文責:村山芳昭 2008.11.01

目次

歴史的背景

「浦島説話」の原作が成立した700年前後という特筆すべき時代を読み解く鍵は3点ある。1つは、『大宝律令』の制定(701年)に伴い、天皇を頂点に戴く律令国家が名実共に完成したこと。2点目は、藤原不比等という稀代の傑物による独裁体制の礎ができた時代であるということ。3点目は、当時は国史編纂作業が大きく進展するとともに、儀鳳暦が単独で行用され始めた時期であるということ。この3点を押さえておく必要がある。

倭の五王(讃・珍・済・興・武)と記紀の天皇

済・興・武が十九代允恭天皇・二十代安康天皇・二十一代雄略天皇にあたるという点ではおおよそ意見の一致をみているが、讃については十五代応神天皇説・十六代仁徳天皇説・十七代履中天皇説があり、珍についても仁徳天皇説と十八代反正天皇説が対立している。記紀に伝えるこれらの天皇の系譜は、応神天皇の子が仁徳天皇、仁徳天皇の子が履中・反正・允恭天皇、允恭天皇の子が安康・雄略天皇とされている。なお、「応神」「仁徳」というような漢字二字で表記される天皇名は、中国風の諡(おくりな・死後におくられる名)であり、実名ではない。記紀にも本来こうした名はなく、記紀の天皇の中国風諡は、奈良時代半ばすぎにまとめてつけられたものとみられている。

篠川 賢 大王と地方豪族 pp.18~20 山川出版社 2006年

雄略天皇の世

雄略天皇

記紀系譜上の第二一代天皇。五世紀後半頃の在位という。大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ)天皇と称する。允恭天皇の第五子。母は忍坂大中姫(おしさかおおなかつひめ)命。兄の安康天皇が眉輪(まゆわ)王に殺されると、兄弟を思い、同母兄の八釣白彦(やつりのしろひこ)皇子を斬り、坂合黒彦(さかあいのくろひこ)皇子を眉輪王とともに葛城円大臣(かずらきのつぶらのおおきみ)の家で焼き殺した。さらに履中天皇の子で、安康天皇が後継者に考えていた市辺押磐(いちのべのおしは)皇子を殺し、泊瀬朝倉宮に即位したと伝える。「宋書」倭国伝にみえる倭王武(ぶ)に比定される。武は四七七年、安東大将軍、翌々年には鎮東大将軍に進められた。また埼玉県の稲荷山(稲荷山)古墳から出土した鉄剣銘文にみえる「獲加多支鹵大王(わかたけるのおおきみ)」にあてられる。

日本史広事典 日本史広事典編集委員会編 山川出版 1997.11.25 第一版第二刷発行

蘇我氏と飛鳥

「蘇我氏の活躍とアスカ」 飛鳥大仏 大陸色濃く

蘇我氏とは、どういう豪族か。武内宿禰(たけしうちのすくね)から出た葛城氏は、渡来系の技術者を配下にして葛城山の東西に大きな勢力を持った。葛城氏が力を失うと同族の蘇我氏が登場する。最初に歴史に出てくるのは稲目。欽明天皇に仕え、2人の娘、堅塩媛(きたしひめ)と小姉君(おあねのきみ)を欽明天皇の妃にした。欽明天皇と堅塩媛の間には推古天皇や用明天皇が、小姉君との間には用明天皇の皇后となる穴穂部間人(あなほべのはしひと)や崇峻天皇が生まれた。蘇我氏は天皇を出す家になり、天皇家との血のつながりを深め、大豪族になっていった。馬子の家は明日香村の島や飛鳥寺の西に、蝦夷と入鹿の家は甘樫丘にあった。天皇の宮殿近くに住み天皇を助けていた。が、越権行為も目立ってくる。馬子は氏祖を祭る地を天皇に求め蝦夷と入鹿は生前に墓を造って天皇と同様「陵(みささぎ)」、邸を「宮門(みかど)」と呼ばせた。すると、許せないという人たちが出てくる。中大兄皇子と中臣鎌足、蘇我石川麻呂の3人が手を組んで645年の大化改新で滅ぼす。蘇我氏がもたらした大きな功績は、仏教を受け入れたことだ。朝鮮半島で新羅に攻められた百済は救援の見返りに552年、仏像や経論を日本に伝えた。蘇我氏は仏教受け入れに賛成し、物部氏や中臣氏は反対し争ったが、馬子が物部守屋を倒し、蘇我氏の世界になる。そこで建てたのが元興寺(飛鳥寺)。今は鞍作止利(くらつくりのとり)が造った飛鳥大仏を覆うお堂のみあるが、周囲を発掘すると、塔を三つの金堂が囲んだ高句麗にある伽藍(がらん)配置が現れた。飛鳥大仏は、北魏の雲崗、竜門石窟の仏像と似ている。高句麗や百済、北魏の力が結集して出来たのが飛鳥寺。明日香の地から各地に様々な寺がつくられ、仏教だけではなく、日本の政治や文化にも大きな役割を果たしていった。

奈良大学名誉教授 水野正好氏 2006年08月09日  読売新聞

「蘇我氏と飛鳥から見た 古代日本の成り立ち」

飛鳥は心の故郷と言われるが、古代日本の成り立ち、日本人のアイデンティティーを考えるうえで骨格となる出発点が飛鳥にあったという事実があり、重要な役割を果たした蘇我氏と飛鳥のかかわりは古代史を解明するうえで避けて通れない。蘇我氏は、開明的な氏族で天皇の外戚(がいせき)として王権に影響力を行使する手法は藤原氏に先駆けていた。渡来系の東漢(やまとのあや)氏や秦(はた)氏とのかかわりが深く、白猪屯倉(しらいのみやけ)の経営管理などで活躍。管理には木片に墨書した木簡を使った。日本では7世紀半ば以降しか見つかっていないが、朝鮮半島では6世紀の出土例もあり、いずれ出土するかもしれない。飛鳥に宮殿が固定されるようになる前、日本書紀雄略7年(463年)条には陶部(すえつくり)、鞍部(くらつくり)、畫部(えかき)、錦部(にしごり)、訳語(おさ)など「新漢(いまきのあや)」の技術者集団を飛鳥の上桃原、下桃原、真神原(まかみのはら)に、同14年条には檜隈(ひのくま)にも移住させる。うち、真神原の地に崇峻元年(588年)、蘇我馬子が飛鳥寺を築き始める。古代飛鳥の範囲は、飛鳥寺の北辺を北限とする説が有力で、都の北に飛鳥寺を配したことになる。西には神が来臨したとされる伝承が残る槻(つき)の巨木があり、西に神、東に寺院という位置づけにしたと思われる。律令国家形成の一画期は、蘇我氏本宗家が滅んだ後の大化改新詔(646年)だが、大宝律令によって潤色されたことは明らか。行政単位の「郡(こおり)」、面積単位の「町段歩(ちょうたんぷ)」の文字は当時使われておらず「評(こおり)」「代(しろ)」を指す。元は朝鮮半島の制度に使われたが、東夷の小帝国の面目を保つため別の文字を使ったのだろう。唐代の州県制でもなく漢代の国郡制にならった。当時の日本は、現状否定と同時に秦漢の古典古代に回帰する「ルネサンス」を目指し、律令支配を行っていったと言えるだろう。

