)に相違ない。それ故、その概略について述べる)と書かれている。この一文によって「逸文」こそが原文内容を知り得る手がかりとしての唯一絶対の基準ともいうべき位置付けを獲得するのである。この点を確認しておく必要がある。

しかし、この「逸文」にしても未解決の大変に重要な課題を抱えているのである。その課題とは、「逸文」は、漢文で書かれた前段と、贈答歌三首を含む万葉仮名を中心として記述された後段の二段構造を成しているのであるが、両者には記述内容に大きな隔たりがある。そのため、後段は後の時代に潤色され書き加えられたとみる見解が、現在では有力視されているようである。

「逸文」が「浦島説話」の原文を知り得る手がかかりとしての唯一絶対の基準だとしても、果たして、馬養が書いた内容は前段に尽きるのであろうか。

この問題は、「浦島説話」とは何かを問う意味で、最も重要なポイントになるであろう。

贈答歌三首を含む後段が後世に書き加えられた潤色という見解に対して、本論は前段と後段は一対のものと解する立場にたっている。

「浦島説話」とどう向き合うか

「浦島説話」について、本格的な研究の口火が切られたのは、大正年代に入ってからである。以後、これまでに多くの優れた研究論文が発表されてきている。

水野祐氏の『古代社会と浦島伝説』上・下二巻(雄山閣出版 1975年)の大著もそうした労作の一つで、「浦島説話」研究にとっては必携の書であろう。この論文は、徹頭徹尾、実証主義を基軸に、「歴史的事実」に適うか否かという観点に価値基準が据えられ、科学的、論理的整合性に重きをおいた構成を成している。大変緻密な考証が重ねられており、当時の社会の在り様を知るという点で貴重な研究論文であると考える。研究に注がれた情熱に深く敬意を表したい。

科学的、論理的整合性に重きをおく価値基準は、説話の分析と解釈にも貫かれている。水野氏は、「逸文」の贈答歌三首を含む後段は後世に書き加えられた潤色という立場であるが、そう主張する根拠も前述の価値基準に基づいたフィルターを通して検証している。だが、ここに議論の余地が生まれる。

水野氏の見解は、「浦島説話」とどう向き合うかという視点から考えると重要な問題を投げかけているので、すでに触れている(本ホームページ「浦島説話」研究 「Ⅱ「逸文」の二段構造をどのように分析、解釈するか」の項)のであるが、以下、再度、水野氏の見解を転載しておくことにする。

「この伝説の末尾を飾り、かつ結びをなす重要な意味をもつ贈答歌であるが、嶼子と神女亀比売との間の贈答歌は、三首ともその内容からいって、ばらばらであり、首尾一貫していず、贈答歌とはいえない。すなわち、この伝説に因んで詠まれた歌らしいのは、第一首の嶼子の詠んだ歌のみであり、しかもこの歌でさえ、海中の島が「トコヨ」であると伝説では言いながら、この歌では、天上として詠んでいて矛盾している。第二首の神女の歌にいたっては、『古事記』の「仁徳記」に見える黒日売の歌という

 倭方(やまとべ)に、西風吹き上げて、雲離れ、退(そ)き居(お)りとも、我忘れめや。

の改作であることは明らかである。丹後国の伝承であるのに、「大和」という地名を改めもせず載せていることは、まことにずさんな添加である。第三首も「トコヨ」を海中の島に見立てて歌っていて、その点では伝説に合うが、この歌を嶼子が歌っているのは、筒川の浦の浜辺で、家もなく、たたずんで思案のあげく玉匣を開いて呆然自失して海辺を徘徊して歌っているのであるから、朝戸を開いて常世の浪の音を聞くというのは、ぜんぜん情景を無視したものであり、また第一首、第二首が、「トコヨ」を天上にしているのに矛盾している。したがってこの三首は、この伝承とともに初めから存在したものではなく、古風土記の編纂時よりも後に、あるいはさらに後の時代に至って、伝写の間にさかしらな何びとかが伝説の末尾に加筆したもので、第二首で明らかなように以前から知られていた歌を改作し、または別途伝承されていた歌を採り入れて脚色したものと判断すべきである。さらに後人の追加して歌ったという二首も全く同じ性質のもので、その二首はともに嶼子が神女とのタブーを干犯して、ついにみずから再び神女に逢うチャンスを失なってしまったことを、愚かしいことだと揶揄する意図を含んだ歌とみられ、その点では『万葉集』の伝説歌に附された反歌と同じ性質のものであろうと思われる。またこれらの歌が、この伝説とは関係なく、後に作られて附加されたものであるという、また別な一つの証左となるのは、伝説の本文では、浦の嶼子といっているのに、歌ではすべて浦島の子としていることで、嶼子という名が、浦島の子と改められた平安時代に入ってから作られた歌であることが明らかである。したがって『丹後国風土記』の成立した時には、この贈答歌は加えられていなかったと考え、伝説を考える場合に、この部分は抹殺して扱うべきであると考える」(水野 祐 『古代社会と浦島伝説 上 』 pp59~60  雄山閣出版 1975年)。

水野氏は、「逸文」後段の三首等を分析し、「古風土記の編纂時よりも後に、あるいはさらに後の時代に至って、伝写の間にさかしらな何びとかが伝説の末尾に加筆したもの」「これらの歌が、この伝説とは関係なく、後に作られて附加されたもの」という結論に至っている。そして、そのように考える理由と根拠を述べている。そのうえで、水野氏は「『丹後国風土記』の成立した時には、この贈答歌は加えられていなかったと考え、伝説を考える場合に、この部分は抹殺して扱うべきであると考える」と厳しく断じている。贈答歌三首については後述する。

「逸文」前段の概略

水野氏は、贈答歌三首を含む「逸文」後段が「後世の潤色」であるとする立場であるが、そのように考える根拠を詳しく検討する前に、前段の内容について確認しておくことにする。詳しくは、本ホームページの「始原の三書『丹後国風土記』「逸文」」の項を参照してほしい。ここでは意訳し、概略について触れておく。

舞台は「丹後國與謝郡日置里」にある「筒川村」である。その地に、「日下部首等の先祖」にあたる「筒川嶼子」なる人物がおり、その人物が所謂「水江浦嶼子」であるとしている。

時は「長谷朝倉宮御宇天皇御世」、つまり雄略朝の治世である。「嶼子」は一人で「小船」に乗って釣りをしていたが、「三日三夜」を経ても「一魚」すら得ることができなかった。間もなくして、「五色の亀」を釣り上げた。「奇異」と思いつつも、船の中で眠ってしまった。すると亀は容姿美麗な「婦人」と化したのである。嶼子は、婦人に問う。人家もない、こんな海原には人がいるはずもない。一体貴女は何者ですか。「女娘」は微笑みながら答える。ステキな方を目にして、親しくお話しがしたいと思って。「風雲」について来たのです。嶼子は再び問いかける。風雲とは一体どこから来たのですか。女娘は答える。私は「天上仙家」に住むものです。どうか信じてください。親しくお話させてください。嶼子は、女性が「神女」であることを納得し、疑心を鎮めた。

女娘は語る。私の思いは、貴方と共に天地を畢え、日月を極めたいのです。貴方はどうお考えですか、と嶼子に暗に同意を求めるような聞き方をした。嶼子は、異存のない旨を答える。女娘は言う。棹を回し、「蓬山」へまいりましょう。嶼子が従う意思を示すと、女娘は彼を眠らせた。たちまち、「海中」の大きな嶋に至ったのである。その地は、玉を敷いたように見事で、壮麗な建物は不可思議な光を明滅させ、これまで目にしたことも、耳にしたこともない世界であった。

二人は手を取り合って前に進んだ。すると、「一太宅之門」に到った。女娘は、ここで待っていてくださいと言って、門の中に入っていった。間もなく、七人の「竪子」(かわいらしいこども)が来て、この人が「亀比売之夫」だねと言い合った。すると、次には八人の竪子が来て、同じことを言い合ったのである。女娘の名が「亀比売」であることがわかった。間もなくして、女娘が出て来た。嶼子が竪子について尋ねると、女娘は、七人の竪子が「昴星」であり、八人の竪子が「畢星」であると語った。どうぞ心配しないでください。彼女が先導して中に案内した。女娘の「父母」もそろって出迎え、挨拶を交わし、人間界と仙界との違いについて説明したり、偶然とはいえ、人間と神が出会えたことを祝福し合ったのである。祝宴に列席した人たちは杯を重ね、美味な料理の品々に舌鼓を打ち、宴に興じた。人間界では決して味わうことのできない不可思議な世界だった。日が暮れるのも忘れ、黄昏とともに、参列者は一人二人と三々五々席を立っていったのである。

女娘だけが残り、二人は仲睦まじく肩を寄せ合い、袖を交え、やがて「夫婦之理」、つまり男女の秘め事を行なったのである。めくるめく愛の合歓に酔いしれ、嶼子は故郷のこともすっかり忘れ、仙界で三年の歳月を過ごしたのである。やがて、故郷のことが懐かしくなり、両親への思いが募るようになった。悲嘆に暮れる日々を重ねた。

女娘が問う。この頃の貴方はいつもと違い様子がおかしい。お気持ちが聞きたい。

嶼子が答える。故郷を懐古するようでは、私も小さい人間。さりとて、狐も死期を悟ると生まれた場所の方角に首を向けるという。今はそんなことがしみじみと実感させられる。

女娘が問う。故郷に帰りたいのですか。

嶼子が言葉を返す。故郷を離れ、遥か神仙の地に赴いた自分ではあるが、故郷が偲ばれてなりません。どうか、しばらくの間家に戻り、両親の顔を見てきたいのです。

女娘が涙を拭いながら言葉を返す。私の思いは「金石」に等しく、貴方と永久(とわ)に添い遂げたいのに、なぜ、望郷の念に耐えられず、「一時」を棄てるのですか。

それから二人は別れる哀しみを嘆き、あたりを力なく歩くのであった。

やがて別離の時を迎える。

女娘の両親や親族も別れを惜しんだ。

女娘は玉匣を取り、嶼子に手渡し、告げた。私とまた会う機会を設けたいのなら、この匣を堅く握り、決して開けて中を見てはなりません。

間もなく、二人は別々の船に乗った。嶼子はまた眠りに落ちた。すると、たちまち故郷の地に戻ったのである。ところが村の様子がおかしいことに気づいた。不安にかられ、「郷人」に声をかけた。「水江浦嶼子」の家はどこですか。「郷人」が答える。貴方はどこの方ですか。彼は遥か昔の人物ですよ。「古老」等が言うには、確かに「先世」に「水江浦嶼子」という人物はいたが、海に一人で遊びに出たまま、帰って来ることはなかった。今から300年余りも前のことになる。どうして、そのようなことを聞くのですか。それを聞き、茫然自失の状態に陥った嶼子は、途方に暮れ村を歩き回るしかなかった。10日余りが過ぎたが、手がかりはつかめなかった。玉匣を撫でながら、神女を偲んだ。嶼子は神女との約束を忘れ、とうとう玉匣を開けてしまった。すると、瑞々しく若々しい身体は「風雲」に従い「蒼天」に飛び去った。

約束に背いたために、もう二度と会う機会が失われたことを悟った嶼子は、しゃがみこんで嗚咽し、ふらふらとあたりを歩き回るしかなすすべがなかった。

ここまでが前段である。前段とはいえ、文字量の点では後段に比べ格段に多い。男女の悲恋を主題とした物語の体を成しており、その意味で一つの立派な文学作品といえなくもないであろう。                          
後段については後述する。

“近代主義”の見えざる呪縛力

水野祐氏は贈答歌三首を含む「後段」の記述には「後世の潤色」があるとみている。(水野 祐 『古代社会と浦島伝説 上 』 p54 雄山閣出版 1975年)

では、その贈答歌三首についてみてみよう。

(1)「常世辺(とこよべ)に 雲立ち渡る 水江の浦嶼の子が 言(こと)もち渡る」ー嶼子

・・・常世のある方角に向かって雲が棚引いている。水江の浦嶋の子の言葉を持って雲が棚引いている。

(2)「倭辺(やまとべ)に 風吹き上げて 雲離れ 退(そ)きおりともよ 我(わ)を忘らすな」-神女

・・・大和の方角に向かって風が吹き上げ、その雲と共にあなたと離れて別れてしまっても、あなたは私を忘れないでね。

(3)「子等に恋ひ 朝戸を開き 我が居れば 常世の浜の 波の音聞こゆ」-嶼子

・・・あなたに心ひかれて朝の戸を開けて私が物思いに沈んでいると、あなたがいる常世の浜の波の音がここまで聞こえてくる。

ここに挙げた三首の贈答歌は、原文は万葉仮名で書かれている。読みと訳文は、『植垣節也校注・訳 新編日本古典文学全集 5 風土記 小学館 1997年』から引用した。おそらく、ほとんどの研究書は、このような理解のもとにあるといえよう。ただ、ここに掲載した解釈にも難解な点がある。たとえば、(1)の「水江の浦嶋の子の言葉を持って雲が棚引いている」という記述が意味することもわかるようでなかなか理解しにくいであろう。

では、この三首について、水野氏の見解を細かく整理し検討してみよう。

1) 水野氏は、「嶼子と神女亀比売との間の贈答歌は、三首ともその内容からいって、ばらばらであり、首尾一貫していず、贈答歌とはいえない」と指摘している。

三首とも内容がばらばらで首尾一貫していない、というのであるが、この箇所は、「後段」解釈上の大きな分岐点になると思われる。水野氏の、この見解は、たとえば「雲」と「風」は自然現象それ自体、一義的な意味での認識を前提としている。

本論はここでいう「雲」と「風」は自然現象としての記述であると同時に、霊的な次元と結びつく生命現象としての記述でもあり、両者は重ね合わされているという認識をもっている。つまり、存在の二重性(両義性)を前提として詠まれていると考えている。

不老不死の「常世」は、死者の魂が赴く世界でもある。このような見方を繋ぎ合わせると、(1)の「常世辺(とこよべ)に 雲立ち渡る」と、(2)の 「風吹き上げて 雲離れ」とは、“死”という意味の連関を有するという認識を可能にする。おそらく、この記述の背景には、人間は自然の一部であり、両者は対応関係にあるという理解、人間観が前提とされていると、本論は解している。そのような理解に立つならば、(1)と(2)の歌は照応していると解することは妥当と思う。(1)と(2)は、主人公と神女との別離を、死と結びつけていると考察するのである。

2) 水野氏は「この伝説に因んで詠まれた歌らしいのは、第一首の嶼子の詠んだ歌のみであり、しかもこの歌でさえ、海中の島が「トコヨ」であると伝説では言いながら、この歌では、天上として詠んでいて矛盾している」と主張する。

前段本文で、嶼子が神女と訪れた異界は、「海中の大きな嶋」(「海中博大之嶋」)とあるが、そもそも神女は嶼子と出会った際、自身は「風雲に乗ってやってきた」(「就風雲来」)。そして彼女は「天上に住む仙人」(「天上仙家之人」)であると身分を明かしているのである。しかも、「海中」に存在するはずの異界は、いつの間にか、「昴星」と「畢星」が出迎える天空世界へと舞台を移しているのである。前段の本文それ自体の記述に論理的矛盾がみられるのである。とすると、第一首の嶼子の詠んだ歌について「海中の島が「トコヨ」であると伝説では言いながら、この歌では、天上として詠んでいて矛盾している」という水野氏の主張は、成立しないことになるだろう。

3) 水野氏は「第二首の神女の歌にいたっては、『古事記』の「仁徳記」に見える黒日売の歌という、倭方(やまとべ)に、西風吹き上げて、雲離れ、退(そ)き居(お)りとも、我忘れめや。の改作であることは明らかである。丹後国の伝承であるのに、「大和」という地名を改めもせず載せていることは、まことにずさんな添加である。」としている。

この箇所は、非常に重要な問題を孕んでいる。

「逸文」も『紀』も、「浦島説話」の成立の端緒を雄略朝に求めている。この歌が仁徳朝の治世の歌を改作したとすると、時代はさらに遡ることになる。記述自体に矛盾と齟齬が生じている。「後段」が後世の潤色であると考える場合、この歌をその根拠とするのは一定の説得力を持ち得るであろう。

それと、前段では、舞台は「丹後國」なのに、後段では「大和」(「夜麻等」)というのでは、話しの整合性が取れないというのも確かであろう。

しかし、この歌の解釈も一筋縄ではいかない。たとえば、「第二首の神女の歌」が「『古事記』「仁徳記」に見える黒日売の歌」の「改作であることは明らかである」としよう。

後段も伊預部馬養連が書いたとする。それは西暦700年とする。とすると、その時点で「倭方(やまとべ)に、西風吹き上げて、雲離れ、退(そ)き居(お)りとも、我忘れめや」という歌が確実に仁徳朝の治世から伝承されていたと断定することは果して可能なのであろうか。客観的にみれば、それは無理と言わざるを得ないであろう。断定するだけの材料、証拠が不足している。『古事記』が成立したのは712年である。断定できないとするなら、一つの考え方として、全く逆に、「逸文」後段の「第二首の神女の歌」が、『古事記』「仁徳記」に採択され、黒日売の歌として改作され収載された、とみることも不可能なことではないはずである。

梅原猛氏は『水底の歌』で、柿本人麻呂が詠んだ「草壁皇子の挽歌」について詳細な検討を試みている。この挽歌の前段には記紀神話の世界創世にまつわる記述を想起させる内容が盛り込まれている。挽歌解釈の通説は、挽歌が詠まれた689年当時、すでに記紀神話の内容は古くから伝承されており、その内容を参考にしながら人麻呂が踏襲して盛り込んだという認識が、疑うことなき確たる自明性の上に成立してきたといえる。

これに対し、梅原氏は、「祝詞」に盛り込まれた記述と草壁挽歌前段の内容の成立との時系列に沿った歴史的関係性を考察したうえで、人麻呂は「国家神道の創始者」ではないかという考え方を開陳している。つまり、「草壁挽歌」前段の内容こそが、歴史的端緒に相当するという認識である。人麻呂は、草壁挽歌を通して、後の「祝詞」の先駆けをなす表現者に位置づけられるという認識である。これは大変重要な指摘ではないかと考える。

馬養が「浦島説話」の原作者であるとしよう。とすると、彼は何故、この説話の歴史的端緒を雄略朝の治世のこととしたのであろうか。

この疑問に、次のような推論を立ててみる。

700年当時の人々からみて、雄略朝を含む「倭の五王」の治世は一大画期の時代であった。我が国最大の前方後円墳(大山古墳)の被葬者とされる仁徳帝も倭の五王の一人に比定されている。だがしかし、馬養は、文武朝治世こそが、それらの治世をも凌駕する真の一大画期の時代であるという歴史認識を有していたと考えてみよう。二つの傑出した時代を対置させつつ重ね合わせ、歴史的意義を持つこの説話を遠大な構想のもとに創作したと考えてみる。そうすると、後段に仁徳帝の治世の歌が盛り込まれている理由立ても一応可能とする余地は残されるであろう。

4) 水野氏は「第三首も「トコヨ」を海中の島に見立てて歌っていて、その点では伝説に合うが、この歌を嶼子が歌っているのは、筒川の浦の浜辺で、家もなく、たたずんで思案のあげく玉匣を開いて呆然自失して海辺を徘徊して歌っているのであるから、朝戸を開いて常世の浪の音を聞くというのは、ぜんぜん情景を無視したものであり、また第一首、第二首が、「トコヨ」を天上にしているのに矛盾している。」