明日香村まるごと博物館フォーラム 明治大学教授 吉村武彦氏 2006年08月09日  読売新聞

「天皇」称号と国号「日本」

「天皇」という称号の成立時期については、いまだに諸説があるが、現在有力視されているのが、7世紀後半の天武、持統朝期という見方である。国号「日本」の成立も、この問題と密接に結びついている。

国家の形成の過程で、天皇という称号が定着するのですが、これまでその時期は推古朝以来という説が主張されていました。けれども、最近は、天皇という称号が安定的に用いられ、制度的に定着するのは天武、持統朝―浄御原律令の制定のころで、厳密にいえば持統からだというのが、古代史家のほぼ通説になっていると思います。ですから、この説にしたがって、史実に忠実な立場に立てば、雄略天皇や崇峻天皇はもちろん、天智天皇という「天皇」もいないことになります。こうした厳密さは、神武から数える天皇の代数、しかも江戸時代以来いろいろな教え方をされている代数が、教科書をはじめあちこちで無神経に使われていることからみても、非常に大切なことだと思います。しかも、大宝律令のできた701年に遣唐使が中国大陸に行くのですが、その時の使いは「日本」の使いであると唐の役人にいっています。つまり「日本」という国号も、これまで推古朝とも考えられていましたが、やはりこれも最近の説では7世紀の後半、律令体制の確立した天武・持統のころ、天皇の称号といわばセットになって定まったと考えられています。これも大変大事な点で、このときより前には「日本」も「日本人」も実在していないことをはっきりさせておく必要があります。その意味で縄文人、弥生人はもちろんのこと、聖徳太子も「日本人」ではないのです。

網野善彦 日本の歴史をよみなおす pp194~195 筑摩書房 1997年第25刷

網野氏の「天皇という称号が安定的に用いられ、制度的に定着するのは天武、持統朝―浄御原律令の制定のころ」「厳密にいえば持統から」という表現は意味深長である。①安定的に用いられ、②制度的に定着、という箇所に留意しておきたい。701年に遣唐使が派遣されることになり、渡唐を果たした翌年が、国号「日本」が対外的に正式に用いられた最初であるとされる。国号「日本」と大宝律令撰定作業とはどのような関係をもっていたのであろうか。大変興味深い問題である。いずれにしても、馬養が生きた時代というのは、激動、一大画期の時代であったことだけは確かである。「浦島説話」を読み解く重要な鍵の一つは、当時の時代背景という要素についての考察である。

2010.9.30 村山芳昭

「年号」の文字と出典

現在、時代は「平成」の世である。年号の歴史的源流を遡っていくと、その確実な端緒は701年の「大宝」元年に至る。以後、現在に至るまで間断なく連綿と「年号」は重ねられてきている。「大宝」以前に三種の年号(「大化」「白雉」「朱鳥」)が知られるが、木簡・金石文等での使用が確認されていないという遠藤慶太氏の見解について以前紹介した。

「日本の年号は、古来すべて中国の古典(漢籍)から良い文字が選び出されてきた。その出典が記録によって判明するのは、平安時代の「承平」(931年改元)以降である。ただ、それ以前の「大化」(645年改元)から「延長」(923年改元)に至る公年号についても、漢文学者の森本角蔵氏が『日本年号大観』で推定の典展文例を示されている。たとえば、最初の「大化」という二文字は、『漢書』『宋書』『晋書』『文選』など、また「大宝」という文字は『周礼』『易経』『宋書』『文選』などにみえる。

所 功 「年号」制度の基礎知識Q&A p67 歴史読本 2008年1月号 ※原文ママ

「大宝」の年号が誰によって選び出されたかを知ることはできないが、「大宝律令」撰定にあたった伊預部馬養連らによって複数の案が持ち寄られるなど、彼が何らかの関わりをもった可能性は大いにあり得るだろう。馬養らは漢籍に深く通暁する、当時第一級の知識人として知られていた。出典が『易経』だった可能性もある。「年号」を介して、馬養が生きた時代と現代とが繋がってくるようである。「浦島説話」が、より身近なものに思えてくる。

2010.9.19 村山芳昭

柿本人麻呂と伊預部馬養連

柿本人麻呂の生涯を知るべき根本資料は萬葉集だけに限られている。萬葉集巻二に見える日並皇子尊の挽歌(167)は持統天皇三年四月薨去の皇太子日並皇子をいたむもので、人麻呂の作中、年月の明らかなものでは最も早いものである。また文武天皇四年四月薨去の明日香皇女の挽歌(2 196)は、年代に多少の疑問もあるが、年月の明らかな作の最後のものであるから、人麻呂の活動した正確な年代は持統天皇の三年から文武天皇の四年までの十二年間であり、人麻呂歌集によって補えば、天武天皇九年(10 2033)から、大宝元年(2 146)までをもさらに、その活動範囲と推測することもできる。

土屋文明 萬葉集入門 pp48~49 筑摩書房 1981年

「浦島説話」を研究するうえで、説話を書き残した伊預部馬養連が生きた時代を想像することは重要である。その際、どのような人物と関わりをもっていたか、ということにも意を配る必要がある。後世、「歌聖」と称せられた歌人・柿本人麻呂と馬養とは時代を共にしていた。とりわけ、持統、文武両朝期に活躍したという共通項を有する。梅原猛氏は、人麻呂は政争に巻き込まれるかたちで刑死に追い込まれ悲劇的な最期を迎えたと考察している(『水底の歌』)。土屋氏は「人麻呂は萬葉集第一の作者であり、その代表的作者であるという、今までの考え方は、そのまま受け入れらるべきで、人麻呂をそれ以下に評価することは不可能である」(前掲書p56)と指摘している。人麻呂の人生が、果して、梅原氏が説くようなものであったか否かは今後も検証が重ねられていくであろうが、彼ほどの人物が萬葉集だけにしかその明確な痕跡を残していないという事実は何を意味しているのであろうか。いずれにしても、人麻呂と馬養とが交流を持っていたことだけは間違いないであろう。人麻呂が日並皇子尊(草壁皇子)の挽歌を詠んだ年、馬養は撰善言司に任命されたのである。

2010.9.28 村山芳昭

681年~701年

西暦「日本書紀」
和暦
干支政治社会・文化天皇
681天武
10
辛巳
2 律令の編纂を開始する。
草壁皇子、立太子。
4 禁式九十二条を立て、皇親から庶民までの服飾を規定する。
8 多穪島から使が帰り、地図を献上する。
1 畿内・諸国の天社・地社の神宮を修理。
3 帝紀・上古諸事の検討作業を開始。
天武
682天武
11
壬午3 位冠の着用をやめ、服制を改める。王臣の食封を収公する。
8 宮廷の礼儀・言語を規定する。
官人の考選に族姓を重んじる。
9 跪礼・匍匐礼をやめ、立礼を用いる。
3「新字」1部44巻を造らせる。
683天武
12
癸未2 大津皇子、朝政に参画する。
4 銅銭を用い、銀銭を禁ずる。
9 倭直など38氏に、連の姓を授ける。
10 三宅吉士など14氏に、連の姓を授ける。
11 諸国に、陣法を習わせる。
12 諸国の境界を定める(未了)。
複都制を施行し、難波宮を陪都として修営する。
8 大伴男吹負没。
684天武
13
甲申
④ 文武官人に兵馬を整えさせる。
10 諸氏の族姓を改めて、八色の姓を定める。
守山公など13氏に、真人の姓を授ける。
昨年に続いて、諸国の堺を定める。
11 大三輪君など52氏に、朝臣の姓を授ける。
12 大伴連など50氏に、宿穪の姓を授ける。
685天武
14
乙酉1 諸王以上十二階、諸臣四十八階の制に改定する。
6 大倭連など11氏に、忌寸の姓を授ける。
7 朝服の色を定める。
11 部隊装備用の兵器の私蔵を禁じ、郡家に収める。
3 山田寺の薬師如来像開眼。
諸国の家ごとに仏舎を造り、仏像・経を置いて礼拝供養させる。
686朱鳥
7.20
丙戌
1 難波宮焼亡する。
9 天武天皇没。
菟野皇后、称制(即位しないで執政)。
10 大津皇子、謀反を理由に捕えられ、自害させられる。
687持統
丁亥9 天武天皇の国忌の斎を、京師の諸寺で行なう。9持統
688持統
戊子2 国忌の日の斎を定める。
11 天武天皇を檜隈大内陵に葬る。
689持統
己丑
6 撰善言司をおく。
諸司に令1部22巻(浄御原令)をわかつ。
⑧ 戸籍の作成、浮浪人の取締り、兵士の武事教習を命ずる。
9 使を遣わして筑紫に位記を送る。
12 双六を禁断する。
4 草壁皇子没(28)。
690持統
庚寅1 皇后、即位儀式。
4 官人の位階昇進の制度、朝服の色を改める。
7 高市皇子を太政大臣に任ずる。
浄御原令の官制の施行により大規模な人事異動を行なう。
9 戸令により戸籍を造る(庚寅年籍)。
11 元嘉暦と儀鳳暦を用いる。
この頃から、伊勢神宮に式年遷宮が行なわれる。
691持統
辛卯3 良・賤身分を区別する基準を定める。
4 解放された奴婢の身分を庚寅年籍で確定する。
8 大三輪など18氏の墓記を上進させる。
10 陵戸の制を定める。
692持統
壬辰
3 中納言三輪高市麻呂、天皇の伊勢行幸をいさめ、受入れられずに辞職する。
5 藤原宮の地鎮祭を行なう。
9 班田大夫を四畿内に遣わす。
693持統
癸巳1 百姓に黄色衣、奴に黒衣を着させる。
3 桑・紵・梨・栗などの栽培を奨励し、五穀の助けとする。
10 皇親・有位者に武具を備えさせる。
12 諸国に陣法博士を遣わして、兵法を教習させる。
10 仁王経を諸国で講じさせる。
694持統
甲午3 大宅麻呂らを鋳銭司の官人に任ずる。
12 藤原宮に都を移す。
5 金光明経を諸国におき、毎年正月に読ませる。
695持統
乙未
7世紀後半に「日本」の国号と「天皇」の称号が正式に定められたと推定される。
696持統
10
丙申7 高市皇子没(43)。
697文武
丁酉
2 軽皇子立太子。
8 持統天皇譲位し、軽皇子が即位する。
8文武
698文武
戊戌4 南島に使を遣わして、国をもとめさせる。
12 対馬に命じて、金を生産させる(のちに金の産出は詐欺と判明)。
10 薬師寺の建立ほぼ終わる。
699文武
己亥7 多褹・夜久・菴美・度感人来て、貢物を進上する。
12 鋳銭司をおく。
670文武
庚子
3 王臣に、令文を読習させる。
律条を撰定する。
諸国の牧地を定め、牛馬を放牧する。
6 刑部親王・藤原不比等らに、大宝律令を撰定させ、禄を賜う。
10 製衣冠司をおく。
3 道昭を火葬する。
671大宝
3.21
辛丑1 粟田真人らを遣唐使に任ずる。
3 大宝令により、官名・位号を改制する。
6 新令によって政治を行ない、新印の手本を頒布する。
8 律令の撰定が完成し、刑部親王・藤原不比等らに禄を賜う。
明法博士を西海道以外の6道に派遣して、新令を講義させる。
2 釈奠の礼を行なう。
6 僧尼令を大安寺で説かせる。
7 多治比島没(78)。

都城(飛鳥と難波)

飛鳥と難波<上>

 ・・西暦645年、大化改新につながる「乙巳(いっし)の変」で蘇我本宗家が滅びた後、孝徳天皇(在位645~654年)をはじめとする新政権は飛鳥から難波へ都を遷(うつ)し、これまでにない巨大な宮殿を造営した。難波長柄豊碕(とよさき)宮である。古代の難波は当時、大陸との表玄関として栄え、遣隋使や遣唐使は難波津より船出した。裴世清(はいせいせい)ら隋からの使者も、ここに到着している。再び都が飛鳥に戻った後、天武天皇(同673~686年)は、二つ目の都を造ろうと計画した。その時に候補地として難波を挙げたのは、大陸との交流拠点としての難波の重要性を物語っており、それにふさわしい宮殿がすでにあったからにほかならない。当時の難波には、大規模な宮殿と四天王寺の伽藍(がらん)がすでに華麗な甍(いらか)を並べていたが、未開発地域も多く、ここに新たな都市計画を実践した。686年、難波宮は火災で焼失し、都づくりも中断を余儀なくされたが、この経験は後の藤原宮に引き継がれる。一方、飛鳥は推古天皇が592年に豊浦宮に即位して以降、数多くの宮殿や官衙(かんが)(役所)・寺院・邸宅などが建ち並んでいく。これらの施設は計画的に短期間に建てられて配置されたのではなく、律令制度の成熟にあわせて少しずつ整備された。飛鳥時代100年間の積み重ねによって、都市的な様相が充実していったのである。このことは、飛鳥で最初に建てられた大型建造物が、飛鳥寺であったことからもうかがえる。しかし、このように都市としての景観が充実していったものの、わが国を代表する日本の首都として、制度的にも地形的にも手狭なものとなり、何よりも東アジア世界で通じる中国の条坊制を備えた本格的な都城が必要とされた。そこで、694年、飛鳥北方の大和三山をも含みこむ地域に、ニュータウンの「新益京」(藤原京)を造営して遷ったのである。・・