5) 水野氏は「したがってこの三首は、この伝承とともに初めから存在したものではなく、古風土記の編纂時よりも後に、あるいはさらに後の時代に至って、伝写の間にさかしらな何びとかが伝説の末尾に加筆したもので、第二首で明らかなように以前から知られていた歌を改作し、または別途伝承されていた歌を採り入れて脚色したものと判断すべきである。」と説く。

水野氏の見解を読むと、科学的、論理的、合理的明晰性に絶対の信頼を置いている姿勢が伺える。こうしたアプローチは、いわば正統性のある正攻法といえるだろう。客観性こそを第一義と位置付ける近代主義に基づく価値基準である。

しかし、これを主観的な心理描写、“存在の二重性(両義性)”といった非科学的な観念に基づいて解釈すると、もう少し異なる理解が生まれてくると思うのである。

「逸文」の「前段」と「後段」とが分断しているか、あるいは関係性を有するとみるか、その分岐点は、この説話を書き残した古代人とどう向き合うかにかかっているように思う。

古代人の、人間を、自然を、世界を見る目の背後には、科学的合理性と未知の不可解な現象を呼び起こす呪術とは渾然一体として未分な状態で溶け合っていたはずである。そして、不死なる魂の存在と、その死後存続、再生といった観念は確たる絶対の自明性の上に立脚していたとみるべきである。このような認識に立って、初めて、説話に込められた作者の意図を浮かび上がらせることが可能になるのではないだろうか。

6) 水野氏は「さらに後人の追加して歌ったという二首も全く同じ性質のもので、その二首はともに嶼子が神女とのタブーを干犯して、ついにみずから再び神女に逢うチャンスを失なってしまったことを、愚かしいことだと揶揄する意図を含んだ歌とみられ、その点では『万葉集』の伝説歌に附された反歌と同じ性質のものであろうと思われる。またこれらの歌が、この伝説とは関係なく、後に作られて附加されたものであるという、別な一つの証左となるのは、伝説の本文では、浦の嶼子といっているのに、歌ではすべて浦島の子としていることで、嶼子という名が、浦島の子と改められた平安時代に入ってから作られた歌であることが明らかである。したがって『丹後国風土記』の成立した時には、この贈答歌は加えられていなかったと考え、伝説を考える場合に、この部分は抹殺して扱うべきであると考える」(pp59~60)。

『植垣節也校注・訳 新編日本古典文学全集 5 風土記 小学館 1997年』も「前段」と「後段」の成立時期は異なるという立場である。「以下の詠歌は物語伝承の古型ではなく、風土記編纂時の後補。人物呼称において本文中では一貫して「嶼子」であったものが歌詠中では「うらしま」となっているのもこの後補に起因」(p478)としている。

前段では「筒川嶼子」と「水江浦嶼子」は同一人物とされている。また、文中、「嶼子」を主語とする文章が10箇所以上あり、名が「嶼子」であることは動かし難い。当然「浦嶼子」は「浦ノ嶼子」と呼ばなくてはならないはずである。

にもかかわらず、後段は万葉仮名で「宇良志麻能古(ウラシマノコ)」と表記している「浦嶼ノ子」という言い方が一般化するのが平安時代になってからだということを考慮すれば、この点を「後段=後世潤色説」の根拠とすることもできる。

だが、次のように考えた場合はどうだろうか。

作者は、この作品における主人公「水江浦嶼子」なる人物は実在した人物ではなく、架空の存在である。そのことの手掛かりを残しておく、というメッセージを発しようとしていたとするなら、どのような方法があるか。

その方法として「浦嶼子」を①ウラノシマコ、②ウラシマノコという二種類の言い方を混在させることでその目的を果たそうと企てたという推論も成り立つであろう。本論はその立場に立つ。事実、後段にも「嶼子」を主語とする文章が含まれている。両者が並存しているのである。

『丹後國風土記』「逸文」に残された「浦島説話」の前段と後段は成立時期を異にするという通説を打破することは容易な作業でないことは十分承知している。しかし、この壁を突き崩すためには、“近代主義”の見えざる呪縛力を解かなければならない。その壁を取り払うことができたなら、「浦島説話」は全く新しい息吹を吹き込まれ、本来の姿を再生するとともに、古代史研究の揺るぎなき第一級の史料としてその価値が再評価されることになると、本論は確信している。

(2010年6月20日~26日のブログに掲載)

「浦島説話」と時空論

直線的時間と円環的時間

「浦島説話」は、時空論という観点から考察しても極めて興味深い課題を担っている。本論が注目するのは、「逸文」中の「意等金石、共期萬歳、何眷郷里、棄遺一時」の「一時」という記述についてである。

異界で神女と男女交合の性的関係を持ち超越的世界への参入を果たした主人公はやがて別離の時を迎える。その際にこの記述(神女の言葉)が示される。通説では「一時」は「たちまち」という意味に解されているのであるが、主人公が体験した超越的異次元の世界の描写と「一時」という表現は密接に関係していると本論は考えている。それは後に「四方四季」の体験として語られるようになるのであるが、その先駆を成す、いわば始原に相当する表現といえると思う。それは過去から未来へと流れる日常経験における直線的な時間とは性質を異にする円環的時間体験と解するのである。では円環的時間とは一体どのような時間なのであろうか。それは、現在、過去、未来が溶け合った非因果的な時間世界と表現し得るものではないかと想像している。

馬養は、「郷里」と「一時」という記述に、日常経験における直線的な時間と円環的時間という性質を異にする二種類の時間を象徴的に対比させているのではないか。「郷里」で体験する時間は過去から未来へ流れる生活に関わる時間。これに対し、「一時」は非日常的な異次元世界の時間。別の表現を使うなら、前者は「顕界」の時間、後者は「霊界」の時間とも言えようか。

「共時性」という概念が投げかける問い

ユングが共時性(シンクロニシティ synchronicity)の概念について触れたのは1950年頃からで、75歳を過ぎたあたりからである。こうした概念を構想するに至る背景には、精神科医として患者と向き合い、長い臨床経験を通じて体得したこと、長期にわたる錬金術における心理学的分析と考察、あるいは自身の個人的体験、さらに彼自身の資質等を踏まえて、いわば熟成されたもので唐突に出てきたものではない。ただその概念があまりにも近代的世界観とは異質な内容を伴うものであったために発表を躊躇せざるを得なかったというのが正しい認識のようである。

ユングは共時性について「意味のある偶然の一致」とも表現している。

次のような例を考える。一人の友人のことをぼんやりと考えている時、たまたまその友人が訪ねてきた。この出来事は客観的には単なる偶然のことにすぎないといえるが、この時、二つの事柄(心の中で考えている心理的事実と人物が訪ねて来るという物理的事実)における「意味」は合致している。このような事例について、湯浅泰雄氏は「こういう経験は、心理的な出来事と物理的な出来事、あるいは内的な出来事と外的な出来事が、それらの情報の意味の認知において一致したということができるわけです」と指摘している(湯浅泰雄 共時性とは何か p7 山王出版 1987年)。このような現象をもたらす背景にはどのような構造が関与しているのか。ユングは『非因果的連関の原理としての共時性』という論文をパウリと共著の形で出版している。湯浅氏は「ユングは、この共時性の仮説を手がかりにして、デカルト以来の近代科学がよりどころにしてきた因果性の原理に挑戦する、つまり近代的世界観にとって変わるべき新しい世界観を模索していたのです」と語っている(前掲書p6)。

ユングによれば、易の前提には共時性の原理が含まれているという(前掲書p5)。未来について触れるのが占いである。近代主義に根ざした世界観からみれば、占いなどというものは単なる迷信、非科学的な俗信に過ぎぬとるに足らぬものとして一笑に付されてしまうのであろうか。

しかしながら、「浦島説話」における主人公の体験は、まさに近代的世界観とは異なる、新たな世界観構築の可能性について我々に豊かな示唆を与えているのではないかと思うのである。

温故知新、この説話は今から1300年以上前に書かれたものであるが、そこに含まれる研究課題は全く新しい。

「浦島説話」を時空論という観点から考察する場合、橋元淳一郎氏の次の記述は大変興味深く思われる。「相対論は、ニュートン力学の絶対空間・絶対時間という考え方が間違いであることを示し、時間と空間は独立したものではなく、密接に絡み合ったものであるということを明らかにした。・・・・・・

相対論における空間と時間の関係はどのようなものなのか。それはひと言でいえば、「実数と虚数」の関係にあるといえる。つまり座標系で描くときには、片方が実数軸、片方が虚数軸になる。さらにいうなら、「時間は実数、空間は虚数」なのである(数学的には、実数と虚数を逆にしても同じことであり、そのように解説した本も多いが、人間的時間との関連を説明するには、本書の立場の方がより適切なように思われる)。

空間が虚数である、などということはとうてい信じがたいことである。われわれはものの長さを一メートル、二メートルというように巻尺で測ることができるが、この一や二という数値は、いうまでもなく実数である。この目に見えている世界に、虚数などというものが入り込む余地はありえないーと反論したくなるであろう。しかし、それは錯覚なのである。なぜ、時間が実数で空間が虚数なのか。それを直観的に納得できる方法で説明しよう。

相対論では、時間と空間は絶対的なものではなくなるが、その代わりに、(真空中の)光の速さが絶対的な物理量として登場する(それは論理的に証明されることではなく、あらゆる実験事実がそう告げているのである。川の水は必ず低い方へ流れる、というのと同じくらい確かな事実である)。・・・・・・・

さて、相対論では時空図を三つの領域に分ける。われわれの常識からいうと(そしてまたニュートン力学の考え方では)、この世界は現在という瞬間を境にして、過去と未来しかない。ところが、相対論では、過去と未来以外に、光の世界線を境にした非因果的領域という部分が現れてくるのである。

非因果的領域の意味することは、そのような領域にある事象は、けっして今現在の私(座標の原点)と因果関係をもてないということである(因果関係をもつためには、光速を超える情報伝達手段が必要である)。その領域にある事象は、今現在の私にとって、過去でもないし未来でもない。ある意味で、存在しない世界といっていいのである。比喩的にいえば、「あの世」である」(橋元淳一郎 時間はどこで生まれるのか pp29~34 集英社 2007年)

主人公「浦嶼子」が体験した異界とは、通常では決して体験することのできない、手に入れることのできない稀有な世界という意味で、深層心理学の立場からみれば「あの世」の体験にほかならないのではないかと想像をめぐらすのである。

太一(太極)の体現者

この説話は道教の神仙思想、あるいは易(陰陽)の世界観と密接に関わっている。主人公が体験した超越的世界は、太一(太極)の体験にほかならないのではないかと考えるのは、主人公が「一太宅之門」をくぐる描写が参考になる。おそらく馬養は「一太」を「太一」として読み替えることを企図していたであろうと本論は考えている。主人公は異界について「目に見ざりしところ。耳に聞かざりしところ」と表現している。湯浅氏は「タオ(道)とは、感覚の眼で見ることのできない超越的存在」(前掲書p77)と指摘しているが、馬養は、主人公が宇宙の最高実在としての「太一(太極)の体現者」なのであるということを表現しようとしたのではないかと考える。それは世界が陰陽に分化する以前の宇宙原初の次元に相当する世界ともいえるだろう。

本項では、「浦島説話」が時空論という観点からみても大変興味深い研究課題を含んでいることについて指摘しておきたいと思う。

(2010年7月17日)

「水江浦嶼子」の実在を問う

本論は、「浦島説話」の主人公「水江浦嶼子」の実在について考察している。このように問うと、国家正史に年月まで明記されて記録されているのである。実在を問うというのはおかしいのではないかという反論があろうかと思う。確かに、主人公の実在の根拠として、そのことを挙げることはできるであろう。しかし、国家正史に収載されているからといって、必ずそれは事実であると断定し得るものであろうか。

この問題について考えたい。

「水江浦嶋子」とは何者か(1)

「水江浦嶋子は、普通ミヅノエノウラシマノコと訓まれており、「水江は氏で、浦島は名、子は親しんで添へるのである」(萬葉集全釈)と云われているが、上代に水江氏などという氏名があったとは思われず、丹後風土記(釈日本紀所引)に「名云筒川嶼子、為人姿容秀美、風流無類、斯所謂水江浦嶼子者也」とあるように、筒川は地名であり、嶼子が名であってみれば、所謂以下も水江浦までが地名であると考えられ、本朝神仙伝の「浦島子者丹後国水江浦人也」や、それに先立つ日本後紀の同一記載は極めて自然に受けとれるのであるが、代匠記精撰本に、「神仙伝には水江を地の名とせれど、彼は湯川の玄円と云僧の後代に書ける書なれば、必らずしも証としがたし」とあって、その後も水江地名説を固守する者、特に、水江の浦までを地名とみる者は至って少ない。

萬葉集は題詞、本文とも、丹後風土記の本文も「水江之浦ノ嶋児(ミヅノエノウラノシマコ)」(萬葉、本文)又は、「水江ノ浦ノ嶼子」(風土記)と確かに訓めるのであるが風土記の最後に後時人追和歌曰とあって

美頭能睿能(ミヅノエノ)、宇良志麻能古我(ウラシマノコガ)、多麻久志義(タマクシゲ)、阿気受阿理世波(アケズアリセバ)、麻多母阿波麻志遠(マタモアハマシヲ)。

とあるから、この説話の主人公の元の名はシマコであったろうが、奈良時代における伝説としては、既に、ウラシマという名として熟していたとみるべきで、以下、すべて、ウラシマと呼び、文字も必要以外は浦島を用いて行くことにする」(阪口 保 浦島説話の研究 pp1~2 新元社 1955年)

始原の三書のうち、伊預部馬養連が書いた内容を忠実に反映させている風土記逸文を絶対の基準とするなら、主人公「水江浦嶋子」は「嶋子」を名とするのが妥当であろう。阪口氏もそうした見解をとっている。問題は、「水江」を氏、「浦島」を名、「子」を愛称の如くとらえる見解があったこと、あるいは「水江浦」を地名とみる考え方もあり、阪口氏はこれを踏襲しているようである。

阪口氏は、逸文前段と後段とはセットという認識のようであり、「宇良志麻能古(ウラシマノコ)」という書き方を踏まえ、「この説話の主人公の元の名はシマコであったろうが、奈良時代における伝説としては、既に、ウラシマという名として熟していたとみるべき」と書いている。

(2010年7月25日(日)掲載)

「水江浦嶋子」とは何者か(2)

阪口保氏は、「逸文」中の「筒川嶼子」と「水江浦嶼子」とが同一人物であるとしていることや本朝神仙伝、あるいは日本後紀の記述等を踏まえ、「筒川は地名であり、嶼子が名であってみれば、所謂以下も水江浦までが地名である」という認識を示しているものの、代匠記精撰本の指摘などをもとに「その後も水江地名説を固守する者、特に、水江の浦までを地名とみる者は至って少ない」としている。

重松明久氏は「『風土記』にみえる筒川の嶼子と対照すれば、厳密には水江の浦の嶼子とよぶのが妥当かも知れない。従来は水江の浦嶼の子とよむが(例、『日本古典文学大系』本)、後世のいわゆる浦島伝説に影響されたためと思われる」との見解を示している(重松明久 浦島子伝 p15 現代思潮新社 2006年オンデマンド版)。また、重松氏は「古くは水江浦とし、一般的称呼か特定の場所を示す固有名詞として使われたのであろう。普通名詞としては、この書に収めた論稿にもふれるように、中国古代において「江水」などと一般的によばれたのを採用したと思われる。特定名詞としては、与謝半島の西北部にある竹野郡網野町の海浜地帯をさすと考えられている」と指摘する(前掲書 pp15から16)。重松氏は、「水江浦」を①「一般的称呼か特定の場所を示す固有名詞として使われたのであろう」、②「普通名詞としては、・・・中国古代において「江水」などと一般的によばれたのを採用したと思われる」、③「特定名詞としては、与謝半島の西北部にある竹野郡網野町の海浜地帯をさすと考えられている」と言うものの、すべて推論の域を出ない表現に留めていることに十分注意を払う必要がある。この記述からみると、重松氏は「水江浦」を地名(あるいは地域性に根付いた名称)という視点で捉えているようである。

(2010年7月26日(月)掲載)

「水江浦嶋子」とは何者か(3)

『日本書紀』が伝える「浦島説話」には「丹波國余社郡管川人瑞江浦嶋子」という記述がある。三浦佑之氏はこれを受けて次のような見解を示している。「主人公の名前は、「瑞の江の浦島子」と呼ばれる人物である。「瑞」は「水」と同じとみてよいから、「瑞江浦島子」は「水の江の浦島子」であり、水の江は、小波が「丹後の国水の江」と記していたように、古い時代から地名であると解釈されることが多い。苗字とみても地名とみてもかまわないのだが、書紀では姓として扱われていると見ておけばよいだろう。そして、名前は浦島子という。これが、奈良朝から平安朝にかけての浦島物語の主人公に共通する名前であった」

(三浦佑之 浦島太郎の文学史―恋愛小説の発生― pp55~56 五柳書院 1998年)

『日本書紀』の記述を踏まえ、三浦氏は「瑞」と「水」を同義とし、「瑞江」は「水江」と同じとしたうえで、「水江」については「苗字とみても地名とみてもかまわない」としている。そして「名前は浦島子という」としている。つまり、「水江」は苗字もしくは地名、「浦島子」が名前という捉え方である。

もし「水江」を地名とみるのであれば、「丹波國余社郡管川瑞江人浦嶋子」と記述するのが自然ではないだろうか。また、「浦島子」を名前と解した場合、「筒川嶼子」と「水江浦嶼子」を同一人物とし、文中10回以上にわたり「嶼子」を主語とする文章を載せる「逸文」の記述内容との整合性についてはどうなのかという素朴な疑問が残る。

果して、「水江」は地名なのか、それとも姓なのか。あるいは「水江浦」までが地名なのか、または姓なのか。それとも「水江」を氏、「浦島」を名、「子」は「親しんで添へる」愛称の如くとらえる呼称なのか。そして「浦島子」が名前なのか。長い研究史を有するが、依然、謎は深い霧の中にある、と言わざるを得ない。

本論が指摘しておきたいことは、主人公の姓名という問題一つとってみても、未だ明確な、絶対的な合理的解釈と理解を得るには至っていないということを確認しておきたいのである。

(2010年7月29日(木)掲載)

「水江浦嶋子」とは何者か(4)

「水江浦嶋子」という姓名の「由来」に関わる問題について検討している。この問題が一筋縄ではいかないる要因に「読み方」という問題がある。

「水江浦嶋子」の「浦嶋」が明らかに姓として認識されたのは、室町時代に成立した『御伽草子』においてである。そこでは「浦嶋太郎」と明記され、姓が「浦嶋」、名が「太郎」となっている。「浦嶋」=姓という見方は、『御伽草子』以降定着していくことになる。では、このような見方は室町時代になるまでなかったのかといえばそうではない。以下、水野祐氏の見解に触れておく。「『日本書紀』に「瑞江浦嶋子」(注8)、『万葉集』に「水江之浦嶋児」(注9)、『丹後国風土記』に「水江浦嶼子」(注10)、『浦嶋子伝』に「丹後国水江浦嶋子」(注11)などと記されているのを、訓読するに際して、「水の江の浦島の子」というように読むことから、「浦島が子」とか「浦島の子」とかいう読み方が生じたのである。もっともこうした漢文体で書かれた原文を読む時に、後世の和訓で読んだ人が勝手にこう読んでしまったというのではなく、こう読むことが、そうとう古くから行なわれていたことも確かであるから、頭から後人の誤読であるときめつけるわけにはいくまい。すなわち『丹後国風土記』のこの伝説の末尾に収められている歌謡では、「美頭能叡能宇良志麻能古(みずのえのうらしまのこ)」と記しているのである。したがって相当に古い時代から、「水の江の浦島の子」という呼び方が、一般に行なわれていたことは推察できるのである。ところが同じ『丹後国風土記』の本文では、こう読むことを否定する書き方が採られているのであって、オリジナルには「浦島の子」と読むのではなかったことが示されているのである」(水野祐 古代社会と浦島伝説 上 p26 雄山閣 1975年)。

このことが問題を判りにくくしているのである。少し長くなるが、水野氏の見解を続けたい。「『丹後国風土記』には、「丹後国の与謝郡日置の里の筒川の村に、筒川の嶼子という人がいた。これは日下部首らの祖先である」と述べている。そしてこの「筒川の嶼子」という人は、いわゆる「水江の浦の嶼子」という者であると註している。そして伝説の本文ではしばしば、嶼子という名で主人公のことを語っているので、浦島の子ではなくて、筒川の嶼子、もしくは浦の嶼子というのが本来の呼び方であったことは疑いの余地がない。そうして『丹後国風土記』につづくこの伝説の主人公に関する文献としての、『浦嶋子伝』でも「嶋子」と記しているし、また『続浦嶋子伝記』でも「嶋子」としているので、これらの文献に見える「浦嶋子」「水江浦嶋子」とある箇所は、「浦島の子」「水の江の浦島の子」と読むのではなく、「浦の島子」「水の江の浦の島子」と読むのであることは明確である。この読みを摘用するならば、前記『日本書紀』の「水江浦嶋子」も、「水の江の浦の島子」と読むべきであり、また『万葉集』の「水江之浦嶋児」も「水の江の浦の島児」と読むべきであって、「浦島の子」と読むのはいわれのない読み方である、といわねばならない。すなわち伝承のオリジナルなこの人物の名は「嶼子」であって、「浦島の子」ではなかったことは明瞭な事実なのである。また「水の江の」とか「筒川の」というのはもちろん姓ではなく、彼の居住していた土地の地名を冠したものであって、「水の江という所の住人であった嶼子という人」「筒川村の住人であった嶼子という人」という意味にほかならない。それゆえ私は、この伝説の主人公の本来の名は「嶼子」であると断定したい。さらにいえば、「筒川の嶼子」というのが本来の固有の名であり、この伝説の普及につれて、単に丹後国「筒川の嶼子」に固定することができなくなって、「水の江の浦の嶼子」というようになり、後にはこちらのほうの名が、一般化してしまったので、編纂時にあたって『丹後国風土記』のほうがかえって、「筒川の嶼子」こそは一般に言われている「水の江の浦の嶼子」のことなのだと註せざるをえないようになっていた。すなわちそれだけ奈良朝以前においても、この伝説は日本の各地に広布していたということが示唆されているのだと解釈できるであろう」(水野祐 古代社会と浦島伝説 上 pp26~27 雄山閣 1975年)。

水野氏は「水江」は姓ではなく、「土地の地名を冠したもの」という認識でいることがわかる。室町時代の『御伽草子』では「浦島説話」の主人公の名前は「浦嶋太郎」となるのであるが、「浦嶋子」という姓名の「子」が「太郎」に改変する。この際、「水江」の二文字はなくなっていることに意を配る必要があるだろう。もし「水江」が姓であったなら、「浦嶋太郎」とはならないように思われる。

そして最も大きな問題は「浦嶋子」を「浦ノ嶋子」と読むのと「浦嶋ノ子」と読むのでは、全くその意味は異なってくる。もし姓名だとするなら、両者は全くの別人になってしまう。

(2010年7月31日(土)掲載)

「水江浦嶋子」とは何者か(5)

「浦島説話」の主人公「水江浦嶋子」という姓名の由来については、諸説があることを触れてきた。始原の三書についても『日本書紀』が「瑞江浦嶋子」、『万葉集』が「水江之浦嶋児」、『丹後国風土記』が「水江浦嶼子」といった具合に表記にも若干の相違がある。しかし、既述したが、三書の中では『丹後国風土記』「逸文」が絶対の基準といえる位置にあり、「逸文」を核に据えて考察する必要がある。水野祐氏は「「筒川の嶼子」というのが本来の固有の名であり、この伝説の普及につれて、単に丹後国「筒川の嶼子」に固定することができなくなって、「水の江の浦の嶼子」というようになり、後にはこちらのほうの名が、一般化してしまったので、編纂時にあたって『丹後国風土記』のほうがかえって、「筒川の嶼子」こそは一般に言われている「水の江の浦の嶼子」のことなのだと註せざるをえないようになっていた」と指摘していることについて既に触れた。こうした見解の背景には、「逸文」の記述に重きを置いていることがあろうし、そのような配意は妥当と思う。「筒川嶼子」と「水江浦嶼子」を同一人物としているのであるから、水野氏の見解は一理あろう。

「坂東太郎」、「筑紫二郎(次郎)」、「四国三郎」といえば川の異称として知られている。それぞれ利根川、筑後川、吉野川を指すが、三者は長男、次男、三男といった兄弟関係にもあたる。三つの川は、関東(本州)、九州、四国を流れるが、それぞれの異称が成立したのはいつ頃のことなのであろうか。地名(土地に根ざした名称)を基に川を人格化している点が共通の要素であるが、それぞれの地域の人々にとっては大きな存在感があり、親しみと畏怖の念を込めて命名されたものであろう。

川は自然を潤わせ、そこで暮らす人々の生命を養い、生活を支える尊い存在である。一方、一度(ひとたび)氾濫を起せば、地域の人々の暮らしや生命を脅かす脅威ともなる。現代社会に生きる人間にとって、生命の源である水を運ぶ川に対する認識は、当時の人々とは比べものにならないほど、そのありがたみを自覚する機会は乏しい。水道の蛇口をひねれば常に水を得ることができる。よほどのことがない限り、川の存在感を意識することはないだろう。この点は、当時の人々との決定的な認識のズレを生じているであろう。古代人にとって川の氾濫は神の怒りにほかならず、そうした自然災害が生じるたびに神の存在を強く感じ、恐れ、慄いたに違いない。こうした認識を基に、「筒川嶼子」という名について深く想像をめぐらす必要がなかろうか。

「筒川嶼子」という名前は、あるいは、そのような要素(土地に根ざした名称を基に川を人格化)を組み合わせて成立した歴史上の初例にあたるかもしれない。今となっては確たる証拠を提示することは不可能と言わざるを得ないが、主人公を実在の人物とみるか、あるいは架空の存在と考えるかという問題について、主人公の名称の「由来」と「読み方」は説話研究の大きな課題である。

(2010年8月1日(日)掲載)

「水江浦嶋子」とは何者か(6)

「浦島説話」は複数の伝承地を有する。『日本書紀』雄略紀には「丹波國餘社郡管川人瑞江浦嶋子」とあり、『丹後國風土記』「逸文」では「與謝郡日置里筒川村」に住む「筒川嶼子」という人物が「水江浦嶼子」であるとしている。「管川」と「筒川」は、「餘社郡」と「與謝郡」との表記上の関係で、同じとみて差し支えないであろう。

ところが、『万葉集』は「墨吉之岸」が舞台である。この「墨吉」については、現在の大阪・住吉の地を比定する見解が有力視されているが、重松明久氏は次のように語っている。「『万葉集古義』・『万葉集略解』ともに墨吉は与謝郡にある地名であろうとする。吉田東伍の『大日本地名辞書』は水の江の浦島子という場合の水の江は、与謝郡の西方、竹野郡の網野町の北の海浜一帯を水の江とし、澄江浦もここだろうとする。なお吉田は浦島子は筒川・網野の両地に往来した人であるので、両方の地名に関係づけられているのだろうとする。武田祐吉の『万葉集新解』では、墨吉を摂津の住吉とし、浦島伝説は諸国にあってよいので、丹後や摂津にあったのだろうという。沢瀉久孝の『万葉集注釈』にも摂津説をとり、作者の高橋虫麻呂が住吉の海岸に立ち、書物で読んだ、浦島伝説を思い出し、ここを舞台とし、作者の浦島伝説を創作したのだろうという。私見も摂津説をとる。さらに単に摂津の海岸というのでなく、住吉神社に伝承されていた浦島伝説に取材して、虫麻呂が作歌したために、舞台としても墨吉の海岸が登場するに至ったものと推測される。なお『古事談』所収の『浦島子伝』も舞台を澄江としており、大体同系統の伝説と解すべきであろう。なお論稿においてもふれたが、宮津市府中の籠神社は住吉系だから、この神社の古伝として墨吉の地名が採用されていたのかも知れない。後考に俟つことにしたい」(重松明久子 浦島伝 p25 現代思潮新社 2006年オンデマンド版)。

墨吉=摂津説をとる重松氏のこの記述をまとめると、「墨吉」の地について、①「与謝郡にある地名であろうとする」、②「竹野郡の網野町の北の海浜一帯を水の江とし、澄江浦もここだろうとする」、③「摂津の住吉とし、・・・丹後や摂津にあったのだろう」、④「宮津市府中の籠神社は住吉系だから、この神社の古伝として墨吉の地名が採用されていたのかも知れない」と諸説を交えながら慎重な言い回しをしている。「後考に俟つことにしたい」という言葉が示すように断定できないのである。

もし主人公が実在していたならば、吉田東伍氏が言うように「浦島子は筒川・網野の両地に往来した人であるので、両方の地名に関係づけられているのだろうとする」という指摘にも一理あるのかもしれないが、『日本書紀』と『丹後國風土記』「逸文」の記述を読む限り、主人公の故郷(出身地)について語っていると解すべきであろう。舞台はあくまでも筒川(管川)なのである。「筒川」で生まれ育った人間だからこそ、「逸文」は「筒川嶼子」と記述したのであろう。この説話が伝承地を複数有するという考え方は、主人公の実在を一層曖昧にこそすれ、確たるものから離れていくように思われる。「管川(筒川)」以外の場所については、すべて推量で語られていることに留意しておきたい。「水の江」が網野の地に関係づけられるとすると、与謝郡筒川(管川)に住む、網野の地の浦嶼子というように意味の整合性が取れなくなる。与謝郡筒川(管川)出身の浦嶼子は網野の地の人間である、といった解釈では「筒川嶼子」との整合性が取れない。

「水の江」と「澄江浦」と「墨吉」を同定する見解には、『日本書紀』、『丹後國風土記』「逸文」の記事を精読吟味する限り、やはり応じ難いと思う。

作者の意図は、主人公の実在を語ることではなく、大和の方位からみて「西北」に位置する丹波(丹後)の地であることに意味をもっていた、とみるのが本論の立場である。

(2010年8月2日(月)掲載)

「水江浦嶋子」とは何者か(7)

「浦島説話」の主人公をめぐる謎は大きく二つに集約できるだろう。

一点目は「水江浦嶼子」という姓名の「読み方」である。

なぜ、主人公は「浦嶼ノ子」あるいは「浦ノ嶼子」と二種類の読み方をもっていたのであろうか。

二点目は、説話の伝承地が二、ないし三箇所(「筒川」「水江」「墨吉」)を有するという問題である。

実は、この2つの問題は密接に関係しているのであるが、あらためて整理をしてみたい。

始原の三書のうち、『丹後國風土記』「逸文」の内容が絶対基準といってよい位置付けにあることについて触れた。「逸文」中に「筒川嶼子」と「水江浦嶼子」とは同一人物であるという記述がある。この記述に従えば、どうみても名は「嶼子」と考えざるを得ない。とすると「筒川」は姓となろう。「筒川」と「水江浦」は対応するのであろうか。

「逸文」には「與謝郡日置里筒川村・・・名云筒川嶼子・・・謂水江浦嶼子者也」とある。一方、『日本書紀』「雄略紀」には「丹波國餘社郡管川人瑞江浦嶋子」とある。いずれも「筒川(管川)」の住人という解釈になろう。「筒川(管川)」を姓とみるなら、土地に根ざした由来とみるのが自然であろうか。しかし、「水江(瑞江)」をも地名に由来する名称とするなら、「丹波國餘社郡管川人瑞江浦嶋子」というより、「丹波國餘社郡管川瑞江人浦嶋子」とする方が自然に思われる。そうすると、「浦」が姓で名が「嶋子」で納まりはよい。しかし、「水江」については、「特定名詞としては、与謝半島の西北部にある竹野郡網野町の海浜地帯をさすと考えられている」という根強い見解もある。それ以外に、「一般的称呼か特定の場所を示す固有名詞として使われたのであろう」とか「普通名詞としては、・・・中国古代において「江水」などと一般的によばれたのを採用したと思われる」といった諸説があることを重松明久氏は指摘している。

現在、丹後半島には「浦嶼子」を祀る代表的な神社として、宇良神社(与謝郡伊根町)と網野神社(竹野郡)の二社が知られている。両社は『延喜式』神名帳に記載されている。三浦佑之氏は「現在でも網野神社の主神は水江日子坐主神であると伝えているぐらいだから、浦島子が祭神に加えられたのは後のことだと考えてよいはずである」という指摘に留意したい(三浦佑之 浦島太郎の文学史―恋愛小説の発生― p163 五柳書院 1998年 初版1989年)。複数の伝承地を持つ主人公の第一候補は、やはり筒川の地とみるべきであろう。この地の域内に浦島子を主祭神とする宇良神社が存在することと、神社名を「宇良」としている点に注目したい。主人公は「逸文」後段で「宇良志麻能古」と万葉仮名で表記されている。この書き方に従うなら「浦嶼ノ子」という読み方に理がありそうであるが、神社名を「宇良志麻」とせずに「宇良」としていることを「浦ノ嶼子」という読み方を支持する一つの根拠にしたい。水野祐氏の「伝承のオリジナルなこの人物の名は「嶼子」であって、「浦島の子」ではなかったことは明瞭な事実なのである」「この伝説の主人公の本来の名は「嶼子」であると断定したい」という主張を援用したい(水野祐 古代社会と浦島伝説 上 p27 雄山閣 1975年)。

「逸文」後段は後世の潤色という見解に対する反論としては、「嶼子」、「神女」という表記が前段・後段両方にみえるということを根拠の一つとしたい。

本論は、主人公が二種類の姓名の読み方をもったのは、作者が、主人公を象徴的な意味を織り込んで創作した架空の人物であるということをメッセージとして仄めかすために用いた表現上の工夫・細工と解している。

いずれにしても、「水江浦嶼子」の姓名の由来、読み方、あるいは複数の伝承地を有することについての諸説は、彼の実在を、万人に納得させる根拠として未だ示し得てはいないということを指摘しておきたい。

(2010年8月4日(水)掲載)

「水江浦嶋子」とは何者か(8)

「浦島説話」の主人公が実在したか、あるいは原作者による創作であるかという議論もそう単純にいかないことは充分承知している。この説話が書き記されてからすでに1300年以上の年月が経っている。もし、本当に雄略朝の治世の史実だとするなら、さらに220年余り遡ることになる。物理的な意味での時間経過も大きな壁として立ちはだかっていることは確かである。しかし、粘り強く、丁寧に考察を続けていけば必ず道は開かれるはずである。

始原の三書のうち、『丹後國風土記』「逸文」収載の記録が、原作内容を知る手がかりとしての絶対基準ともいえる位置付けにあることをみてきた。水野祐氏は「現存する文献の中で、浦嶼子伝説を最も詳細に収録する最古の文献は、『丹後国風土記逸文』に見える伝説である」(p51)、「われわれはまずこの伝説について論ずる時には、最もその原型に近い姿を留めている、この『丹後国風土記逸文』の伝承を基礎として考究しなければならない」(水野祐 古代社会と浦島伝説 上 p54 雄山閣 1975年)との見解を示しているが、この考え方は現在では広く承認されているといえよう。こうした認識を出発点として差し支えないと考える。

「逸文」は、主人公は「筒川嶼子」と記録し、この人物がいわゆる「水江浦嶼子」のことであると明記している。しかし、『日本書紀』は「瑞江浦嶋子」、『万葉集』は「水江之浦嶋兒」と記し、三書とも若干表記を異にする。そして「筒川」と明記しているのは「逸文」だけなのである。この点も留意しておく必要があろう。

人名という観点からみると「筒川嶼子」こそが最もそれらしい感じを与えるのであるが、なぜ、この名はその他の史料に見えないのか。

この疑問に対しては、水野祐氏の次の見解は一つの参考になるのだろうか。

「「筒川の嶼子」というのが本来の固有の名であり、この伝説の普及につれて、単に丹後国「筒川の嶼子」に固定することができなくなって、「水の江の浦の嶼子」というようになり、後にはこちらのほうの名が、一般化してしまったので、編纂時にあたって『丹後国風土記』のほうがかえって、「筒川の嶼子」こそは一般に言われている「水の江の浦の嶼子」のことなのだと註せざるをえないようになっていた。すなわちそれだけ奈良朝以前においても、この伝説は日本の各地に広布していたということが示唆されているのだと解釈できるであろう」(水野祐 古代社会と浦島伝説 上 p27 雄山閣 1975年)。

「「筒川の嶼子」に固定することができなくなって、「水の江の浦の嶼子」というようになり」というが、「筒川」は与謝郡日置里筒川村で、「水江」を「竹野郡網野町の北の海浜一帯」とする見解とどう整合性をとるのであろうか。

「浦島説話」は伊預部馬養連が丹波國宰を務めていた時に、土地に伝承されていた説話を採録したというのが一般的な理解である。

例えば、次のように考えてみよう。

①「浦島説話」が語る内容は雄略朝の治世の史実である。

②「水江浦嶼子」なる人物は実在していた。

このことを承認したとしても、釣り上げた亀は神女と化す。二人で海上(海中)の異界に赴いたはずなのに、そこは天空世界でもあった。そこで3年を過ごし、現世に戻ってみると300年余が経過しているといった説話が語る内容それ自体を事実として受入れることは到底不可能である。

主人公は実在したが、内容はフィクションである。つまり虚実ない交ぜの説話を史実として受容できるのであろうか。

こうした観点からのアプローチも、人物像に迫る一つの方法ではあろう。

(2010年8月5日(木)掲載)

「水江浦嶋子」とは何者か(9)

始原の三書のうち、『丹後國風土記』「逸文」には主人公の出自に関する貴重な情報が残されている。彼は「日下部首等先祖」と記述されている。これを手がかりに人物像を考えてみたい。

重松明久氏は『浦島子伝』に「日下部首」について丁寧な注を施しているので、参考までに紹介しておきたい。

「日下部の伴造。日下部首については、『新撰姓氏録』の和泉皇別の条に「日下部首、日下部宿禰同祖、彦坐命之後也」とみえる。彦坐命は開化天皇の子。したがって日下部首は開化天皇の後裔氏族ということになる。『日本書紀』「崇神紀」十年九月九日の条によれば、大彦命を北陸道、武渟川別を東海、吉備津彦を西海、丹波道主命を丹波に遣わし、これらの地方を平定させたとみえる。この丹波道主命は彦坐命の子とされる。日下部首は丹波道主の末孫に当り、早い時期から丹波を中心に、山陰地方に勢力を張っていたことがうかがわれる。なお日下部というのは、元来、仁徳天皇の子の大日下王、若日下王のために河内河内郡日下の地に設けられた御名代部に、その名の起源があることは、『古事記』仁徳条にみえる。『大日本史』「国郡司表」によれば、丹波・丹後の国司に日下部氏はみえないが、但馬の養夫郡や朝来郡の大領・少領に、大化四年任といわれる日下部表米以下九名がみえる。かれらは日下部の伴造であった者の子孫に当るのであろう」(重松明久 浦島子伝 p15 現代思潮新社 2006年)。