明日香村まるごと博物館フォーラム 2008年7月27日  読売新聞

飛鳥と難波<下>

大化改新に伴って、孝徳天皇(在位645~654年)が652年に完成させた難波長柄豊碕(とよさき)宮(前期難波宮)は、飛鳥宮では分散していた国政機関(外廷機能)を、難波遷都を機会に宮域内に統合したことによって、飛鳥宮をはるかにしのぐ規模と構造を持つことになった。長柄豊碕宮は、唐長安城の太極宮に倣って威容を整え、天皇を頂点に、その権威と秩序を内外に誇示する舞台装置として造営された画期的な宮室であった。皇位継承をめぐって起こった壬申の乱(672年)後、飛鳥で即位した天武天皇(在位672~686年)は、とりあえず斉明天皇(同655~661年)の後(のちの)飛鳥岡本宮の南に東南郭正殿(エビノコ大殿)を付設した「飛鳥浄御原宮」で政治を行いながら、自身の新しい都(新城=藤原京)の造営を目指した。藤原京(694~710年)は、文献史料的にも考古学的にも、確認されている日本の条坊制都城の最初である。その宮城・藤原宮は、構造などを見ると、長柄豊碕宮と密接な関係にあることがわかる。天武は、長柄豊碕宮をモデルに新しい宮室の造営を構想したものと思われる。藤原宮大極殿は、宮室での位置関係が長柄豊碕宮の内裏前殿(大安殿)と同じであり、その流れをくむ。内裏前殿や東南郭正殿が持つ政治や儀礼の場としての公的機能を、天皇の独占空間として特化したものであった。基壇・礎石上に建つ、瓦葺(かわらぶ)き宮殿という中国的な構造や外観は、「飛鳥浄御原宮」東南郭正殿の高床式・掘っ立て柱建物で瓦を葺かない伝統的な建築様式を大きく飛躍するものであった。藤原宮大極殿は、律令制的宮殿として、装いを新たに生まれ変わったのである。天武は結局、自身の都の完成を見ることなく、686年9月に亡くなる。天武の目指した「新城」の姿は、夫の遺志を継いだ持統天皇(在位690~697年)が完成させた「藤原京」に見ることができる。

明日香村まるごと博物館フォーラム 2008年7月28日  読売新聞

複都制(ふくとせい)

一国に複数の首都をおく制度。首都長安ちょうあんと副都洛陽らくようをおいた中国の隋・唐を典型とする。唐では七二九年以降、西京(長安)・東京(洛陽)・北京(太原)の三京制を基本とし、渤海ぼっかいや遼・金も踏襲した。日本でも六八三年(天武一二)いわゆる複都制の詔をだして難波京造営に着手した。八世紀には唐風の観念が直輸入され、保良ほら京・由義ゆげ京を北京・西京と称したこともあった。

日本史広事典 日本史広事典編集委員会編 山川出版 1997.11.25 第一版第二刷発行

難波宮

大阪市中央区法円坂一帯にある難波宮史跡公園では、飛鳥時代(7世紀)と奈良時代(8世紀)の前後2時期の難波宮を、レンガ・土盛りなどにより表示し、保存と整備をはかっている。難波宮の廃絶後は、永くその場所が分からなくなっていたが、故山根徳太郎博士が1954年から発掘調査を始め、61年には後期難波宮の大極殿を確認するにいたった。現在は、国指定史跡となり、公園として活用されている。また、2001年秋に開館した大阪歴史博物館地下には難波宮の遺構が保存・公開されている。

大阪市文化財協会HP

藤原宮

1300年前の首都・藤原京の中心、現在でいえば皇居と国会議事堂と霞ヶ関の官庁街をあわせたところが藤原宮です。都の中央約1km四方を占め、まわりは高さが5.5mもある瓦葺きの塀が巡り、各辺には門が3ヶ所ありました。そして、塀に平行して内堀と外堀がつくられていました。

宮の内部は、中央に政治・儀式の場である大極殿、貴族・役人の集まる朝堂院が南北に並び、大極殿の北は天皇の住まいの内裏でした。大極殿と朝堂は宮殿で初めての瓦葺きで、礎石の上に柱が立つ建物です。大極殿は当時最大級の建物でした。これら中央の区画の両側は官公街です。日の出前から出勤した役人たちが、ここで政治の実務を担当していました。中央部に接して一辺約70mの塀で囲った四角い区画の役所が南北に並び、その外側は大きな区画の役所で、長い建物が建つことがわかってきています。

奈良文化財研究所ホームページ

飛鳥・藤原 – 古代日本の宮都と遺跡群

「飛鳥・藤原」は、奈良盆地の東南に位置する丘陵に囲まれた飛鳥、その北側の香具山、耳成山、畝傍山に囲まれた藤原からなり、明日香村、桜井市、橿原市にわたっている。592 年に推古天皇が飛鳥に豊浦宮を開いてから、710 年に藤原宮から平城宮に遷都するまでの間の、いわゆる飛鳥時代に多くの天皇が宮を置いた地域である。「飛鳥・藤原」は、日本の古代政治の中枢で、律令国家もこの地を基点に誕生し、その形成から確立までの過程を解明できる古代都市空間である。当時、ここには天皇の宮殿や皇子の宮、そして大陸からの知識・技術を取り入れて建設された諸寺院の伽藍が聳えていた。また、飛鳥時代後半には律令国家の体制の基礎固めとなる都城として中国の都に学んだ藤原京が建設され、本格的な古代国家が始動した。このように「飛鳥・藤原」では東アジア・東南アジアの諸外国との交流の中で国家の体制を整えていったことが、建造物や古墳などの構築物にとどまらず、諸外国の人々を迎え入れた寺院、迎賓館や庭園から出土する遺物にも認められる。またこの地域には諸外国の技術を受容した先進的文物を制作した工房等が存在した。この時代には律令国家の根幹をなす国家儀礼・官僚・身分・税などの制度の完成、そして日本の経済制度に大きくかかわる貨幣の鋳造がおこなわれる。また、律令国家体制の確立は、人々の死後世界にも影響し、身分秩序体系が墓(古墳)の立地、形状、規模、内部構造に導入されている。飛鳥時代は、我が国初の歌謡を集めた万葉集、初めての歴史書・正史にあたる「古事記」・「日本書紀」の編纂がされた時期でもあり、飛鳥・白鳳文化として花開き、次の「古都奈良」を中心とした天平文化へと受け継がれ、昇華する。このように「飛鳥・藤原」の地は古代日本の首都であり、現在に至る我々の生活習慣の礎となっている。都が「飛鳥・藤原」の地を去った後、多くの寺院が残されたが、平安時代の終わりにはこれらの寺院は衰退していくことになる。飛鳥・白鳳文化に育まれた宮殿や寺院、庭園、工房などは時を通して水田や里山として埋没し、現在、地下に良好な遺構として存在する。万葉歌が読まれた飛鳥時代の風土や石造物は時間を超えて現在にも受け継がれ、目のあたりにすることができる。特に大和三山は、万葉集や古今和歌集に多数詠まれ、その眺望は日本を代表する歴史的景観を有している。「飛鳥・藤原-古代日本の宮都と遺跡群」は、古代における日本の中心的な遺跡群であり、国内において他に例をみない重要な遺跡である。

世界遺産暫定一覧表記載資産候補提案書(明日香村 桜井市 橿原市 奈良県)

律令国家の誕生

律令国家(りつりょうこっか)

七世紀後半から九世紀頃までの古代国家。基本法典の律令の名をとった呼称。天皇を中心とした体系的な中央集権的国家機構で、中央に都城が営まれ、議政官を核とした太政官を頂点に二官八省の官僚機構を設け、地方は国郡里(郷)の行政組織に編成。国司には中央官人が任命され、地方豪族を郡司以下に組織した。戸籍計帳を作って班田収授を行い、租庸調や雑徭(ぞうよう)を徴収して全国の民衆を支配した。良民と賤民とに身分が区別され、支配者層はさらに位階により区別された。とくに五位以上はさまざまな特権をもち、畿内の有力氏族出身者が独占した。律令国家は、一〇世紀頃に班田収授の法などの破綻により崩壊したと一般的には考えられるが、大王のもとに畿内豪族が結集して畿外を支配するという大和王権のあり方をうけついでおり、一〇世紀はそうした古い枠組が崩壊しただけで、中国的な律令の理念はその後の国家のなかで展開したと考えることもできる。

日本史広事典 日本史広事典編集委員会編 山川出版 1997.11.25 第一版第二刷発行

律令制(りつりょうせい)

古代国家の基本法典である律と令およびその国制。広義には律令国家と同義であるが、むしろ国制の理念、本質的性格をさす。律令は唐のそれを手本としたので継受法ともいえるが、唐では律令格式(きゃくしき)と礼とで全体の国制を規定していたのに対し、日本では八世紀には集成法としての格式はなく、律令のみで全体を規定した点に特色があり、選択的に継受している。律令は外見上唐制に類似する部分が多いが、唐制を模倣し理想をかかげただけで現実には機能しなかった部分がある一方で、七世紀の国制を継承し、在地首長制など日本独自の構造に依拠している部分もあり、律令制と氏族制との二次的構造をを考える説もある。九世紀には律令から格式の時代へ移行し、やがて律令制は崩壊するとされるが、律令制を広義に唐制を継受した国制ととらえれば、律令の規定は青写真であり、礼の継受を含めて、律令制は九世紀以降に展開すると考えることもできる。

日本史広事典 日本史広事典編集委員会編 山川出版 1997.11.25 第一版第二刷発行

律令時代

律令法を国家の基本法として統治が行われた七世紀後半~九世紀の律令国家の時期をさす時代区分。七世紀後半は、唐律令の摂取と日本律令の編纂が行われた律令国家への移行期である。日本律令は、七〇一年(大宝元)に、七〇二年にが施行された大宝律令により完成し、ついで七五七年(天平宝字元)から養老律令が施行された。九~一〇世紀初めには律令法を社会の変化に対応させるため、弘仁格式(きやくしき)・貞観格式・延喜格式が編纂された。

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唐令(とうれい)

行政上の要綱を定めた唐代の法典。後代および日本を含む東アジア諸国の法制に大きな影響を与えた。ほぼ皇帝一代ごとに編纂され、武徳(高祖)・貞観(太宗)・永徽(えいき)(高宗。大宝令のもとになる)・垂拱(すいよう)(武后)・神竜(中宗)・開元(玄宗。三年令・七年令・二五年令の三次)の各令が著名。編目は「六典(りくてん)」では官品、三師三公台省以下の職員、祠、戸、選挙、孝課、宮衛、軍防、衣服、儀制、鹵簿(ろぼ)、公式、田、賦役、倉庫、厩牧、関市、医疾、獄官、営繕、喪葬、雑とあるが、年次によって出入りがある。

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飛鳥浄御原律令(あすかのきよみはらりつりょう)

天武朝に編纂され、持統朝に施行された令。六八一年に草壁皇子を主宰者として編纂が開始され、六八九年(持統三〕令二二巻が諸司に示された。考仕令・戸令という編目名が知られる。官人の遷任や戸籍作成の起点となるなど、日本の律令成立過程の画期となった。なお律の編纂・施行は疑問で、単行法令によるとする説、唐律を準用したとする説などがある。

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大宝律令(たいほうりつりょう)

日本において律と令がはじめて一緒に編纂された法典。律六巻(一二編か)・令一一巻(二八編)。文武天皇の命をうけ、刑部(おさかべ)親王・藤原不比等(ふひと)らが撰上。令は七〇一年(大宝元)、律は翌年施行。浄御原(きよみはら)令や浄御原令制下の律の運用のあり方を踏襲した部分が少なくなく、とりわけ選任令・考仕令といった編目名称など形式的な面でその傾向が顕著である。従来は養老律令との差違はほとんどないとされてきたが、養老令の家令職員令や宮衛令にあたる編目が独立しておらず、編目順も異なるなど、最近は両律令の違いが強調され、浄御原令から養老律令への過渡的な法典であることが明らかにされてきた。七五七年(天平宝字元)の養老律令の施行後は、古律・古令として明法家(みょうほうか)などに参照されたが、平安時代中頃までに散逸したらしい。

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令(りょう)

律と並ぶ律令国家の基本法典。「令は勧誡を以て本となす」とのべられたように、令の基本的性格は教令法とされ、「懲粛を以て宗となす」処罰法としての律と対をなす関係にある。内容は国制を規定する行政法的なものから、訴訟法・民法・商法的なもの、そして官吏の服務規定など広範な法規定を含む。令は本来中国の漢王朝依頼独自な発展をとげた法典であったが、日本の古代国家は七世紀後半以降おもに唐代の令をもとに、日本社会の実情にあわせるための改変を加えるなどして日本令を編纂。近江令・浄御原(きよみはら)令・大宝令・養老令の編纂が伝えられるほか、養老令の刪定(さんてい)が二度行われたことが知られる。なお近江令の存否や性格については論争がある。

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律(りつ)

古代の法。律令のうちの律。今日の刑法にあたるもので、犯罪と刑罰を規定した法。中国では早くから発達し、隋・唐時代には高度で体系的な法として大成された。日本では七世紀後半から導入をめざしたが、条文の改変はわずかで、結果として中国と大差のない法典となった。日本初の律は浄御原(きよみはら)律といわれてきたが、制定施行説・非施行説・未完成説・唐律代用説など諸説あって明らかでない。その後は大宝律・養老律が作成・頒行された。ただし、実際に律にもとづいて犯罪と刑罰が処断されたかどうかは疑問が多い。大宝律は全巻が散逸、養老律も全一〇巻のうち三巻を伝えるのみだが、逸文の収集によって、今日では大宝律のごく一部と養老律のかなりの部分を知ることが出来る。

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庚午年籍(こうごねんじゃく)