「日下部首」は「開化天皇の後裔氏族」の「皇別」にあたる。また、「日下部」の名の起源が仁徳天皇の子に関わる「河内郡日下の地に設けられた御名代部」に求められるという。天皇・皇子の子孫とされる氏族であるのだから、由緒正しい名族ということになろう。

他方、主人公は「筒川村此人夫」つまり「人夫」という表現が用いられている。これは一般に「民(たみ)」と解されている。「村人」といった程度の意味になろうか。この記述と皇別とは馴染みにくい。このことをどう考えるべきなのか。

本論は、この記述は、馬養が深い含意を込めて構想したと捉えている。

佐伯有清編『日本古代氏族事典』によれば「日下部」欄に「雄略天皇の皇后若日下部王の名代、およびその伴造。草壁・草香部にも作る」とある。この説話は雄略朝の治世のこととしているが、一考を要する課題を提供している。大変興味深い。

(2010年8月6日(金)掲載)

「水江浦嶋子」とは何者か(10)

「浦島説話」の主人公「水江浦嶼子」という人物について、姓名の由来、読み方、出自といった観点から考察してきた。主人公の名前は固有名詞のように感じられるのであるが、始原の三書とも微妙に表記を異にする。また、二種類の読み方が並存するということは本質的な相違を意味しているといえよう。「浦ノ嶼子」と「浦嶼ノ子」では似て非なるもの、全くの別人となってしまう。

坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(三)』(岩波書店)は、「日本書紀 巻第十四 雄略紀」の「浦島説話」に関する記事中の「瑞江浦嶋子」の注として次のように書いている。「丹後風土記に「筒川嶼子・・・斯所謂水江浦嶼子」。本条では下文に浦島子。筒川の属する与謝半島東部の伝承では島子といい、水江という湖のある与謝半島西部の伝承では、本条や万葉と同じく浦島子、浦島という。いずれにせよ、この伝説のために水・江・浦・島を続けて作った名」(p85)。

「いずれにせよ、この伝説のために水・江・浦・島を続けて作った名」という記述に留意する必要があろう。四文字は、いずれも「水」や「海」に深く関係する普通名詞である。同書の記述によれば、主人公の名は「この伝説のために」「作った(創作)」というニュアンスが伝わってくる。

ここでは、丹後半島の東西二地区の伝承によって名前の読み方が異なることについて触れている。吉田東伍『大日本地名辞書 第三巻』(冨山房 1970年)には「水江」について「水江は今浅茂川池小浜池の二に分れ、網野村の東西に存す、延喜式網野神社亦在り」(p57)、「今網野の左右にある淡湖也」(同)とあり、「浅茂川池」と「小浜池」のことを一括して「水江」としていることがわかる。また「万葉集浦島子伝等に澄江(スミノエ)浦と云ふも此とす。(宮津府志に「浅茂川村、海浜所在之小社、俗称奈古社者、是往古所祭浦島子」と述べ、又水の江は日量(イカリ)本庄村に在りと云ふ、イカリとは今与謝郡本庄の別名なるべしと雖(いえども)、日量は日置の誤のみ、且水江は必定網野にして、筒川にあらず、筒川に江湾の名のつくべきものなし、蓋浦島子は筒川網野の両地に往来せし人なりければ、両地に其事を係くるのみ)」(同)ともある。この記述を読むと、地名としての「水江」は与謝郡日置の地にも存在していることになるが、説話で語られる「水江」は網野の地であると主張している。そして「浦島子は筒川網野の両地に往来せし人なりければ、両地に其事を係くるのみ」とあるところから、網野地方では説話の主人公は“おらが郷(さと)”の出身なのだというご当地意識が強く反映されているように思われる。著名人浦島子の出身地を主張できることはお国自慢になったのではなかろうか。しかし、『日本書紀』と『丹後國風土記』「逸文」を読む限り、主人公の出身地は与謝郡内と考えざるを得ない。主人公の伝承地が少なくとも二箇所に及ぶことの合理的理由と根拠は依然未解決の問題といえよう。

本論が最も重視するのは、「水」・「江」・「浦」・「嶼」・「子」五文字の「意味」と「字義」である。五文字は全て「水」に関係する文字が配されているのである。

主人公は海洋を往来する海人族だったのではないかという見解を説く研究者は、姓名の文字が水に関係が深い点に注意を払う。

福島千賀子氏は、この説話が語る内容を考察し、「海に関する要素の多いこと、海の彼方の異郷を訪問する仙郷淹留譚的要素は古代人の実際の体験を反映してゐると思はれること等から、この説話の成立の背後には、海を宰領し水の霊力を持ち得た海人族の存在が考へられる」という見解を示している(福島千賀子 浦島説話の成立試論 上 p53)。そして、「浦島説話は、先づ記紀の海宮神話の一構成要素―豊玉姫伝承とその根幹を一にするものであり、一族の祖先物語ともいふべき素朴な神婚説話の型で、海部氏によって古代丹後の地に運ばれて来たものであった。海人族の伝承であったこの物語はやがて、海人・隼人系及び朝鮮半島系といふ二重性をもつ日下部氏のより高度なより新しい文化と、強い勢力とに押されて、日下部氏の物語に併合されてしまふ。そして、丹後の地で日下部氏によって、逸文丹後風土記所収のものにほぼ近い型に成長した」と説話成立の背景について考察している(福島千賀子 浦島説話の成立試論 下 p70)。

福島氏が指摘するように、「浦島説話」と記紀神話との類似関係に着目する研究者は多い。この点に留意しておきたい。

また、この説話が語る内容には、古代中国・道教の中核を成す神仙思想の影響が看取され、どう考えても古来から丹後半島の地に根ざして成立した物語という印象は持ち難い。外来思想の影響ということを踏まえると、背景に「海人族の存在」「海人族の伝承であったこの物語」といった要素を考えざるを得ないことも事実であろう。

(2010年8月7日(土)掲載)

「水江」について考える

「浦島説話」の伝承について、主人公「水江浦嶼子」の実在は、一般的にいえば、史実として認識されているといってよいであろう。その根拠としては、まず国家正史に明確に記録されているということ。それ以外の史料(『万葉集』、『丹後國風土記』「逸文」)にも収載されているということがある。主人公の名称にしても三書によって表記に若干の相違が認められるものの、用字上のこととして大きな問題にならなかったということが挙げられよう。つまり、既に固有名詞として認知されてきた歴史的背景がある。

秋本吉郎校注『風土記』(岩波書店 1958年)の「浦嶼子」には「水江浦嶼子」の注として次のような記述がある。

「雄略紀・万葉集に見える称呼で、与謝半島の西北部、網野地方の伝承によるもの。水の江は竹野郡網野町の海浜地にある湖(浅茂湖・離湖)による地名としている。風土記の伝承(半島の東部のもの)は嶼子と呼んで浦島とは言わない」(p471)。

この注では、伝承地が二箇所存在していることを前提にしている。そのうえ、主人公の名前の読み方についても相違があることを指摘している。同書では、本文中の主人公の名前を「水の江の浦嶼の子」としている。この言い方は、後段の万葉仮名で表記された読み方を基にしているとみられるが、ここは「水の江の浦の嶼子」としないと整合性が取れない。誤記かもしれない。

伝承地についても、「水の江は竹野郡網野町の海浜地にある湖(浅茂湖・離湖)による地名」としているが、『日本書紀』「雄略紀」に「丹波國餘社郡管川人」、「逸文」に「與謝郡日置里此里有筒川村」、『万葉集』に「墨吉之岸」とあるように、始原の三書を読む限り、「水江」は名前に冠されており、網野地方の地名と特定するような表記ではないと考えざるを得ない。

「水江」=「竹野郡網野町の海浜地にある湖(浅茂湖・離湖)による地名」という見解は、吉田東伍『大日本地名辞書』や当地の伝承に基づく記述と推論できるが、これは後世に「水江」=地名として付加され、新たな伝承地として加えられた可能性が極めて大きいと考えるのが妥当と思われる。この問題については、本ホームページ「浦島説話」研究・Ⅵ「水江浦嶼子」の実在を問う、で検討しているので参照してほしい。

いずれにしても、伝承地が複数存在し、網野地方の伝承を主張する見解があるということ、名前の読み方が二種類あるということをもって、主人公の実在は根本的に揺らぐといわざるを得ないであろう。

(2010年8月21日)

「水江」は地名なのか

「浦島説話」を伝える始原の三書のうち、『万葉集』は、この説話の舞台を「墨吉之岸」としている。この地は、現在の大阪「住吉」の地に比定する見解が有力視されている。

『日本書紀』は「丹波國餘社郡管川」、『丹後国風土記』「逸文」は「丹後國與謝郡日置里筒川村」としており、この二書が語る場所は同一地と考えて間違いないであろう。問題は「墨吉」である。この地名についても、丹後の地とする見解がある。

「蟲麻呂の作に現われる住吉を、摂津の住吉であるとせられるのであるが、日下部氏は、首姓の伴造であって、和泉・摂津・丹波・出雲の各国にあり(太田亮「日本上代に於ける社会組織の研究」609頁)殊に、丹後風土記が、日下部首等が先祖としての浦島子を、日置里、筒川村の人と伝える限り、この住吉は、日本海岸に求むべきであろう。大日本地名辞書は、日置郷の筒川に就ては、与謝郡の記載の最後に

今本荘筒川の二村に分る、伊根村の西北、新井崎より経崎まで海岸凡三里、即筒川浦なり、大海に面し、東北四十余海里の外に、越前岬を望む。

と記し、スミノエに就ては、別に、竹野郡の網野村(現在、町)の左右にある淡湖浅茂川池を以て、水ノ江にあて

凡此両湖は各周囲三十余町、水碧沙明、海遠山幽、また一勝地とす、萬葉集浦島子伝等に澄江(スミノエ)浦と云ふも此とす。

・・水江は必定、網野にして、筒川にあらず、筒川に江湾の名つくべきものなし、蓋浦島子は筒川網野の両地に来往せし人なりければ、両地に其事を係くるのみ。

といっている。この説を受けて、実地踏査に基く委しい記載をしたものに、萬葉集新講があり、私も亦、昭和八年四月、この地に遊んで「浦島伝説の中を往く」という紀行文を翌月の雑誌「詩歌」に掲げたことがある・・・」(阪口 保 浦島説話の研究 pp14~15 新元社 1955年)。

阪口氏は、同書で「日下部氏が、自己の出自を誇る神話として伝承し来ったものが、奈良朝に至って、丹後国住吉地方の伝説として」(前掲書)と「住吉」を丹後の地という認識で記述している。こうした認識の背景には、「『万葉集古義』・『万葉集略解』ともに墨吉は与謝郡にある地名であろうとする」(重松明久 浦島子伝 p25 現代思潮新社)といった理解に基づくものであろうが、この記述は推量で語られている。重松氏は「虫麻呂の歌った浦島伝説は、舞台が住吉の海浜とされていることから、おそらく住吉神社に伝わった説話であると推測される」(前掲書 p177)と指摘している。

『万葉集』中の「墨吉」と、「住吉」との関係は、「餘社郡管川」と「與謝郡筒川」との関係のごとく用字法のことがらとしてクリアーできたとしても、率直にいって「スミノエ」「水ノ江」「澄江浦」「澄江」「墨吉(住吉)」は全て同一化できるものなのであろうか。

「水江」を網野の地と関係づける見解にしても、「スミノエに就ては、別に、竹野郡の網野村(現在、町)の左右にある淡湖浅茂川池を以て、水ノ江にあて」という前述の記述は、「水江」と地域を特定する地名の書き方ではない。ここには、混用を含めてある種の恣意的な伝承地化への、つまり、「浦島説話」を網野の地に由来させたいと希求する人々の“見えざる強い思い”が時間をかけて醸成させてきたと推測できる歴史的因子を汲み取らざるを得ない。というのは、重松明久氏は、前述の「大日本地名辞書」の記述について触れたうえで、次のように述べている。「吉田東伍の『大日本地名辞書』は水の江の浦島子という場合の水の江は、与謝郡の西方、竹野郡の網野町の北の海浜一帯を水の江とし、澄江浦もここだろうとする」(前掲書 p25)とまとめているが、いずれにしても『大日本地名辞書』にしても書き方は推量にとどまる。

『万葉集』の「浦島説話」成立は天平年間という見解が有力であり、地名論議でいえば、成立が先行する二書の記述にこそ重きをおかなければならない。ただ、「水江」を地名とするには依然として未解決の課題を含んでいる。『万葉集』の「水江之浦島兒之・・・」という書き方からみると、「水江」と「浦島兒」という認識がなされているが、名は「嶼子」であることは「逸文」の記述の仕方から動かし難い。とすると、「水江」「浦」「嶼子」と3つに区分するのが自然と思われる。「水江」と「浦」をどう考えるか。すでに、始原の三書にしてから姓名の区分は明確ではないことがわかる。

阪口保氏の「丹後風土記が、日下部首等が先祖としての浦島子を、日置里、筒川村の人と伝える限り、この住吉は、日本海岸に求むべきであろう」という表現に基づく見解では、「墨吉(住吉)」と「水江」を同定させ、丹後半島の地に結びつける根拠とするには、どうしても無理があると言わざるを得ないのである。

(2011年1月15日)

「一太宅之門」について考える

始原の三書のうち、『丹後國風土記』「逸文」には「到一太宅之門」という記述がある。女娘と主人公が赴いた異界の中の特別な入口にあたるところである。

本論は「一太」という記述には、作者の重要な意図が織り込まれていると考えている。通説では、この箇所は「一軒の立派な家の門」(植垣節也校注・訳 風土記 新編日本古典文学全集5 p476 小学館 1997年)といった意味に解されている。重松明久氏は「一(ひと)つの太(おほ)きなる宅(いへ)の門」(浦島子伝 p11)と訳している。「太」を「大」という意味に置き換え、大きく立派な門構えの邸宅といった意にとらえる解釈が定説になっているといえよう。「太」には「大」の意味があることは確かである。

本論は、作者は「太一」に読み替えることを企図したうえで「一太」と表記したのであり、そのために「大」ではなく「太」でなければならなかったのであると考えている。そのように解するのは、この説話には道教、易(陰陽)・五行思想の哲理が反映されており、とくに後者の思想は、象徴や寓意、暗喩といった表現方法に用いられているとみているためである。

「太一」は万物の根源、宇宙原初の次元、世界の始まり、陰陽が生まれ出づる前の混沌といった哲学的、思想的概念である。『呂氏春秋』大楽篇にみえる「太一、両儀を生じ、両儀、陰陽を生ず」の「太一」であり、『易経』繋辞伝の「易に太極有り。これ両儀を生じ、両儀は四象を生じ、四象は八卦を生ず」の「太極」にあたる。「両儀」は「天地」、「陰陽」を、「四象」は「五行」にあてはまる。「太一」も「太極」も、万物が生成する根源にある気を意味する象徴表現である。

「太一」を「①万有を包含する大道。天地創造の時の混沌たる気。②いちばん初め。太初。太始。③天帝。また、星の名。太乙。④山名。秦嶺山脈の終南山。」(『新漢語林』)とするように天帝の意などをも含む。天皇が即位等の大礼を行った宮殿を、かつては「太極殿」といった。この名称が易の太極と同義であるとするなら、天皇は、天地創造の太初を、宇宙の最高実在を体現した至高の尊き御存在であるという象徴性が付与されているとみるべきではなかろうか。

作者が「一太」と記述した背後には極めて深い含意が込められていると本論は解している。

(2010年8月13日)

二つの際立った時代の対置

「浦島説話」を伝える始原の三書のうち、『日本書紀』と『丹後国風土記』「逸文」の二書は、この説話の歴史的端緒を雄略朝の治世のこととしている。

丹波国宰(後の国司)として任地に赴いていた伊預部馬養連が、土地に伝承されていたこの話を聞きまとめた(ということになっている)のが文武朝初頭(697~701年頃)である。

雄略朝と文武朝の二つの治世は、いずれも際立った時代であるものの、両者の間には本質的に決定的な相違がある。それは、対中国との外交的なスタンスの違いである。

雄略天皇を含む、いわゆる倭の五王の時代は、我が国の歴史上、一大画期の時代を形成していた。世界に冠たる巨大前方後円墳の大山古墳(大阪府堺市)の被葬者は五王の一人、仁徳天皇ともいわれている。にもかかわらず、五世紀代の我が国と中国との関係は「冊封関係」に基づくものであった。「冊封」とは「中国の皇帝が周辺諸国の君長に対し冊書・称号を授け、国王に封じること。冊封によって生じる関係を冊封関係といい、中国と諸国とは宗主国と藩属国という君臣関係になる。宗属関係の具体的表現が朝貢で、藩属国の使節は中国皇帝に対して、土産の物を献上して君臣の礼をつくし、皇帝は回賜として多くの返礼物を与え、大国の威徳を示した。中国には、自身を礼・法を体現した文化地域すなわち中華とし、周辺地域は文化を知らない夷狄とみる華夷思想が古来からあり、中華の威徳を周辺諸国に及ぼすのが冊封関係であると考えられていた。諸国の王は、自身の地位の正統性を中国から認められることで、自国内の王権の強化・安定をはかろうとして冊封に応じた」(日本史広辞典 山川出版社)。つまり、倭の五王の時代といえども、中国との関係においては対等の関係ではなく、朝貢外交を基にした隷属的主従関係にあったのである。中国がいくら巨大であろうとも、対外関係において、これでは国家としての実質的な体を成していないのに等しい。

では、伊預部馬養連が生きた時代、持統、文武天皇の治世はどうか。当時も、中国は仰ぎ見る巨大国家としてアジア(当時の世界認識においては、世界といっても過言ではないだろう)に君臨していた。

藤原京造営にせよ、律令法典体系の在り方にせよ、中国に範を採ったことは紛れもない事実である。しかし、それを吸収し、練り上げ、実体として本家中国をも凌駕した内容の国づくりを構築するという大いなる気概をもった国家意識のもと、我が国独自のもの(「律令」撰定と「国史」編纂という二つの両輪)を創案するという一大プロジェクトが完成をみた治世であった点が、倭の五王の時代との特筆すべき相違である。

このプロジェクトの始まりは、681年(天武10)の「律令」編纂と「国史」編纂事業の開始に求められると思う。それから20年余りの時を経て成立した『大宝律令』の施行によってプロジェクトは完結をみたといえるのではないか。国家としての独立主権を対外的に高らかに宣言したのである。馬養はその撰定作業に参画していた人物である。

この二つの時代(5世紀後半と7世紀末)の際立った質的相違に配意することが、「浦島説話」を読み解くうえで重要なポイントになる、と本論は認識している。つまり、二つの異なる時代を対置させつつ、両者を重ね合わせるという視点である。

(2011年1月9日)