六七〇年(天智九)庚午の年に作成された日本最初の全国的戸籍。具体的な記載内容は不明であるが、のちの律令制下の戸籍が、人民をその居住地で把握する地域的編戸を原則としたのに対し、部民制・氏(うじ)といった族制的な原理に強く規制されていたようである。このため律令制下では旧体制の記録として重要視され、良賤訴訟・改氏姓などの局面で、身分・氏姓の根本台帳として参照されることが多い。大宝・養老令では、通常の戸籍は三〇年で廃棄されるが、庚午年籍のみは永久保存と定められ、以後も内容を改変せず保存することを命じる法律がくり返し出されている。平安時代に入り、戸籍制度自体の空洞化とともにその役割を終えたものとみられる。

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位階(いかい)

律令制における官人の序列を示す等級。養老令では、親王は一品(いつぽん)~四品、諸王・諸臣は一位~八位および初位(そい)(諸王は五位以上)からなり、一位~三位は正(しょう)・従(じゆ)の各二階、四位~八位は正・従をさらに上・下にわけ各四階、初位は大・少を上・下にわけ四階、合計三〇階からなる。また五位以下には内位と外位(げい)の別がある。官人は原則として、その帯びる位階に相当する官職に補任され(官位相当制)、所定年数の勤務成績により位階が昇進する。位階に応じて種々の特権があり、三位以上を貴、五位以上を通貴(つうき)といい、六位以下との差は大きかった。また以上の文位(ぶんい)のほかに勲位の制もある。位階制は形骸化しながら明治維新まで存続し、明治期以後も内容を変更して現在に至っている。

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位記(いき)

公家・僧侶・神社に冠位を授けるときに発給された文書。唐風に告身こくしんともいう。公式令くしくりように五位以上の勅授、六位以下内八位・外七位以上の奏授、外八位・内外初位の判授の別を規定し、「延喜式」には神位・僧網そうごう・僧尼・五位以上などにわけて位記の書式と文例を例示するが、実例の残るものは少ない。中世以後、叙位任官は口宣くぜんあんを用いた略式が一般的となり、位記の作成はほとんどなくなった。

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冠(かんむり)

朝廷で官人が身分を表示し威儀を正すために用いたかぶりもの。「こうぶり」の音便形。古墳時代には朝鮮半島の影響下で金製の宝冠などが用いられたが、七世紀七世紀以降、中国的なものが導入された。六〇三年(推古一一)の施あしぎぬ製で袋状の冠位十二階、六四七年(大化三)の七色十三階冠と壺冠つぼこうぶりをへて、六八二年(天武一一)に制定された漆紗冠しつしやかんは令制の頭巾ずきんの原型で、唐の幞頭ぼくとうにならい髺もとどりの上から布をかぶり、上から纓いえという紐で縛りあげ、纓の余りを後ろに垂らす。養老衣服令では礼服用の礼冠らかいんと朝服用の頭巾が定められ、とくに天皇や皇太子は純中国的な冕冠べんかんを礼冠として用いた。平安時代以降、朝服の系統を引く束帯が貴族の一般的な正装になると、冠も朝服の頭巾が和様化した。しだいに造りが固く直線化し、平安末期以降には漆で塗り固め、平らな額ひたいや直立した縁へり、髺を収める巾子こじ、装飾化した後部の纓などから構成された。

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逋逼礼(ほふくれい)

匍匐礼とも。両手・両足ともに地につけて進む敬礼。跪伏きふく礼と違って「進む」という動作を伴う。ともに「進退」「陳答」時の礼法で、朝座の礼(下座など)とは区別される。七世紀以降の古代国家が唐風の励行した結果、日本固有の逋逼礼や跪伏礼は廃されたとされるが、後世の蹲踞そんきよ・膝行しつこうなどはそれらの遺制と考えられる。

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立礼(りつれい)

起立して行う唐風の礼。拝・揖(ゆう)・起座などがある。孝徳朝難波宮から天武朝にかけて導入。嵯峨朝で牀座から床子(しょうじ)へと朝堂の座具がかわり、座上であぐらをかく座り方から腰掛けるようになって定着した。

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禁式(きんじき)

古来、朝廷で着用を禁じられた衣服の色。衣服令に規定された位階に応じた当色(とうじき)(位色とも)より上の色は禁じられたが、平安中期以降これに加え、天皇の黄櫨染(こうろぜん)や青、皇太子の黄丹(おうだん)をはじめ、赤・深緋(ふかきあけ)・深蘇芳(ふかきすおう)などが皇族や一位の貴族のみが用いる禁色とされ、そらに禁制の対象は素材や模様にまで広がった。これに対し大臣の子孫などは、とくに禁色宣旨をうけてその使用を勅許され、天皇に近侍する蔵人(くろうど)なども天皇の料物を下賜され、青色などを許される場合があった。

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連(むらじ)

古代のカバネ。群(ムレ)あるいは村(ムラ)の主(アルジ)の意というが、古代朝鮮語からきたという説もある。神別の系譜をもち、職業を氏の名とする諸氏が多い。品部(しなべ)を率いて大和政権に奉仕した伴造(とものみやつこ)のうち有力なものに与えられ、物部氏や大伴氏は大連として政権を担った。連姓の成立を七世紀に求める説もあるが、部民制の成立との関連を想定し、五世紀後半と考えるべきであろう。六八三年〔天武一二〕以降の氏姓制再編成に際して、旧造姓の氏族に連姓が与えられた。六八四年に制定された八色の姓(やくさのかばね)では第七等におかれ、旧連姓氏族は一部が第二等の朝臣(あそん)姓を、多くは第三等の宿穪(すくね)姓を与えられた。

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八色の姓(やくさのかばね)

六八四年(天武一三)一〇月に制定されたカバネ。「諸氏の族姓を改めて、八色の姓を作りて、天下の万姓を混(まろか)す」という詔に始まり、真人(まひと)、朝臣(あそん)、宿穪(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)、稲置(いなぎ)という八種のカバネが制定された。これらのうち、実際に賜ったのは真人・朝臣・宿穪・忌寸の四種(前年から賜っている連も八色の姓の一つか)であった。制度の目的は、大化前代以来の氏族制度を、氏族系譜上の天皇家との距離を基準にして、天皇中心のものに再編成して新たな身分秩序を形成することと、律令官人制を導入するにあたって、上級官人になりうる氏族層の範囲や、中央貴族と地方豪族の区別を確定することであった。

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朝服(ちょうふく)

令制下、有位者が朝廷で日常的に着用した衣服。五位以上が重要な儀式で用いた礼服(らいふく)、無位の官人や庶民が朝廷で着た制服と並んで衣服令に規定され、位階に応じて頭巾(ときん)、衣服、帯、芴(しゃく)などの材質や色が定められた。内親王・女王・内命婦(ないみょうふ)などの女性や武官についても別に規定がある。純中国的な要素の強い礼服に対し、日本の朝服は、隋・唐で日常的に用いられていた北方騎馬民族系の袴褶(こしゅう)(胡服)に由来。平安時代の束帯は朝服から発達したもので、革帯を締めることからこの称がうまれた。

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僧尼令(そうにりょう)

大宝・養老令の編目の一つ。養老令では第七編で全二七条。僧尼の禁止すべき行為と、それを犯した場合の罰則や、僧網(そうごう)任命の原則などを規定。唐令には存在せず、道教・仏教関係の規定である唐の道僧格から道教に関するものを除き、令の編目に盛りこんだものと考えられる。そのため他の令とは異なり、尼僧の違反行為に関して苦使(くし)・還俗(げんぞく)など具体的な罰則を定め、律のような性格をもった。

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仏教

古代都市誕生 -飛鳥時代の仏教と国づくり-

半世紀におよぶ発掘調査の成果から、飛鳥・難波(なにわ)・大津といった都について、これまでとはまったく異なる豊かなイメージが得られるようになりました。加えて、近年の文献史学、その他の研究成果の進展により、飛鳥時代には、仏教が国をひとつにまとめる力として、これまで考えられてきた以上に重視されていたことが明らかになりつつあります。

難波宮跡発掘50周年記念 特別展

山田寺

蘇我入鹿のいとこ蘇我倉山田石川麻呂(くらのやまだいしかわまろ)が、641年(舒明天皇13年)に建て始めた寺院。このころ、各豪族が、盛んに造った氏寺の一つである。石川麻呂は、入鹿殺害のクーデタに加わり、右大臣に任ぜられたが、649年(大化5)、反乱の疑いをかけられて、この寺で自害した。しかし、その後、彼の疑いは晴れ、皇室の援助で寺の造営は続けられて、7世紀の後半に完成した。発掘調査で中門・金堂・講堂を南から北へならべ、回廊金堂を囲むという伽藍配置が明らかになり、金堂風招・ 專仏・鴟尾・鬼瓦などがみつかった。また1982年からの調査では倒れた東回廊の建物が土に埋もれた状態で残っていることがわかり、古代建築の貴重な資料となっている。

奈良文化財研究所飛鳥資料館HP

薬師寺

法相宗とは〔教義について)

法相宗、または唯識宗、応理円実宗[おうりえんじつしゅう]、慈恩宗[じおんしゅう]とも呼ばれて、南都六宗[なんとりくしゅう]の一つです。この宗の宗旨としては、唐でできたものですが、そのもとは印度の弥勒菩薩[みろくぼさつ]、無着菩薩[むちゃくぼさつ]、世親菩薩[せしんぼさつ]によって大成され、護法菩薩[ごほうぼさつ]等によって発展した唯識教学です。紀元七世紀の初め、玄奘三蔵が印度で17年の間仏教教義の修得に勤められました。その間特に唯識教義の研鑚に勤められました。しかし帰朝後は翻訳に全勢力をそそがれ、教義の発揮は門下第一の逸足といわれた慈恩大師[じおんだいし]に託されました。大師は師より伝授の法統を巧みに整理し法相宗を開創されました。その後、淄州大師[ししゅうだいし]、撲揚大師[ぼくようだいし]の法相ニ祖・三祖より日本の留学僧、道昭[どうしょう]、智通[ちつう]、智達[ちたつ]、智鳳[ちほう]、智鸞[ちらん]、玄昉[げんぼう]によって日本に伝えられ、行基[ぎょうき]、徳一[とくいつ]、真興[しんごう]、貞慶[じょうけい]、良偏[りょうへん]、光胤[こういん]等から現在に伝わっています。この宗の特徴は阿頼耶識[あらやしき]、末那識[まなしき]という深層意識を心の奥にあるということを認めているところにあります。その阿頼耶識を根本識[こんぽんじき]とし、一切法は阿頼耶識に蔵する種子[しゅうじ]より転変せらる(唯識所変[ゆいしきしょへん])としています。つまり私達の認めている世界は総て自分が作り出したものであるということで、十人の人間がいれば十の世界がある(人人唯識[にんにんゆいしき])ということです。みんな共通の世界に住んでいると思っていますし、同じものを見ていると思っています。しかしそれは別々のものである。例えば、『手を打てば はいと答える 鳥逃げる 鯉は集まる 猿沢の池』という歌があります。旅行客が猿沢の池(奈良にある池)の旅館で手を打ったなら、旅館の人はお客が呼んでいると思い、鳥は鉄砲で撃たれたと思い、池の鯉は餌がもらえると思って集まってくる、ひとつの音でもこのように受け取り方が違ってくる。一人一人別々の世界があるということです。それを主張するのですから複雑難解です。しかしそれをいとも巧みに論理の筋道を立てて、最も学的秩序を保った説明がなされているところに、この宗の教理の特徴があります。

薬師寺ホームページ

仁王経(にんのうぎょう)

「仁王般若波羅蜜経」(姚秦(ようしん)の鳩摩羅什(くらまじゅう)訳)・「仁王護国般若波羅蜜多経」(唐の不空訳)の略。法の滅び尽きるとき水火・賊盗・疾疫・戦争などの災厄がおきるが、これを免れ国家を安穏にするためには般若波羅蜜を受持し講説しなければならないと説く。「法華経」「金光明最勝王経」とともに護国の三部教の一つとされ、勅会(ちょくえ)である仁王会や仁王教法の典拠となった。

日本史広事典 日本史広事典編集委員会編 山川出版 1997.11.25 第一版第二刷発行

金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)

曇無識(どんむせん)訳の「金光明経」、隋の宝貴訳の「合部金光明経」、、唐の義浄(ぎじょう)訳の「金光明最勝王経」の三訳が現存する。この経を広宣読誦する国王があれば、その国土や人民を四天王などが擁護することを説き、「仁王今日」「法華経」とともに護国の経典として重んじられた。御斎会(ごさいえ)・最勝会などの国家的法会で講説され、国分寺が金光明四天王護国之寺と称されたのもこの経による。

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神道

神道・神社史料集成ー古代

主たる研究対象となるのは歴史的事象としての神道である。神道が日本文化の形成・発展と維持とに及ぼした影響は頗る大きく、神道と日本文化の関係を中心に、神道の実体・機能を、おもに文献資料(史料)を駆使して、歴史学的・実証的な研究により解明していくことが研究主眼となる。 神道は、信仰の基軸の存在を示しながら時代時代における情勢に影響を受け、発展・展開してきた歴史的経緯を持つ。つまり、時代の変化のなかで展開していく諸事象に神道が表現される点ばかりでなく、日本人の精神の奥深いところに神道が存在している点を理解すべきであろう。したがって、時代の変化に対応する神道の世界とともに、一方では、時代を通じて一貫して維持されていく神道の本質を明らかにしていくことが、本研究の重要な作業となる。

國學院大學21世紀COEプログラム 『神道と日本文化の国学的研究発信の拠点形成』

天社・国社(あまつやしろ・くにつやしろ)

神社の種別。神話で高天原(たかまがはら)から地上に降り立った神およびその子孫の神々を天津(あまつ)神といい、これを祭った神社を天社という。これに対して天孫降臨以前からの土着の神々を国津神といい、これを祭った神社を国社という。「日本書紀」崇神七年一一月条に天社・国社を定めたことがみえ、社格制度の整備とともに、天社・国社の称は詠歌諷誦以外では使われなくなった。