説話研究の盲点

「5世紀後半」と「7世紀末」

「浦島説話」研究においては、未解決の盲点が存在している。

それは「説話誕生の歴史的背景」という観点からの分析である。

この説話は、持統、文武両帝の治世で活躍した官人・伊預部馬養連が文武朝初頭(697~701年頃)に書き記し、現在に伝わっている。

従来、「浦島説話」の研究において、主人公「水江浦嶼子」が雄略朝の時代に丹波國の筒川の地(あるいは「水江」、「墨吉」の地)に実在した人物とみる認識に対して徹底的な懐疑の眼が注がれることはなかったといってよい。

なにしろ国家正史が「雄略紀」に取り上げ、しかも年月を含めて明記しているのである。また、始原の三書はもとより、主人公の姓名は、後代に至っても多くの文献で取り上げられ、少なくとも「浦嶼子」は、すでに固有名詞として認識され定着してきたという歴史的経緯もある。

しかし、そのことが盲点となっていたのである。

本論は、この点に徹底的な懐疑の眼を注いでいる。

「浦島説話」が書き留められた文武朝初頭(697年~701年頃)という時代を見据える考察が、この説話を読み解くうえで大変重要な意味をもっている、と本論は考えている。

説話が書き記された「歴史的背景」を考察する場合の一つの参考として梅原猛氏の次の記述を紹介しておきたい。

「『古事記』の作られた和銅5年(712)という年は、はなはだ政治的に重要な意味をもった年である。いってみれば、『古事記』の編集という事業は、藤原不比等による律令国家建設の仕事のさ中に起こった出来事なのである。

この律令国家建設の仕事は聖徳太子と蘇我馬子によって始められたが、天智天皇と藤原鎌足によって敢行された大化の改新によって、はっきりした国の方針になった。

その仕事を、天智天皇の皇女に当たる元明帝を天皇に仰いで、鎌足の息子の不比等が完成したわけであるが、彼はまず、大宝元年(701)に、わが国で初めての完備した律令である大宝律令を作り、和銅元年(708)、わが国初めての公式貨幣である和銅開宝をつくり、和銅三年(710)に、わが国初めての計画的首都奈良への遷都を敢行した。

『古事記』撰修の命が出たのは、この遷都の翌年の九月十八日であり、そしてそれが完成したのは、翌々年の一月二十八日である。

そして、先に述べたように、それから八年後に、『日本書紀』が作られた。そして、その年、不比等は死んだ。

不比等がほぼ権力を手中に収めたのは大宝元年のことであり、和銅元年には不比等は独裁的権力をにぎった。『古事記』も『日本書紀』も、この不比等の独裁の期間にできたものである」(梅原 猛 古事記 pp222~223 学研 2011年第18版)。原文ママ。梅原氏のこの論文は「1980年『現代語訳・日本の古典1 古事記』のタイトルで、学習研究社から出版された作品を文庫化したものです」とある(前掲書 p282)。

梅原 猛氏は「不比等がほぼ権力を手中に収めたのは大宝元年のこと」と指摘しているが、馬養は不比等とともに大宝律令撰定作業に参画している。不比等は、この事業で主導的な役割を果たしている。馬養は、当時の政治状況をつぶさに観察する環境に身を置いていた。

そして、当時は国史編纂事業も大いに進展をみた時代である。不比等が権力を掌握することと国史編纂作業の進捗とが重なり合う点に十分に意を配る必要がある。

梅原氏は、不比等が記紀の両編纂いずれにも大きな影響力を行使したとみる立場である。『古事記』の編纂作業にも不比等が関与したか否かは今後も検討を要するが、国家正史の編纂に彼が深く関わったとみる研究者は少なくない。むしろ、現在では通説となっているといえるだろう。

このような要素を勘案することなしに、作者が作品に織り込んだ意図を汲み取ることはできないのではないかと本論は考えている。

表面的な字句に従った解釈を行えば、この説話は、丹波の地を舞台とした雄略朝期における男女の悲恋物語の衣を纏っているが、作者が伝えようとした真意はその背後に隠されており、未だ明らかにされていないと考える。

(2011年2月5日)

雄略朝と「浦島説話」

丹後半島には、4世紀後半から5世紀初頭頃の築造と推定されている大王墓クラスの巨大古墳(加悦町の蛭子山古墳、網野町の網野銚子山古墳、丹後町の神明山古墳)の存在が古くから知られている。全長は150~200㍍に達する規模を誇る。

伴とし子氏は『古代丹後王国は、あった』(1998年)で「日本海沿岸でこうした200メートルクラスの古墳はほかになく、「日本海沿岸三大古墳」ともいわれている」と指摘している(p22)が、前述の三大古墳の築造年代はいわゆる倭の五王の時代に相当する。当時、丹後半島に有力王族が存在し、独自の文化を育み栄華を誇ったであろうことは巨大古墳の存在が如実に物語っている。

伴とし子氏は「日本海沿岸の他の地域では、越前の六呂瀬山古墳が140メートル、但馬の池田古墳が136メートルくらいであとは100メートルないしはそれに満たないものばかりである。古代の大国といわれる出雲においては、一番大きなもので宮山古墳の57メートルが最高であり、こと大きさに関していえば古代丹後が抜きんでていたことは疑うべくもない」と指摘している(前掲書p22)。

かつて丹後半島を車で回った際、筆者は前述の古墳も見ることができた。古墳の眼下に海が一望でき古墳の被葬者が権力を行使した時代には活発な交易が行われていたのであろうと思われた。伊預部馬養連もこうした風景を目にしたのであろうと想像してみた。彼が生きた時代からみれば、200年余りの時の隔たりである。今に比べれば、遥かに往時の栄華を実感できたであろう。丹波国宰として当地に赴任した馬養が、「浦島説話」を雄略朝の治世としたことの理由の一つには、倭の五王の時代への深い思い入れがあったと思う。

「浦島説話」の主人公「水江浦嶼子」の「水江」が丹後・竹野郡網野町地域に由来するというのは、同地の淡水湖(浅茂川湖と離湖)をさすという見解に基づいている。吉田東伍氏の『大日本地名辞書』によれば、「水江」が丹後・竹野郡網野町の「北の海浜一帯」をさすとあるが、そのような見解の背景には、特定の地域をさすというよりも、網野町の「北の海浜一帯」と「水江」という語感とが結びつけられて成立したものと考えられる。

伴とし子氏によれば、網野町には「日子坐命を初代」とし、「網野町から東日置まで二十七ヶ村の支配を許された」「日下部系」であることを記す系譜と系図が残されているという。系図には「嶋子」の名も記されているという(前掲書p31)。

本論は次のように考える。伊預部馬養連が書き残した「浦島説話」の誕生後に、丹後網野の地に日下部氏の流れをくむ一族が大きな影響力を及ぼす時代があった。その氏族は、「日下部首等の先祖」である「水江浦嶼子」を同族伝承として同化させ、網野町の「北の海浜一帯」と「水江」を関連づけて当地由来の人物とさせていったのではないかと。

三舟隆之氏の次の見解を紹介したい。

「丹後地方には、広大な平野が見られない。にもかかわらず、200㍍級の大型前方後円墳が出現することは、農耕生産以外の経済基盤の存在を推測しなければならないであろう。そのことを示すのは、丹後の巨大古墳の立地である。巨大古墳の網野銚子山古墳の前面には竹野川の河口があり、実は現在は埋め立てられているが、かつては浅茂川湖があった。また神明山古墳のある竹野川河口にも、竹野湖があった。

このような海と砂丘で隔てられた水域を潟湖(かたこ)と呼び、古代においては天然の良港であった。すなわち、日本海をルートとする交易による経済力が、この丹後地域の首長の権力基盤になっていたと考えられる。そして、丹後地域の大型古墳を造営した首長は、大和大権とは別の独自な、朝鮮半島や九州・出雲などとの交易ルートを確保していたと想像される。この潟湖の周辺に自然と人が集住して文化が生まれ、交易によって富が蓄積されてその地域が繁栄していった。浦島子の「水の江」とは、まさしくこの地域を繁栄させた、潟湖のことであろう。日下部首氏が中央氏族でなく浦島子を祖先としたのは、海彼から渡来した氏族伝承の残影かもしれない。伊根町新井崎神社は、秦の始皇帝が遣わした徐福を祭る」(三舟隆之 浦島太郎の日本史 p35~37 吉川弘文館 2009年)。

「潟湖」は地域を限定する地名ではない。三舟氏は「水の江」と潟湖とを結びつけているが、このような考え方は、吉田東伍氏の見解と同質といえるのではないかと思われる。

本論は、「水江」=「丹後網野町の北の海浜一帯」=「潟湖」という構図は、①丹後網野地域を支配した日下部氏に関わる有力人物の存在、②「水江」という文字が有する語義・語感と網野の地の北の海浜一帯といった要素が、説話誕生後に結びつけられ、主人公が同地に由来する人物として後世に形成されていったものではないかと考える。

「水江浦嶼子」の「水江」に、「原作者」馬養が織り込んだ意図は、地名あるいは地域としての網野の地とは関係を持たないと考えている。

(2011年2月19日)

考察

伊預部馬養連

はじめに

いわゆる「浦島太郎の物語」の歴史的源流を遡っていくと、その成立の端緒は文武朝初頭の西暦700年前後に至る。当時、この物語の主人公の名前は「水江 浦嶼子」(「瑞江 浦嶋子」、「水江 浦島子」などと表記)といった。伝承によれば、この説話は、雄略朝(西暦5世紀末)の御世に丹波の地におこった出来事である、といわれている。残念ながら原書・原作は残されていない。しかし、その内容を知る手掛かりが『日本書紀』、『丹後国風土記』「逸文」、『万葉集』に残されている。始原の史料・三書といわれるものである。この民間伝承を採録した人物が丹波国宰(後の国司)を務めた伊預部馬養連(いよべのうまかいのむらじ)である。彼は、持統、文武両朝の治世に活躍した官人で、軽皇子(後の文武天皇)の皇太子学士や「大宝律令」撰定作業にも参画している。当代きっての漢学者でもあった。

この説話を研究しようとすれば、前述の三書にあたるほかない。他方、これまで、「浦島説話」の研究においては多くの優れた論文が発表されてきている。始原の三書のみならず、こうした碩学の研究論文に触れることもできる。水野祐氏の『古代社会と浦島伝説』上下二巻(雄山閣出版 1975年)の労作もその中の一冊である。「浦島説話」の研究にとっては重要な文献資料の一つである。説話研究に注がれた氏の情熱と労苦に深い敬意を表したい。

「浦島説話」は未だ未解決の課題を残している、というのが本論の立場である。ここでは、水野氏の文献をもとにしながら伊預部馬養連の人物像や研究課題について触れておきたいと思う。文中のカッコ内の頁表記は水野氏の著作の上巻からの引用である。

「採録者」か「原作者」か

本論は、馬養を「原作者」とみるが、本来は「採録者」、あるいは「記録者」「筆録者」「伝承者」とでも呼ぶべきなのかもしれない。というのは、この説話の起源を遡れば、雄略朝の御世に至るのであり、彼が丹波国宰として任地に赴いていた時に、土地に伝承されていた「説話」の内容を伝え聞き、それを記録にとどめた、というのが一般的な理解といえるだろう。始原の三書のうち、『丹後国風土記』「逸文」と『日本書紀』の二書が、説話成立を「長谷朝倉宮御宇天皇」つまり「雄略天皇」の治世としており、その時代に馬養は生まれてはいない。

「浦島説話」と伊預部馬養連との関係をどうみるか、このことの考察は、説話研究の重要な問題点である。馬養は、たんなる民間伝承の採録者にすぎなかったのか、あるいは原作者といえるのか、説話研究の出発点に戻って検討する必要がある。そして、この点は、依然未解決の問題として残されている、と本論は考えている。

出自

水野祐氏は、上巻に「第二章第二節 伊預部馬養連」を設け詳しく触れている。その内容をみながら概略をまとめてみたいと思う。水野氏は「『丹後国風土記』に、浦嶼子伝説の筆録者として、その氏名を明記されている伊預部馬養連は、往事の国守であり、彼が記録した浦嶼子伝説は、風土記の編纂の際、時の国司が国内での伝承者にあたってみたところ、相異するところがなかったので、そのまま馬養の記述を借用して成文したと述べられている。この伝説が、和銅時代よりもっと古くから丹後国の与謝郡内の浦々の浦人たちの間に、民間伝承として伝えられていたことと、馬養がそれに興味をもって、伝承者の語るところを記録していたということが推定できるし、また馬養の記録が、後になって改めて伝承者の伝承と照合してみても、誤りがなかったということは、馬養が相当文筆に熟達し、漢字・漢文学の知識に通達した人物であったことを思わせるものがある」(p66)としている。

水野氏は馬養を「記録者」という認識でとらえている。

伊預部(伊与部・伊余部・伊予部などと表記)氏の出自について、『新撰姓氏録』によれば「右京の神別で、高皇産霊神の三世の孫天辞代主命の後裔とするものと、武礪目命の後裔とするものとの二流があり、後者は尾張氏の一族であって、後に連姓を賜ったのはこの氏の流れである」(p66)という。水野氏は、平安時代に活躍し、大学助教、明経博士、陰陽頭などを務め、令義解の撰修にも関与し、東宮学士などの役職にも就いた伊与部連真貞の「家系が伊預部連家であり、その遠祖が馬養に連なることは明白であるから、伊預部馬養が漢学に通達した学者であったことも、その家系からいって当然のことのように思われる」と指摘している(p67)。馬養を含め、彼の後裔氏族に漢学に通じた人物を輩出した歴史的背景に基いたうえで、水野氏は「国守として丹波国に赴任して来た馬養が、その任地の民間伝承に非常に興味を懐き、その失なわれるのを惜しんで、さっそく得意の漢学の知識をふるって、それを文字に写し永く遺そうとした行為もまた、彼にあっては当然なしえたことと思われるのである」(p67)と述べている。

略歴

馬養の略歴についてみておきたい。

彼は689年6月、撰善言司に任命されている(『日本書紀』「持統紀」3年(689年)6月2日条)。撰善言司については、書物編纂官という見方がなされている。水野氏は「『善言』という題目の書を編纂するために、新たに設置された官司として任用されたというのであるが、その『善言』というのは何かというと、中国の南朝の宋の范泰が編纂したといわれる、『古今善言』三十巻にならって、わが国の物語や、中国古典の中から、古来の「善言」を集成しようというものであるらしく思われる」(p68)という見解を示している。いずれにしても、その役職の果たすべき使命として、軽皇子(後の文武天皇)の教育に資するということが挙げられよう。水野氏は「いわば皇太子に対する帝王学教育のテキストの編纂ということであるから、これは国家としてはきわめて重要な仕事である。そういう仕事に馬養が抜擢されて、編纂者の一員として任命されたのであるから、持統朝において早くも彼は漢学の素養に頭角を現わしていたものと推定される」(p68)と触れている。

また、書物編纂に関わるという意味でいえば、この職務が、国史編纂事業にも資するという目的をも担っていた可能性は高いと思われる。

馬養は皇太子学士に拝命されてもいる。水野氏は、馬養が皇太子学士として任ぜられていた期間について「持統天皇の五年(691年)頃から、軽皇太子が即位する持統十年(696年)まで、五、六年間ほどその職にあったと思われる」(p70)と推論している。皇位継承を嘱望された軽皇子の教育係としての重責が課せられていた。該博な学識はもちろんのこと、優れた人格が高く評価されていたのであろう。軽皇子の祖母である持統天皇と、皇子の母・阿閇皇女(後の元明天皇)等の信任は厚かったであろう。

馬養は「大宝律令」撰定作業にも加わっている(『続日本紀』文武4年6月17日条)。彼は中国の律令制度・法体系などにも通じていたのであろう。当時、彼は従五位下(「直広肆」)であった。「大宝律令」は大宝元年8月3日に完成をみた。この功績によって、馬養は禄を賜わっている。

馬養が書いた漢詩が『懐風藻』に収載されている。

生没年

馬養の生没年は未詳とされている。しかし、手掛かりは残されている。彼が書いた漢詩が『懐風藻』に残されているが、そこには「皇太子学士 従五位下 伊与部馬養一首 年四十五」と記されている。同書の書き方に従えば、「年四十五」とは享年を示すもので、彼は45歳で亡くなったことが知られる。『続日本紀』大宝3年2月15日の条によれば、律令撰進に携わった人物等4名への功賞記事が載っている。このうち、下毛野朝臣古麻呂と伊吉連博徳の2名には直接本人が田と封戸を賜っているのに対し、調忌寸老人と馬養に対しては、それぞれ嫡男に田と封戸が授けられているのである。このことは、703年2月15日の時点で、両者はすでに他界していたことを示している。水野氏は「おそらくは大宝二年のうちに死去したものと思われる。大宝二年(702年)中に死去したとすると、その時に彼が四十五才であったから、それから逆算すると、彼は斉明天皇の三年(657年)に生まれたことになる」(p71)。大宝元年八月時点での彼の存命は確実であり、それ以降、703年2月15日以前に死去したことは間違いないだろう。馬養の生没年については、水野氏の見解をほぼ通説とみてよいと思われる。

参考までに、水野氏がまとめた馬養の年譜を紹介しておく。

①     生誕    斉明3年

②     撰善言司  持統3年6月   従六位下相当   32才

③     皇太子学士 持統5年     従五位下     34才

④     丹波国守  文武元年     従五位下     40才

⑤     律令撰進  文武4年6月   従五位下     43才

⑥     賜禄    大宝元年8月   従五位下     44才

⑦     卒去    大宝二年中    従五位下     45才

③と④も水野氏の推論である。検討の余地が残されているとはいえ、皇太子学士の後に丹波国宰に任じられたとみることは妥当のように思われる。

説話“成立”時期はいつごろか

馬養の生年を657年とし、没年を702年とし、彼の略歴記録が判明しているものを当てはめてみると、以下の三点については定めることができる。①持統3年6月・撰善言司に任命さる・32歳、②文武4年6月・律令撰進を命ぜられる・43歳、③大宝元年8月・賜禄される・44歳、となる。水野氏は、馬養が皇太子学士に任ぜられたのは「撰善言司を務めた後」(p72)とし、持統5年と推定している。そして、その任期は「おそらく軽皇太子が即位される前年持統十年(696年)まで、その職にあったであろう」(p72)。大宝律令撰進を命ぜられた時点(文武4年6月)には馬養が都にいたことは確かであろう。水野氏は「文武元年から文武三年に至る三ヵ年ほど、彼が何をしていたか、記録がなくて空白の時代である。そこで私は皇太子即位に伴ない、皇太子学士の職を退いた馬養は、その功により、丹波国守に任ぜられて、丹波国に赴任したのではなかろうかと推定する。当時彼は従五位下であったが、丹波国は上国であり、上国の国守の官位は、従五位下が相当であるから、馬養が丹波国守になるのはいっこうに支障がない。国守の任期については四年といい、六年といい、一定していないが、馬養が丹波国守になっていたのは、文武元年より文武四年に至る、三ヵ年ほどの空白期間をそれに充てるのが妥当な見解といえよう。この推定が許されるとすれば、伊預部馬養連が『丹後国風土記』に採録された、浦嶼子伝説を筆録したのは、だいたいにおいて文武元年(697年)から、文武三年(699年)までの間、おそらく文武二年(698年)の頃であったとして、誤りはないと考える。すなわち私が『丹後風土記逸文』に見る浦嶼子伝説は、わが国において現存する記録された浦嶼子伝説としては最古のものであると主張する所以である」(pp72~73)とし、説話の“筆録”時期を「だいたいにおいて697年から699年の間、おそらく698年の頃」という見通しを述べている。そして「私がこの『丹後国風土記逸文』の浦嶼子伝説をもって、わが国最古の浦嶼子伝説の記録であると断定する所以は、『丹後国風土記』の成立年代の如何にかかわることなく、その原史料となった伊預部馬養の筆跡年代が、文武天皇の二年すなわち西暦698年に推定できるという、この絶対年代にあるのである」(pp73~74)という表現をしている。馬養の略歴をつなぎ合わせる作業から勘案すると、大きな差異はないと思われる。

軽皇子が即位した日をもって、暦は儀鳳暦に単独行用されることになる。本論が注目するのは、説話の“筆録”時期、本論は説話の“成立”時期とみるが、この時期と重なるという点にある。

「浦島説話」は伝承されたものか、創作されたものか

水野祐氏は上巻・第二章第二節に「三 馬養と浦嶼子伝説」(pp73~77)という項を設け、説話についての自らの見解を丁寧に述べている。以下、概略をまとめておきたい。

水野氏は「浦嶼子伝説」を「丹波の海浜の漁人の物語」(p73)と認識している。つまり、古くから民間伝承されてきたものであると考えている。そのうえで、馬養という人物が「漢文学に対する教養があり過ぎ」(p74)、「あまりにも明経・文章の学に通じ過ぎていたために、民間漁人の伝承をそのまま言辞を尊重して字音に写し、伝承のありのままの姿を記録に留めようとしたのではなく、ただちに老荘思想の思考を導入し、中国的伝承に美化して表現してしまった。それがこの記録の最大の欠点である」(p74)という見解を示している。

水野氏は、そうした観点を踏まえ、漢籍に通暁していた当時第一級の漢学者で「漢文儒学の素養で固められている」(p74)馬養が潤色し手を加えたと推論しているのである。また、「馬養には常に理想とする中国の文物と等しいものがわが国にもあるという対比において、わが国の事物をみる慣習があったようである」(p74)とし、「日本人のいう「トコヨ」とは、神仙思想にいう蓬莱山のことにすぎないのだという固定観念が彼の頭脳の中に定立されていたので、浦嶼子伝説はたちどころに神仙説と結びつけられたのであろうし、一度筆をとれば不知不識、筆は走って中国の字句を自在に連ねさせてしまったのであろう。馬養の優れた教養がかえって禍となり、民間伝承のありのままを伝えようと意図した彼の志を無視して、神仙譚色彩を濃厚に加味した文章をなさしめてしまったところに、私は彼の行為が、功罪相半ばするとの、厳しい批判を加えざるをえないことを遺憾に思うのである」(pp74~75)というのである。さらに、水野氏は「われわれは、『丹後国風土記逸文』の文を通して馬養の記録した浦嶼子伝説を考察するに当っては、まずその表現における神仙思想による飾文を除去して、後に残される伝説の原型を推定した上で研究をするという手続きをとることが必要なのである」(p75)と結んでいる。

水野氏は、土地に伝承されていた物語は、馬養によって改作されたというのである。確かに、「逸文」を読んで思うのは、描写された内容からは土地に根ざした匂い、地域性が全く感じられない。「蓬莱山」を筆頭に、全編に古代中国・道教を基底にすえた神仙思想の影響が色濃く反映されている。水野氏の見解の拠り所は、だれもが抱くであろうこうした印象に立脚したものであろう。とはいえ、「神仙思想による飾文を除去して、後に残される伝説の原型を推定した上で研究をするという手続きをとることが必要なのである」という断定は無条件に受容しうるものであろうか。水野氏は、伝説の原型と、それに手を加え馬養が創作した内容との間には、どの程度の変質があると想定しているのであろうか。原型とは似ても似つかぬものに変わってしまったとしたら、水野氏も馬養を「原作者」と認識していることになるのであろうか。

伊預部馬養連によって「伝承」、あるいは「創作」された「浦島説話」を読み解くには、馬養という人物が重要な鍵を握っている。作品に織りこまれた作者の隠された意図を探るには、彼自身への深い洞察と飽くなき探究心が求められるだろう。彼が生きた時代、当時の国際情勢と国内の政治状況、彼が担わされた歴史的役割と使命、彼を取り巻く人間群像、また、彼の人生観、価値観、人間観といったトータルでの人格に思いをいたし、そうした要素を一つひとつ丁寧に紐解きながら、深く想像する努力を傾注し続けなければならないのだと思う。

水野氏の見解は傾聴に値するとは思う。だが、仮に、水野氏が指摘するように、馬養の「漢文学に対する教養があり過ぎ」たことが災いしたとして、そのことによって丹波の地に古くから伝承されていた説話を地域性を全く無視した内容に変質させてしまうものであろうか。本当に原型が既に存在していたとしたら、むしろ、彼の教養と素養はそれでもなお土地の匂いを残すような内容に仕上げることができたのではないだろうか。地域性を全く無視するような乱暴なことをする必要もなかったはずである。

丹波の地方に古くから伝承されていた物語という設定のもと、馬養自身が一つの“作品”として創作した、というのが本論の立場である。

むすび

「浦島説話」は未だ未解決の課題を残している、と本論は考えている。伊預部馬養連を「採録者」とみるか、「原作者」とみるかという問題を含め、原型の内容を知る手掛かりとして始原の史料・三書のうちで最も重要な『丹後国風土記』「逸文」にも克服しなければならない課題が残されている。この内容については、本ホームページ「「浦島説話」研究」の項に「「逸文」の二段構造をどのように分析、解釈するか」として設けている。

伊預部馬養連が「原作者」とすれば、雄略朝の御世に生きたとされる説話の主人公「水江 浦嶼子」なる人物の実像をどうとらえるべきなのか。この問題も重要な研究課題となる。

いずれにしても、1300年以上の時を隔てた昔話とはいえ、「浦島説話」は今も大きな謎を残したまま我々の眼前に立ちはだかっている。この謎の解明こそが古代史研究のもつ大きな魅力の一つにほかならない。

「浦島太郎」の出身地

「浦島説話」について触れた『丹後國風土記』「逸文」によれば、主人公は丹後國「與謝郡日置里筒川村」に住む人物であると記されている。『日本書紀』「雄略紀22年7月条」には「丹波國餘社郡管川」の人とある。「浦島説話」の原作が誕生したのは西暦700年前後のことであるが、残念ながら、現在、私たちは「原作」それ自体を手にすることはできない。が、原作内容を知る手掛かりとなる史料が残されている。『日本書紀』、『万葉集』、『丹後國風土記』「逸文」の三書で、「浦島説話」を伝える始原の三書と位置付けられている。三書の中では、風土記・逸文が最も詳しく説話の内容に触れている。

「浦島太郎」の人となり

丹後の國與謝郡日置里筒川村に住む主人公は「人夫」であると「風土記・逸文」は伝える。つまり市井の人物であると。そして、彼は「日下部首等先祖」であり「姿容秀美、風流無類」と表現されている。男前で粋な人物であったと「逸文」は記すのである。

「浦島太郎」の本名

「浦島説話」の主人公の名前はと問われれば、「浦島太郎」と答えるのが定番である。しかし、この名前は室町時代に成立した御伽草子によって初めて登場した名前である。始原の三書では、主人公の名前は「筒川嶼子」「水江浦嶼子」「水江浦嶋子」あるいは「水江浦島子」などと呼ばれている。『丹後國風土記』「逸文」によれば、筒川村に住む「筒川嶼子」という人物をいわゆる「水江浦嶼子」のことをいうとし、両者を同一人物としている。また、「逸文」は漢文で書かれた前段と万葉仮名を中心として書かれた後段と二段構造を成しているが、後段では「美頭能睿能 宇良志麻能古」と万葉仮名で人名を表記している。つまり、「ミズノエノ ウラシマノコ」と読んでいる。「浦島説話」の主人公の本来の名の読み方を示しているのである。

二つの名前を持つ男 「浦ノ嶼子」と「浦嶼ノ子」

「浦島説話」を伝える「逸文」は、漢文で書かれた前段と、万葉仮名を中心とした後段の二段構造を成している。前段では、主人公の名前は「浦嶼子」となっている。後段では、主人公の呼び方が万葉仮名で「宇良志麻能古」と記されている。つまり、「浦嶼ノ子」と読ませている。ところが、前段では、主人公は元々丹後半島與謝郡日置里筒川村に住む「筒川嶼子」なる人物が所謂「浦嶼子」と同一人物であると語っている。そして、前段では「嶼子問曰、・・・」「嶼子復問曰、・・・」「嶼子語・・・」といった具合に、主語を嶼子としている。嶼子が名で、筒川あるいは浦が姓という書き方なのである。前段では「浦ノ嶼子」と読ませ、後段では「浦嶼ノ子」と読ませるという矛盾した書き方がなされている。そのため、前段と後段では成立時期それ自体異なるといった見解もある。だが、後段でも「嶼子・・・」という書き出しの漢文も挿入されている。主人公は二つの名前を持っている、ということができるが、「浦ノ嶼子」に分がありそうである。名前の問題も一つの謎として残されている。

「水」と縁の深い主人公の名前

「水江浦嶼子」なる人物が実在したか否かという議論は別として、主人公の名前は字義に沿って解釈すると非常に興味深い意味を含んでいることがわかる。「水」は五行を構成する要素の一つで、「江」は海や湖などが陸地に入り込んでいる場所である。「浦」には海辺や波の静かな入り江といった意味がある。「嶼」は島嶼の嶼で、大きな島に対する小さな嶼、二つの文字は対を成す語である。「浦」も「嶼」(「嶋」「島」)もいずれも海、つまり水と密接に関係している。また、十二支の第一である「子」は、五行思想では「水」にあたる。さらに、「水江」は、「逸文」後段に万葉仮名で「美頭能睿」と読み方が記されているが、十干で「壬」は水の兄(え)である。「子」と十二支との相関のように、水江=ミズノエ=壬という十干との照応すら想定できるのである。それだけではない。「浦」は表に対する裏、陰陽思想に照らせば「陰」とも照応すると推論することもできる。つまり、主人公の名前には、陰陽五行、十干十二支を意識した原作者の意図を感じさせるのである。穿った解釈をさせるほど、説話の主人公の名前からは深い含意が汲み取れるのである。

み・ず・の・え・の う・ら・の・し・ま・こ(水江 浦嶼子)

「浦島説話」の主人公「水江 浦嶼子」なる人物は、果たして実在の人物なのか、あるいは架空の人物なのか。厳密にいえば、未だに両論が並存しているといえるのであろう。本論は「水江 浦嶼子」は伊預部馬養連が易(陰陽)・五行、讖緯思想の哲理を核に据えたうえで創作した架空の人物であるとみる立場である。

その根拠の一つとして、「逸文」の前段と後段にみられる主人公の名前の読み方の相違について指摘したい。「逸文」によれば、主人公は「丹後国与謝郡日置里筒川村」に住む「人夫」で「日下部首等先祖」にあたる「筒川嶼子」とい人物であり、彼がいわゆる「水江浦嶼子」のことであるとする。つまり「嶼子」を名とする書き方をしている。事実、文中に「嶼子」を主語とする文章が14箇所ある。明らかに名が「嶼子」であるという記述の仕方をしているのである。

「逸文」は漢文で書かれた前段と万葉仮名を中心として表記された後段の二段構造を成している。ところが、後段では主人公の名前が「美頭能睿能 宇良志麻能古」と書かれ「みずのえの うらしまのこ」と読ませている。この相違が、前・後段で成立時期を異にするとみる根拠の一つともされている。ところが、後段にも「嶼子」を主語とする文章が含まれているのである。このことをどう分析解釈するか。本論は、作者が、主人公を架空の人物であることを仄めかすためにあえて二種類の読み方を用意したのではないかと考える。二重の読み方を織り込み含意をこめたとみるのである。

架空の人物という前提に立って、水・江・浦・嶼・子の五文字の字義についてみてみたい。五文字のうち、水・江・浦・島の四文字が水に関係していることは自明である。「子」は男子の敬称、あるいは尊称といった意を含む。子(ね)は十二支の第一にあたる。また、五行思想に照らせば「水」を象徴する。つまり、五文字は全て水に関係する文字なのである。そして、水江=ミズノエは、「壬」に通じる。「壬」は十干の第九で、五行では「水の兄(え)」で癸(水の弟)とともに「水」に属するのである。水江と浦嶼子とは、十干と十二支の組み合わせによって「水気」を畳み込んでいるともとれる。さらに、「み・ず・の・え・の」という五音は、あたかも水の理尽くしの「浦嶼子(う・ら・の・し・ま・こ)」の枕詞を想起させる語感を伴う。

主人公の名前と神仙思想

説話を伝える始原の三書には神仙思想の影響が色濃く反映されているが、「浦嶼子」という名前にも留意したい。『抱朴子』は自ら山中に籠って仙術を修めたという葛洪が著した神仙を得るための書である。彼が活躍したのは西晋から東晋の時代にかけてであるが、遡ること、中国漢代には「韓湘子(かんしょうし)」や「赤松子(せきしょうし)」といった代表的な仙人がいる。説話と神仙思想という観点からみると、「浦嶼子」という名からは、やはり原作者の深い含意を感じるのである。

めでたくも尊き御名前

『日本書紀』が伝える「浦島説話」では、主人公の名前を「瑞江浦嶋子」と記す(坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 日本書紀(上)日本古典文学大系67 497頁 岩波書店 1937年)。「水江」ではなく「瑞江」である。同書は「記事の成立は持統朝以後であろうか」(p497)としている。このことは、伊預部馬養連を原作者とする「説話」成立を文武朝初頭の698年前後とみる水野祐氏の見解とも合致する。さらに同書は「浦島子の物語は釈紀、述義所引丹後風土記逸文と万葉1740の長歌が最古。本条は前者と、より関係が深い」(同)とも記す。拙論(『「浦島説話」と易(陰陽)・五行、讖緯思想』東アジアの古代文化119号 2004年春 大和書房)で、「逸文」の二段構造の意味は、馬養が讖緯思想を前提に、前段で「五色亀」によって、瑞祥を、後段は「風」と「雲」で災異を表現したものとみる(p137)、と解したが、「逸文」と関係が深い『日本書紀』の記事で主人公の名前を「瑞江浦嶋子」と記していることに注意を払いたい。「瑞」には、天が善政に感応して下すめでたい兆(しるし)の意が含まれる。「瑞祥」の瑞なのである。五行思想で、「水」は尊貴性を象徴するシンボルであるが、「水」にせよ、「瑞」にせよ、この文字を名に冠した主人公は、めでたくも尊き御名前の方といえるのである。
『日本書紀』が伝える「浦島説話」(坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 日本書紀(上)日本古典文学大系67 岩波書店 1937年)には次のような記述がある。「丹後風土記に「筒川嶼子・・・斯所謂水江浦嶼子」。本条では下文に浦島子。筒川の属する与謝半島東部の伝承では島子といい、水江という湖のある与謝半島西部の伝承では、本条や万葉と同じく浦島子、浦島という。いずれにせよ、この伝説のために水・江・浦・島を続けて作った名」(p497)とある。末尾の「この伝説のために水・江・浦・島を続けて作った名」という記述に充分な注意を払いたい。四字は、全て“水”に深く関わる文字なのである。

「婦人」「女娘」「神女」

「浦島説話」の“原作”が投げかける研究課題は多岐に及ぶ。

本ホームページ(「浦島説話」研究 Ⅴ「浦島説話」と時空論)で時間論という観点から考察しているが、この説話には直線的時間と円環的時間という性質を異にする二種類の時間に関わる記述が織り込まれていると、本論は考えている。いわば、前者は歴史的時間、後者は神話的時間とでも表現できようか。人間は本来、両方の時間を手にしているが、後者の時間感覚を自覚する機会は極めてまれである。この説話が語る内容には、宗教経験を含む無意識の体験がベースとなっているとみるのはそうした理由からである。

ここでは、「逸文」の記述をもとに、存在の二重性(両義性)という問題について考えてみたい。

主人公は大海原で「五色亀」を釣り上げる。奇異と思いつつも船の中に置いてつい寝入ってしまう。すると、亀は「婦人」と化している。

説話中、主人公と結ばれる女性は「婦人」「女娘」あるいは「神女」と三種類の表現で書き分けられている。因みに、「婦人」1回、「女娘」16回、「神女」3回となっているが、当然、全て同一人物を指している。

水野祐氏は『古代社会と浦島伝説』で、「逸文」末尾の部分(後段)の万葉仮名を中心に表記された箇所は、前段と比較し、内容に大きな相違があり、両者の整合性が取れておらず、後段は後世に書き加えられ潤色されたという見解を示している。その根拠と理由については本ホームページ(「浦島説話」研究 Ⅳ“近代主義”の見えざる呪縛力)でも詳しく検討しているので参照して欲しい。水野氏の論拠は、論理的、合理的整合性に重きをおいている。つまり、近代主義に基づいた世界観を基準に据えて分析しているといえよう。

しかし、この説話自体、元来非論理的な構成となっている。異界は大海原(海中か海上かは判断が分かれる)が想定されるのであるが、「一太宅之門」で出迎える人たちの中に西方七宿に位置する「昴星」と「畢星」が登場する。また、「女娘」も自身が「天上仙家之人」であると語る。つまり、原作者は、主人公を大海原と天界とを自在に往来させているのである。作者が「故郷」と「一時」という記述によって、「顕界」と「霊界」という二つの世界を象徴的に対比させたように、「婦人」「女娘」「神女」と書き分けているのもそれと同義と解すべきであろう。作者は実に巧みな表現方法を駆使しているのである。二つの世界を自在に往来させているのであるから、描写は必然的に非合理な内容となる。換言するなら、登場人物は、生者であると同時に死者(異界に住むという意味で)でもあるといえるのである。

女性の呼称の三種類の書き分けは、やはり作者の深い含意が込められていると考えるべきである。

(2010年7月17日)

「玉匣」

本論は、「逸文」中の記述「一時」の解釈を踏まえ、「玉匣」との関係性について考察している。詳しくは本ホームページ「浦島説話」研究・「説話」研究の分岐点 Ⅲ「「一時」と「玉匣」の象徴的意味」を参照してほしい。両者は「円環的時間表象」という要素を共有していると考えている。

「浦島説話」といえば「玉匣」、つまり玉手箱は欠かせない。

秋本吉郎校注『日本古典文学大系2 風土記』(岩波書店 1958年)には「浦嶼子」(pp470~477)に「玉匣」の注が記されている。「玉飾りのある櫛(化粧用具)の箱の意から、女性の持つ手箱。いわゆる玉手箱。霊性のある神仙女との結合を可能にするタブーの箱。下文によれば、神仙としての浦島の霊性(不老不死)を斎い込めた箱の意に解し得る」(p473)とある。

玉手箱といえば、当然手のひらに乗る大きさがイメージされる。文中の「女娘、玉匣を取りて嶼子に授け」あるいは「堅く匣を握りて」という記述からもそのようなことが容易に想像できる。しかし、本論は、高松塚古墳やキトラ古墳の石室に描かれた象徴的な図絵は「一時」の象徴的意味と密接に結びついているという考えをもっている。おそらく馬養は、当時の葬送儀礼などにも深く影響を与えた人物であったと思われる。彼は説話を構想するにあたり、当時築造された石室と「玉匣」とを心像イメージとして重ね合わせていたと想像する。それを神女の手のひらに乗せたのである。前述の注記にある「神仙としての浦島の霊性(不老不死)を斎い込めた箱の意に解し得る」という見解は、「一時」=「玉匣」という解釈と矛盾するものではないと考える。

7世紀末頃(持統、文武朝期頃)に築造された古墳の石室と「玉匣」とを密接に結びつける本論の見解が合理的整合性を有するなら、このことを馬養=原作者説の根拠の一つとしたい。

(2010年8月16日)

本論は、『丹後國風土記』「逸文」中の「一時」を分割し得ない円環的時間表象と同義の象徴表現と解する立場である。「一時」の「一」は全てを内包するという意を含み、無限、十全性の象徴でもあると理解する。

また、藤原宮時代に築造された可能性の高い高松塚古墳やキトラ古墳、とりわけ後者の石室内四方に描かれた十二支像がやはり円環的時間表象と結びつくという認識をもっている。馬養は当時の葬送儀礼、あるいは古墳の設計思想などを深く理解していたであろうし、むしろ築造に際して影響を与えた可能性すらある。

武田祐吉編『風土記』(岩波書店 1937年)には、「玉匣」の注記として次のようにある。

「たまは霊魂を意味する。霊魂を斎ひ鎮めた箱で、人の魂の遊離することを防ぐのである」(p301)。

一般に「玉手箱」と称される「玉匣」は、貴重なものを入れるのに用いられ、漢代には帝王の葬具であった(『大漢語林』p926)。

本論は、「玉匣」について、原文が成立した当時の葬送儀礼等を参考にし、その頃築造された古墳の石室を心象イメージとしつつ描写した表現と解しているが、「一時」「円環的時間」「無限」「霊魂」といった要素は相互に関係性を持つものと考える。

(2010年8月21日)

「浦島説話」の原作者

この説話の原作者は伊預部馬養連(いよべのうまかいのむらじ)である。彼は、持統、文武両朝の治世に活躍した官人で、皇太子学士や書物編纂官である撰善言司などを務めたほか、天武帝の皇子である刑部親王や藤原不比等、薩弘恪らと「大宝律令」の撰定にも参画した。律令制度という国家の大綱作りにも関わった彼は、漢籍に通暁した当時第一級の文人でもあった。

「浦島説話」と雄略朝

「浦島説話」の原作が成立したのは文武朝治世初頭の700年前後のこととされているが、『丹後國風土記』「逸文」によれば、「長谷朝倉宮御宇天皇御世」のことと記している。『日本書紀』は「雄略紀」22年7月条にこの説話について収載している。西暦換算すれば478年ということになる。原作者は、この説話の端緒を雄略朝の御世に求めているのである。原作が誕生した時代からさらに220年以上も遡ることになる。原作者・伊預部馬養連は丹後國分置以前の丹波國の時代に国宰として赴任しており、その時に土地に伝承されていた話として採録したといわれている。

「五色龜」と「大龜」

『丹後國風土記』「逸文」によれば、主人公「水江浦嶼子」は一人「小船」に乗って漁に出たものの「三日三夜」「一魚」の収穫もなかったが、そのとき、「五色龜」を得たのであったと記す。『日本書紀』には、「水江浦嶋子」が「舟」に乗って釣りをしていると、遂に「大龜」を得たとある。五色といえば、一般には青・赤・白・黒・黄の五種の色を指すが、これは五行思想を連想させる。五行思想では、方位と四季と五色は対応関係を有する。東方は青で春、南方は赤で夏、西方は白で秋、北方は黒で冬、中央は黄を象徴する。鶴は千年、龜は万年という寿ぎの言葉があるが、龜(亀)は不老長寿の神仙道教と深い結びつきをもつ。因みに、『万葉集』巻九に収載された「浦島説話」に「龜」は登場しない。

「天上仙家之人」

『丹後國風土記』「逸文」によれば、主人公は釣り上げた「五色龜」を手に奇異な感じを持ちつつ船の中に置いてしばらく寝ている間に、「五色龜」は「婦人」に変身していたのである。嶼子と婦人(「女娘」)の間で言葉が交わされ、「女娘」が「天上仙家之人」であることがわかる。『日本書紀』も「大龜」は「女」に変身する。龜と女性を同体視している点は、「逸文」、『紀』とも共通している。一方、『万葉集』には「亀」は登場しない。大きな相違である。もっとも、『万』は作者を異にし、成立年も異なる。しかし、「天上仙家之人」の記述にもあるように、始原の三書に共通するのは、この説話に神仙思想の影響があるという点である。

「蓬山」と「蓬莱山」

「浦島説話」を伝える始原の三書に神仙思想の影響がみられることについて触れたが、主人公と「神女」(「逸文」)は「逸文」では「蓬山」、『紀』では「蓬莱山」へと赴いている。「蓬莱山」は『史記』「秦始皇本紀」に不老不死の神仙が住む地で東海中にある三神山の一つとある。三神山とは、「蓬莱」「方丈」「瀛洲」の霊山である。「浦島説話」は丹波の地に伝承されていたという設定が成されているが、主人公が神女と赴く異界が古代中国の伝説の地であることを含め、始原の三書を読む限り、丹波・「與謝郡日置里筒川村」という特定の地域に限定する確かな手掛かりを得ることはできないのである。説話の内容自体からは、土地の匂いを嗅ぎ取ることは全くできないのである。

「蓬莱山」

「浦島説話」の主人公・水江浦嶋子が訪れた世界は蓬莱山(『紀』)。不老不死の仙人が住む蓬莱山は、方丈、瀛洲と合わせて三神山と称される。渤海沖に存在すると信じられていた。秦の始皇帝が徐福に命じ、童男童女数千人を引き連れて三神山に向かわせたことが知られている。『丹後国風土記』「逸文」では「蓬山(とこよ)」、『万葉集』では「常世(とこよ)」とある。

「龜比賣之夫」

『丹後國風土記』「逸文」によれば、仙界に赴いた主人公と神女は、「昴星」(七竪子)と「畢星」(八竪子)の出迎えを受ける。その際、彼等は互いに「龜比賣之夫」だと呼びかける。「神女」は「龜比賣」であり、主人公はその「夫」であるとみなしているのである。その後、「神女」(「女娘」)の「父母」も出迎える。

「夫婦の理」

『丹後國風土記』「逸文」によれば、仙界で「兄弟姉妹等」の歓待を受けた主人公は、歌や舞に夢見心地の時を過ごす。やがて日も暮れ、艶やかな宴を終えて、参加者たちは三々五々席を立ち、「女娘」と主人公は二人きりになる。肩を寄せ合い、袖を交えた二人は「夫婦の理」を成す。『日本書紀』では、女性と化した大龜を、浦嶋子は感じて婦となす(「感以爲婦」)という記述で表現している。『万葉集』では、「海界」で偶然に「神之女」と出会った「浦島子」は意気投合し、互いに求め合い、常世に至った(「相誂良比 言成之賀婆 加吉結 常代」)とある。始原の三書とも、性的なモチーフについて触れている。

「一時」

「易の時間論は、どのような宇宙観・自然観と結びついているのであろうか。そしてそれは、今日において、われわれに何か意味のある重要なことを教えてくれるのだろうか。問題のポイントは二つある。一つは、時間と空間の関係がどのようにとらえられているか、ということである。そしてもう一つは、人事と自然、つまり人間界と自然界の関係をどのようにみるかということである。・・・易の卦は本来、人事と自然の両方を占うという基本的性格をもっているからである。時間―空間の関係から考えることにしよう。これは神学者のポール・ティリッヒによって知られるようになったことであるが、古代ギリシャには時間について二つのちがった見方があった。一つはクロノス、もう一つはカイロスである。クロノスはふつういう意味の客観的な時間つまり物理的時間である(ギリシャ神話では、クロノスChronosは農業神で、季節の変化を司っている)。われわれは時間を知ろうとするとき、外界の物理的状態の変化を手がかりにする。たとえば、太陽の位置がどれだけ変わったか、時計の針は今どこを指しているかといった感覚的に認識できる空間的事物の状態を観察して、どれだけ時間がたったかということを知る。これは時間の量quantity(数量的に表現できる時間の長さ)を測っていることである。科学が自然現象の性質や法則を知ろうとするときには、こういう客観的な時間を用いる。ベルグソンは、このような時間を「空間化された時間」である、と言っている。彼がこういうことを言ったのは、過去―現在―未来と流れる時間は、もともと心が記憶や想像を用いて感じるものであるからである。その意味では、過去と未来はわれわれ人間が設定した区別であって、心と物を分けて考えるかぎり、外界の物質それ自体の中にあるわけではない、と考えなければならない。・・・身体の感覚器官だけでは過去や未来を知ることはできないからである。ベルグソンは、この場合、心から分離された身体の存在の極限状態として「純粋知覚」を想定したのであるが、逆に、身体から分離された心の存在の極限状態として、「純粋持続」duree pureを想定する。それは、現在の中に過去と未来が織りこまれて流れているような(心の)時間である。心理学的にみれば、これはユングが考えた意識―無意識の構造と同じである。・・・カイロスKairosとは何を意味するのか。・・・クロノスの時間が物に即して数量化される量的時間であるのに対して、カイロスの時間は質的であって数量化できない。それは、主体が心において感得する時間である。さしあたり、心理的時間といってもいいであろう。しかし、おそらくそれは単に心理的な時間にとどまらない。中国医学の伝統的見方では、心と身体のはたらきはー生きているかぎりー分離できないからである」

湯浅泰雄 共時性の宇宙観―時間・生命・自然― pp137~141 人文書院 1995年

湯浅氏は「易の時間観がカイロスの時間にもとづいていることは明らかである」と指摘したうえで、「中国の格言に「人ハコレ一箇ノ小天地ナリ」というように、小宇宙としての人間は大宇宙のはたらきと調和して生きるところに、その本来の姿がある。易は、人間は自然の内部にいて、そのはたらきを受けることによって受動的に生きている、という人間観に立っている。言いかえれば占いは、人間が自然の内部にいて、そのはたらきを受けて生かされている存在であるから可能になるというのである」と語っている(p142)。

「浦島説話」を伝える始原の三書に共通して看取される神仙思想は道教の中核をなしている。道教は、道(タオ)の不滅と一体になることを究極の理想としている。それは易でいう陰陽合一の太極である。不老不死の神仙なる観念は、そこに根ざしている。「逸文」にみえる「意等金石、共期萬歳、何眷郷里、棄遺一時」という箇所の「一時」は「たちまち」「一瞬」といった意味に解釈されている。しかし、この説話が易の哲理を背景にして成立しているとみる立場からいえば、「一」なる時と解する。男女交合の性的モチーフを陰陽統合の太極の象徴表現とみる根拠でもある。

易の哲理に通暁していた馬養は、決して数量化することなどできない質的時間としての象徴表現として「一時」と記述したと考える。「一」なる時は、現在・過去・未来が未分の状態として溶け合っている、たましい(Psyche)が感得する聖なる時として解せると思うのである。

「天地」と「日月」

『丹後國風土記』「逸文」には、「嶼子」は女性に変身した「五色龜」が「神女」であることを認識し、その事実を受け入れる。そして「神女」は「嶼子」と共に「天地と畢(を)え、日月と極まらむ」(共天地畢、倶日月極)ことを欲する。「天地」、あるいは「日月」は相反する二つのシンボルであるが、この記述には、二つの事柄は対立しつつも同根とする易(陰と陽とは共に相対的な関係性を有する)の哲理の影響を汲み取ることができる。易の哲理によって「永遠」を象徴的に表現しているのである。

「神仙の堺」

「浦島説話」を伝える始原の三書は、いずれもこの説話が神仙思想と深い結びつきをもっていることについて触れている。『丹後國風土記』「逸文」には、「天上仙家之人」「蓬山」「等許餘(常世)」「仙都」のほか、「神仙の堺」と「神仙」の文字を用いてもいる。また、『日本書紀』では「蓬莱山」「仙衆」、『万葉集』でも「不老不死」「常代」「永世」といった記述が見られる。

「三歳」と「三百餘歳」

『丹後國風土記』「逸文」によれば、「神仙の堺」という異界を訪問した主人公は、夢心地の中で故郷への思いもすっかり忘れ「三歳」の歳月を過ごしたのであった。しかし、気がつくと望郷の念絶ち難く、日増しにその思いは強くなり、帰郷することを願うようになる。「神女」は別離を惜しみながらも、やがて、二人は別れの時を迎える。こうして、故郷に戻った主人公であったが、周りの景色は一変し、すっかり様子が変わってしまっている。「郷人」(村人)に尋ねてもわからない。「古老等」に聞いてみると、「先世」(はるか以前)、「水江浦嶼子」という人物がいたが、一人で海に出たまま帰ることなく、すでに「三百餘歳」が過ぎてしまっている、という。主人公は、事実を受け入れられず、茫然自失の状態に陥ってしまうのである。異界での三年は、現世での三百年余りに相当することになる。

「浦島説話」原作成立時期

この説話の原作が成立したのは西暦700年前後のことである。おそらく697年から701年頃の間と思われる。当時は暦に対する関心が一段と高まった時期でもある。690年(持統4)、それまで使用されていた元嘉暦に加え、新たに儀鳳暦を併用する勅が出された。文武天皇が即位した697年8月1日の暦日は、『続日本紀』によれば儀鳳暦に基づいている。以降、暦日表記は全て儀鳳暦による。つまり、「浦島説話」の原作は儀鳳暦が単独で用いられ始めた頃に成立したのである。

瑞祥と災異の讖緯思想

緯書は、前漢末から後漢の頃にかけて形成され流行した。この内容は、緯と讖とに大別することができる。儒教の根本経典に『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』の五経がある。経と緯の関係は一枚の織物にたとえられることが多い。「たて糸」を意味する経に対し、「よこ糸」を意味する緯は、相互に補完し合う関係性を有しているためである。両者をより合わせることで初めて一枚の布ができあがるように、経の内容を補足するものが緯書とされる。「経書の内容に沿った解釈書が緯」、「天文占などの未来予言書が讖」であり、両者を合わせて緯書、あるいは一般的には「讖緯」といわれる。(安居香山 緯書と中国の神秘思想 p23 平河出版社 1994年)緯書と讖緯は同義である。古代中国の予言説である讖緯思想は陰陽五行説に基づいている。「浦島説話」の原作者・伊預部馬養連はこの思想哲理に通暁していた。「逸文」に登場する「五色龜」、『日本書紀』の「大龜」は、いずれもこの思想と密接な関係性をもっている。

二段構造

『丹後國風土記』「逸文」が伝える「浦島説話」は、漢文で書かれた前段と万葉仮名を中心として書かれた後段の二段構造を成している。後段の万葉仮名の表記によって主人公の名前の読み方がわかるのである。「水江浦嶼子」は「美頭能睿能 宇良志麻能古」と表記され、「ミズノエノ ウラシマノコ」と読むことがわかる。前段と後段では、内容に大きな隔たりが感じられ、そのため、両者は成立した時期を異にするといった議論もある。

自然現象と生命原理

「雲」

古代人にとって、自然現象と生命原理とは非常に深く結びついていた。例えば「雲」であるが、これは死と密接に結びついたイメージをもたれていた。『万葉集』巻3・416番歌には「ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」という歌がある。同じく428番歌に「隠口(こもりく)の泊瀬の山の山のまにいさよふ雲は妹にかもあらむ」という歌がある。両歌とも「雲」は、人間のたましい、霊的なもの、あるいは死を象徴的に表現している。天空にぽっかりと浮かぶ雲は時々刻々と姿形を変え、やがてはかなく消え行く。その様相に生命原理との同一性を感じとっていたのであろう。古代人にとって、自然現象と生命原理とは相即不離な一体感をもって捉えられていたのであろう。

「風」

風という自然現象もまた生命原理と深く結びついていた。たとえば、「水を得るを上とし、風を蔵するはそれに次ぐ」風水理論では、家宅を陽宅、埋葬地を陰宅として区別するが、陽宅では「風を蔵する」、つまり日常の生命活動においては風をおさめることが要諦である。「浦島説話」を伝える始原の三書のうち、『万葉集』では、主人公の死の描写に「氣左倍絶而」という記述がある。この箇所は、息が絶える意であるが、感じ取ることはできるが不可視なもの、という意味では「氣」と「風」はいずれも目に見えない霊的なものである。「逸文」後段に万葉仮名で書かれた「加是布企阿義天、久母婆奈禮」という箇所がある。突風が巻き起こり、雲が切れ切れに離れる様子が描写されている、というのが一般的な理解である。この箇所を暗喩や寓意といった象徴表現とみるなら、「風(加是)」と「雲(久母)」という文字を用いて主人公を取り巻くのっぴきならない状況を表現することもできるのである。

古典としての「浦島説話」

「源氏物語千年紀よびかけ人」(千 玄室代表)、「源氏物語千年紀委員会」(村田純一会長)は新聞紙上の「古典の日宣言」中で、「古典」の概念について次のように触れている。「古典とは何か。風土と歴史に根ざしながら、時と所をこえてひろく享受されるもの。人間の叡智の結晶であり、人間性洞察の力とその表現の美しさによって、私たちの想いを深くし、心を豊かにしてくれるもの。いまも私たちの魂をゆさぶり、「人間とは何か、生きるとは何か」との永遠の問いに立ち返らせてくれるもの。それが古典である」(2009年3月19日付 産経新聞 18頁)。『源氏物語』で「物語の出で来はじめの祖なる竹取の翁」と評された『竹取物語』は9世紀末頃の成立とされているが、「浦島説話」の原作が誕生したのは、それを遡ること200年余りである。原作それ自体は、残念ながら残されていないが、説話の原作内容を知る手掛かりとなる『日本書紀』、『万葉集』、『丹後國風土記』「逸文」という始原の三書は、日本文化を理解する手掛かりとしての第一級の史料であり、古典であることは間違いない。

説話の伝来時期

「浦島伝説は恐らく6、7世紀頃に濫觴(らんしょう)し、今日に至るまで諸種の文献や昔話の形式で、書きつぎ語り伝えられてきた、かなり息の長い説話である」(重松明久 浦島子伝(オンデマンド版) 105頁 現代思潮新社 2006年)。始原の三書のうち、『日本書紀』と『丹後國風土記』「逸文」の二書が出来事を雄略朝の治世としている。この説話の伝承時期を「6、7世紀頃」とみる根拠の背景にあるのは、おそらく「雄略朝治世」を踏まえ、「旧辞」の内容などを基に成立したとみていると思われる。雄略朝を古代の画期とみる歴史認識は、『万葉集』巻一の巻頭を飾る歌が雄略天皇御製であるとすることからもうかがえる。「浦島説話」の原作者・伊預部馬養連は、丹波國宰として赴任していた時に、土地に伝承されていた内容を基に説話をまとめた、というのが一般的理解である。

地名と行政区画名

『丹後國風土記』「逸文」は書き出し部分で主人公の出身地について「丹後國風土記曰、與謝郡。日置里。此里有筒川村」と触れている。「浦島説話」が編纂され『丹後國風土記』に収載された期間は、行政区画名という観点から絞り込むことができる。『風土記』撰進の詔勅が出されたのは713年(和銅6)5月2日(『続日本紀』)である。国・郡・里という呼称は7世紀末、おそくとも702年(大宝2)の「大宝令」施行時には使われていたとされる。『出雲國風土記』は、715年(霊亀元)に行政区画名が改定されたことを記している。それまでの「里」は「郷」に、「郷」の下に「里」が置かれた。つまり、国・郡・里と呼称されたのは、715年(霊亀元)までということになる。とすると、『丹後國風土記』に「浦島説話」が盛り込まれたのは713年(和銅6)から715年(霊亀元)までの2年間の間ということになる。元明朝、あるいは元正朝にかけての治世である。原作成立は700年前後であるので、馬養が丹波國宰として赴任していた当時、すでに「與謝郡日置里」と呼称されていた可能性は高い。この説話誕生の端緒について、「逸文」と『紀』はいずれも「雄略朝」の治世としているが、地名の呼称は8世紀初頭の言い回しが用いられていることになる。

「日下部首等先祖」

『丹後國風土記』「逸文」によれば、「水江浦嶼子」(=「筒川嶼子」)は「日下部首等先祖」であるとされている。「日下部首」は『新撰姓氏録』によれば、和泉国の皇別で、第9代・開化天皇の子、彦坐命の子孫にあたり、日下部宿禰と同祖とされる。伊預部馬養連が丹波國宰を務めていたのは7世紀末で、当時、任地で説話伝承を耳にし、それをもとに「浦島説話」を書いたということになっている。日下部首は、雄略朝に生きた主人公の後裔氏族にあたることになる。しかし、作中には「日下部首等先祖」とあり、必ずしも「日下部首」に限定しているわけではない。こうした背景について、重松明久氏は「一般的には筒川あたりを中心に、浦島伝説が巷間にかなり流布したのちに、やや神格化しつつあった主人公を、自家の先祖としてとり入れることにより、自家の祖先伝承の潤飾の一助としようと試みた精神の産物と解すべきであろう」と指摘している(重松明久 浦島子伝(オンデマンド版) 113頁 現代思潮新社 2006年)。5世紀末に国家統治者として君臨した「長谷朝倉宮御宇天皇(雄略天皇)」の治世に生きた主人公と、7世紀末に丹波・筒川あたりを支配した地方豪族「日下部首等」とは血脈を有するという設定が成されているのである。

日下部氏と“不可思議な呪術”

日下部氏について考へてみると、その隼人系と目される一面のある事や朝廷に対して大きな力を持ってゐる点、等からして、不可思議な呪術―すぐれた卜占の力を備へてゐたのではなからうか。この事は、「褶」や「押木珠縵」に関して前にも少し触れた。この日下部氏の場合、丹後・丹波・但馬・出石・播磨北部といふ勢力範囲の地勢からみても、漁業・狩猟を兼ね行ってゐたのであろうから、亀卜・鹿卜も行はれたと考へられる。しかし、何故に「玖沙訶」の音に「日下」を当てたのか。まだ仮説の域を出ないが、農耕技術をも知ってゐたと考へられる日下部氏は、日即ち太陽を見て占ふ、或ひは太陽の光を利用して事の吉凶を判断し又神意をただすところの卜占の術をもってゐたのではなからうか。かの弟日姫子が大伴狭手彦から鏡を贈られてゐる事は、太陽と関聯してみて日下部氏の性格の一面を象徴するものと思はれる。

福島千賀子 浦島説話の成立試論(下) p68 國學院雑誌 1960年)―№25

福島氏は、日下部氏が亀卜や鹿卜といった呪術を実践していた可能性について触れている。

また、「玖沙訶」の音に「日下」を当てた背景には、「日」=「太陽」の関係性に基づいた何らかの呪術との関連性についても言及している。

「浦島説話」を伝える丹後風土記「逸文」では、この説話の舞台は「与謝郡日置里」とされている。「日下部」氏が太陽と関係するとするなら、「日置」もまた、そのことと何らかの関連を有すると思われる。福島氏は「日下部氏は、日即ち太陽を見て占ふ、或ひは太陽の光を利用して事の吉凶を判断し又神意をただすところの卜占の術をもってゐたのではなからうか」という見解を示しているが、「日下部」「日置」の「日」がいずれも「太陽」と関係付けられるとするなら、呪術との関連のみならず、暦との関連にも配意するべきであると思うのである。

さらに、呪術との関連という意味では、その背景に鍛冶との関連についても注意する必要があると考える。鍛冶という作業は、物理的には「火」と「水」という相反する要素を合一させることで不壊・不朽の命を宿した刀を生み出す。この対立物との結合というモチーフは、深層心理学の重要な研究課題なのである。

「入 レ 海」の意味について

「浦島説話」というと海底にある竜宮城が思い浮かぶ。そのようなイメージが定着しているのは、明治時代の童話作家・巖谷小波の作品が大きく影響している。「鯛や平目の舞い踊り」という小学唱歌にもあるが、主人公を出迎えるのは多くの魚である。当然、海中、海の底が想定される。『日本書紀』には「相逐入 海」という記述がある。「相逐入 海」という記述について、重松明久氏は「両人が一緒に海上遥かに漕ぎ出したとの意味をもつと解すべきであろう」と指摘している。そして、漢籍の用例にその根拠を求めている。重松氏は「例えば『史記』巻6「秦皇本紀」にみえる始皇帝が斉の徐市に命じ、童男女数千人をつれ海に入り、蓬莱・方丈・瀛洲の三神山にいる仙人を求めさせたという場合の「入 海」と同趣のものである。一致する表記は、『漢書』巻25上「郊祀志」の同様の説話の場合にも用いられている。一般的に海上への航行の途についたとの意味に解すべきこと、いうまでもなかろう」と指摘している(重松明久 浦島子伝(オンデマンド版) 110頁 現代思潮新社 2006年)。説話の主人公が赴いた先は蓬莱山。とすれば、『史記』の記述との類似性は説得力を持つと思われる。「逸文」では、主人公は神女によって目を閉じさせられ、眠りにつくやたちまち「海中博大之嶋」に至る。不老不死の神仙の住む理想的な世界は、渤海沖に存在するといわれたが、渤海沖にはしばしば蜃気楼現象が現れることが知られている。おそらく、海上航行中に、遥か水平線の上に、蜃気楼現象となって浮かぶ山並みを神仙堺と想定したのであろう。『紀』あるいは「逸文」の記述にしても、遥か海の沖合いに神仙の世界を想像していたのではなかろうか。

「日置里」について

『丹後國風土記』「逸文」によれば、主人公の出身地を「與謝郡日置里筒川村」としている。『和名抄』に「日置郷」の郷名がある。「日置郷の範囲については、今・日置・世屋・野間・養老・伊根・朝妻・本庄・筒川・日ヶ谷等にわたると推測されている」(重松明久 浦島子伝 115頁 現代思潮新社 2006年)。古代の部民に日置部(ひおきべ・へぎべ)がある。『日本書紀』「垂仁紀」の伝承によれば、大刀の製作に関係した品部(しなべ)の一つとされる。『日本史広辞典』(山川出版社)によれば、日置部の「職掌は神霊を迎える聖火とその材料を調達したとする説と、武器鍛造の際の炭焼に従事したとする説が有力。この部の設置は6世紀に大和朝廷の祭祀体制が整備されたときであるという。律令時代には日置部姓の人々が出雲国に多数実在し、日置郷も西日本を中心に広く分布した。伴造としての日置氏の役割は、令制下では灯燭・炭燎などをつかさどる主殿(とのも)寮の殿部(とのもりべ)に継承された」とある(1915頁)。「浦島説話」が伝承されたとする「丹後國與謝郡日置里筒川村」という土地と、品部(しなべ)の一つ「日置部」とはおそらく密接な関係をもっていたと思われる。

説話を伝える始原の三書の特質について

「浦島伝説の最も原初的な構想は、『万葉集』の伝える如きものであり、本質的には海宮ないし竜宮伝説であるとする見解が、むしろ一般的であった」(重松明久 浦島子伝 106頁 現代思潮新社 2006年)という見解について、どのように考えるべきであろうか。久松潜一氏は、『万葉集』と『丹後國風土記』「逸文」の二書の所伝内容を比較検討し、前者に比べ後者は「支那の神仙思想によった作為の痕を十分に見得る」と指摘している(前掲書 116頁)。「浦島説話」を伝える始原の三書は、神仙思想の影響が看取されるという共通の要素をもつ。「浦島伝説は、基本的には中国伝来の神仙思想的背景に裏付けられていることは、認めなければならない」(前掲書 227頁)という指摘のみならず、この説話は、背後に易(陰陽)・五行、讖緯思想の哲理を忍ばせているとみるが、その端的な特長は、実は主人公の名前にこそあると考察できるのである。

説話原作誕生時期の問題

1872年(明治5)11月9日、「太陰暦ヲ廃シ太陽暦」に切り替える勅が出された。現在、我々の生活は太陽暦(太陽太陰暦)に基づいているが、それ以前は、「太陰」つまり「月」の見かけの活動(満ち欠け)周期に基づく太陰暦(太陰太陽暦)が長く行用されてきた。埼玉県行田市稲荷山古墳出土の鉄剣銘には「辛亥年」(西暦471年)という干支紀年が用いられている。当時の国家統治者は「獲加多支鹵大王(ワカタケル大王)=雄略天皇」の治世であった。当時行用されていた暦は元嘉暦である。『日本書紀』「雄略紀」が伝える「浦島説話」は雄略22年7月条に記されている。西暦換算すれば478年である。690年11月11日、持統天皇は元嘉暦と儀鳳暦とを併用する勅を発せられた。そして、文武天皇即位の697年8月1日をもって、暦は儀鳳暦に単独行用されることになる。伊預部馬養連が説話を創作したのは700年前後、つまり儀鳳暦単独行用時期と時を同じくするのである。

始原の三書・内容の相違

「浦島説話」の原作内容を知る手掛かりとなる史料は、『日本書紀』、『万葉集』、『丹後國風土記』「逸文」の三書である。三書に共通するのは、この説話には神仙思想の影響が看取されるという点にある。一方、大きな相違もある。まず、日本書紀と逸文には「亀」が登場する(『紀』は「大龜」、「逸文」は「五色龜」)のに対し、万葉集には亀に関する記述はない。その理由としては、作者を異にすることが指摘できる。原作者は伊預部馬養連で、彼が書いた原作内容を最も反映しているのは「逸文」である。日本書紀には「語は別巻にあり」とあり、それが馬養の原作であろうとみられている。そのため『紀』と「逸文」には「龜」が登場するのである。万葉集の作者は高橋虫麻呂である。原作内容を反映した『紀』と「逸文」に対し、『万』の作者も原作内容を理解してはいたが、大幅な潤色を加えたと想定することができる。その他にも相違がある。まず、『紀』と「逸文」は説話の舞台が「丹波」「丹後」であるのに対し、『万』は「墨吉」とある。この地は、現在の大阪・住吉あたりに比定されている。そして主人公の人物像である。「逸文」は「姿容秀美、風流無類」と記すが、『万』では「愚人」と全く相反するような人物評となっている。原作と『万』の作品とは成立した時期も大きく異にすると思われる。

「旬月」と「旬日」

本論は、伊預部馬養連が書いた「浦島説話」の原作には易(陰陽)・五行、讖緯思想の影響が色濃く反映されていると考えている。「逸文」中にみえる「旬月」あるいは「旬日」という表記に注意を払いたい。重松明久氏の『浦嶼子伝』では「逸文」原史料として「前田育徳会尊経閣文庫編刊『釋日本紀』巻一二収」を採用しているが、そこには「旬月」とある。重松氏はこれに「『万葉緯』・宇良本は日」という註を施したうえで、この箇所を「旬日(とをか)」と解している。つまり「十日」の意としている。現在、研究書の多くは「十日間」を意味する「旬日」に基づいて解釈しているといえる。

「逸文」には、浦嶼子が神女と別れて異界を離れ現世に戻ってきたときの様子が次のように描写されている。故郷・筒川の里に戻ってはきたものの、村の様子は一変してしまっている。自分の家の所在を問うてもわからない。古老たちが伝え聞いていることには、「先世」に「水江浦嶼子」という人物はいたが、独りで蒼海に遊びに行ったままずっと帰っては来ない。すでに「三百餘歳」が経過してしまっているというのだ。嶼子は途方に暮れてあたりを歩き回る。そして「旬日」が過ぎた、というのである。因みに広辞苑には「旬月」を「①一〇日間、または一ヵ月。転じてわずかの月日。②一〇ヵ月。」「旬日」を「一〇日間。一〇日ほど。」と記述している。「旬月」にも一〇日間の意味は含まれるようではある。馬養が原文に記したのが「旬月」だったか「旬日」としたかは正確には不明と言わざるを得ないが、問題は、漢数字を使わずに「旬」の文字を用いていることである。「旬」は十干のひとめぐりで、十日の意味を有する。馬養が「旬」を用いた背景には易の思想が反映されていると思われる。卜辞では「十日」を「旬」という。易の思想源流は遥か殷代にまでさかのぼる。卜旬とは「旬末の癸(き)の日に次の一旬の吉凶を卜すること」をいう(白川静 漢字百話 p49 中央公論新社 2003年)。癸は十干の第10である。本論は、易の哲理を前提に、馬養が「旬月」あるいは「旬日」と記述したと考える。

「逸文」には、“時の性質”あるいは“時間経過”に関する表記として前述の「旬日」「三百餘歳」のほか、「三日三夜」「日暮」「黄昏之時」「三歳」「常時」「萬歳」「一時」「後時」といった記述がみられるが、ここには二種類の性質の異なる“時間”が表現されている、と考える。

湯浅泰雄氏が「易の時間観がカイロスの時間にもとづいていることは明らかである」と指摘していることについて触れたが、物理的で計測可能な「時間」がクロノスであるなら、それとは性質をことにするもう一つの「時間」がカイロスである。馬養が、「クロノス」と「カイロス」の言葉を知っていたか否かは知る由もないが、易、あるいは道教の哲理に深く通じていた彼が、この説話に“二種類の性質の異なる時間”を織り込み書き分けていることは確かであると思う。「到一太宅之門」の記述の「一太」について、馬養は「太一」の読み替えを企図したと本論は解釈しているが、その根拠は、この説話が道教の中核を成す神仙思想の影響を背景にして書かれていることを指摘するとともに、「到」の文字にも注意したい。「到」には「極限に達する」という象徴的意味が含まれる。選ばれし限られた者だけが訪れることができる特別な世界なのである。また、男女交合の性的主題が易の太極の象徴表現を企図して書かれたと解釈しているが、「太一」と「太極」はいずれも万物生成の根源を意味する。宇宙原初の次元の哲学的表現ともいえる。「一時」とは、まさしく男女(陰陽)が合して得られる聖なる世界なのだと。この説話が、深層心理学の観点からみて大変興味深いのはこの点にある。

異界は光り輝く美しい世界

『丹後國風土記』「逸文」によれば、眠りに落ちた主人公は、たちまち「海中」の広大な嶋に到着した。そこは「其地如敷玉。闕臺晻映。樓堂玲瓏。目所不見。耳所不聞」という在り様だった。一面にはキラキラと照り輝く玉が敷き詰められ、これまで見たことも、聞いたこともない、想像を絶する光輝く美しい世界が広がっていた。「闕臺」とは「宮城の門の両傍に、二つの台(うてな)を築き、楼観(ものみ)をその上に設け、中央がくりぬかれた形に作られ、通りぬけることができるようにしたもの。昔、法令をこの上に掲げ、人々に示した。宮闕とか城闕ともいう」。「樓堂」は「二階建ての建物」という(重松明久 浦島子伝 18頁 現代思潮新社 2006年)。

一夜の秘め事

「浦島説話」は『遊仙窟』の影響を受けている、とみる見解がある。『遊仙窟』は唐代の伝奇小説の一つで、官命によって任地に赴く主人公が、知らず知らずのうちに仙境に足を踏み入れ絶世の美女と巡り会い、幻想的な世界の中で官能的な一夜を共にするという物語。重松明久氏は、「仙境の表現」「主人公の容姿」、感情表現など、『遊仙窟』と「逸文」との類似性について両書を比較しながら考察を加え「大局的にみて同一轍といえよう」とし、「『風土記』は、『遊仙窟』のみでなく、『文選』よりも或る程度ヒントをえたのではなかろうか」と指摘している(重松明久 浦島子伝 211~212 現代思潮新社 2006年)。仙境と男女交合というモチーフは、「浦島説話」と『遊仙窟』とに共通することは確かである。「文武天皇在位年間頃日本に伝わったと思われる」(前掲書 210頁)とするなら、文武朝初期の700年前後に成立した「浦島説話」に影響を及ぼした可能性に意を配る必要があるのではなかろうか。

道教の修行法と古代人の生命観

「永遠の生命を得る(神仙への到達)ための修行法としては、古くから辟穀(へきこく)・服餌(ふくじ)、導引(どういん)、守一のような存思法(そんしほう)、行気(こうき)、調気などの呼吸法、誦経(ずきょう)、転読(てんどく)などが行われ、鉱物を用いて金を煉成し(煉丹術)、それを服用する外丹(薬物学)などが行われていた。その技法はやがて体内に金丹を育成する内丹に変わる。また・・・呪術も修行されていた」

(坂出祥伸 日本と道教文化 p17 角川選書466 2010年)

湯浅泰雄氏は『太一金華宗旨』について、「道教の伝統的用語でいうと、この書は「内丹」の書である。内丹とは心の訓練を意味する。「丹」は薬のことで、いわゆる錬丹(薬をねってつくる)の術である。これに対する外丹は、身体の養生法を意味し、漢方医学の体系を指している。道教の修行法にはまた「胎息」と「導引」という区別がある。胎息は呼吸法と瞑想法を意味し、内丹と同じである。導引は身体の訓練法で、太極拳や柔術などの中国武術の源流である。(導引とは、気をみちびくという意味である。)このように、身体の健康や訓練には必ず心の訓練が伴わなくてはならないと考えるところに、東洋の身心論の伝統的特徴がよくあらわれている」と指摘している(湯浅泰雄 ユングと異教的なるもの p179 現代思想臨時増刊号 総特集=ユング 青土社 1995年)。

道教では、不老不死の神仙となるためのさまざまな修行法があった。内丹における修行法としては「気」を廻らすという方法が用いられた。坂出氏は、道教について「「気」を操作して「永遠の生命」を獲得しようとする宗教だともいえよう」と指摘している(前掲書 p13)。いわば、「気」とは不可視の生命エネルギーである。

『万葉集』が伝える「浦島説話」では、主人公の死が「氣左倍絶而」と描写されている。つまり「氣」が絶えることが死と考えられたのである。この箇所を、今流に言えば「呼吸が止まる」と解することもできようが、この記述には古代人の生命観が反映されている。

「浦島説話」が馬養によって記述された西暦700年前後という時代は、思想、文化面等、さまざまな点で唐代の影響を強く受けていた。坂出祥伸氏は、道教が「唐代になると仏教にまさる厚遇を得て隆盛を誇り、ことに玄宗は道士を官吏に採用するための道挙を設けたり、老子を崇拝して玄元皇帝と称し、各州に玄元皇帝廟を置くなど尊崇は極に達していた」と論じている(前述書 p16)。こうしたことを勘案するなら、「氣」が我国古来の伝統的生命観に由来するとしても、「氣左倍絶而」の「氣」という概念を、道教に基づく生命エネルギーとしての「気」と同義と考えることも可能であろう。