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天津(あまつ)神

天神とも。天に帰属する神々の総称。国津(くにつ)神に対する語。天の石窟(あまのいわや)神話にみえるように、天津神の世界の秩序はアマテラスを祭ることにおいて求心性をもち、そのアマテラスが皇祖神として王権を根源的に保証する構造となっている。なお「新撰姓氏録」では、天神系氏族と地秖系氏族との分別が行われている。

日本史広事典 日本史広事典編集委員会編 山川出版 1997.11.25 第一版第二刷発行

天津寿詞(あまつかみのよごと)

⇒中臣寿詞(なかとみのよごと)。天皇の践祚または大嘗(だいじょう)祭にあたり、中臣氏により奏上される祝寿の詞。制度的には天武天皇の代に整備されたと推定される。皇孫尊が斎庭の稲穂とともに降りてきた天孫降臨に始まり、天の八井から出る天都水を賜り、悠紀(ゆき)・主基(すき)の斎田(ゆでん)(近江国野洲・丹波国氷上)から稲穂がもたらされ、天皇が神と飲食をともにして、永遠の繁栄を祝福する。鳥羽天皇と近衛天皇の寿詞が知られる。

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国津神(くにつかみ)

天の世界の天津(あまつ)神に対して、地の世界の神をいう語。地上世界の一般の神の称ではなく、記紀神話では天から降る神の支配に服す側の神々とされる。アシナヅチ・サルタヒコ・アメノサグメなど。祭祀的には天神地祇(てんしんちぎ)のうちの地祇にあたるが、「万葉集」等には漠然と国土の神霊を示す事例もみられる。また「日本書紀の」仏教伝来伝承記事では、外来の仏教に対する在来の神の称として用いられている。

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伊勢神宮 式年遷宮

神宮の祭りの本義は、天皇が御親ら皇祖天照大神(こうそあまてらすおおみかみ)をおまつりされるところにあります。それは、神勅にもとづき第10代崇神(すじん)天皇の御代までは皇居内で、また皇居を離れられた約2000年前からは伊勢の地で、どの時代も皇室の弥栄、国家の安泰、国民の平安、五穀の豊穣を祈るお祭りが変ることなくおこなわれてきました。そのことは、かつては斎内親王(いつきのひめみこ)が天皇に代わって神宮にお仕えになり、現在では、祭主(さいしゅ)が天皇の御手代(みてしろ)としてお仕えになっておられることからも理解できることでしょう。このように神宮のまつりは常に歴代天皇のみ心を体して続けられているのです。

 神宮には年間に千数百ものお祭りがあります。これらの祭りは、恒例祭(こうれいさい)と臨時祭(りんじさい)と遷宮祭(せんぐうさい)とに分けることができます。

 恒例祭とは、毎年定められた月日に行われるお祭りです。その内、神嘗祭(かんなめさい)と6月・12月の月次祭(つきなみさい)は古来、三節祭(さんせつさい)といわれ、とりわけ重要なお祭りです。これに祈年祭(きねんさい)と新嘗祭(にいなめさい)を加えて、五大祭(ごだいさい)と呼ばれます。祈年祭、月次祭(つきなみさい)、神嘗祭(かんなめさい)、新嘗祭には、天皇陛下より幣帛(へいはく)が奉られ、月次祭を除くお祭りには天皇が勅使(ちょくし)を差し遣わされます。

 神嘗祭は、一年で最も大きなお祭りです。祭器具等を新しくし、その年の新穀をまず天照大神にささげ豊穣を感謝するとともに更なるご神徳をいただくというところにこのお祭りの意義があります。

 豊受大神宮(外宮)では毎日、天照大神をはじめ神々に朝夕食事をさし上げるお祭り(日別朝夕大御饌祭・ひごとあさゆうおおみけさい)が鎮座以来欠かすことなく続けられています。

 臨時祭とは、皇室・国家に重大事があったとき、臨時に行われるお祭りです。

 遷宮祭とは、20年に一度お宮を立て替え御装束・御神宝をも新調して、大御神に新宮へお遷りいただくお祭りです。式年遷宮は神宮最大の重儀で大神嘗祭(おおかんなめさい)ともいわれ、社殿や御神宝類をはじめ一切を新しくして、神嘗祭を完全なかたちでとり行うところに本来の趣旨があります。

平成21年 伊勢神宮式年遷宮広報本部 公式ウエブサイト

681年~701年代を生きた人々

天武天皇(てんむてんのう)

631?~686.9.9 在位673.2.27~686.9.9 大海人(おおあま)皇子・天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)天皇と称する。舒明天皇の次男。母は宝皇女(皇極天皇)。天智天皇の皇太弟とされ、六七一年(天智一〇)天智が重病となり、後事を託そうとしたのを固辞し、出家して吉野に移った。天智の死後、翌年吉野をでて美濃に至り、ここを拠点として兵を集め、天智の子大友皇子を擁する近江朝廷軍と戦って、これを破った(壬申の乱)。乱後、飛鳥浄御原(あすかのきよみはら)宮で即位し、強大な皇権を背景に、中央集権的な国家の建設を進めた。とくに八色の姓(やくさのかばね)や新冠位制、位階昇進制度の制定により、豪族層の官人としての組織化をめざした。六八一年(天武一〇)には律令の編纂を命じ、皇后の鸕野讃良(うののさらら)皇女(持統天皇)との間に生まれた草壁(くさかべ)皇子を皇太子に立てた。また藤原京の建設を開始したと考えられるほか、複都制を志して都城建設の候補地を全国に求め、難波にも宮殿を造営した。

日本史広事典 日本史広事典編集委員会編 山川出版 1997.11.25 第一版第二刷発行

天武帝と漢高祖

「天武天皇が漢高祖に多大な関心をよせていたことは、壬申の乱に際して近江軍との区別のために、兵の衣装に赤色を用いたことからも窺える。これは高祖が常に戦に際して軍旗に赤色を用いたと記す『漢書』高帝紀に由来する。天武天皇は自らを漢高祖に擬したのであろう。7世紀後半は遣唐使も途絶え、日中関係もスムーズではなく、律令国家完成を目指す天武天皇にとっての目標は、あくまでも漢帝国の覇者高祖劉邦の事績に習うことであったのではなかろうか、と考えている」

前園実知雄 天武・持統陵と高祖長陵 p.173 東アジアの古代文化100号 大和書房 1999年

持統天皇(じとうてんのう)

645~702.12.22 在位690.1.1~6978.1 鸕野讃良(うののさらら)皇女・高天原広野姫(たかまのはらひろのひめ)天皇と称する。天智天皇の皇女。母は蘇我倉山田石川麻呂の女遠智娘(おちのいらつめ)。大海人(おおあま)皇子(天武天皇)と結婚し、壬申の乱では行動をともにし、天武即位と同時に皇后となった。六八六(朱雀元)天武死後、即位せずに政治を行う称制に入り、実子で皇太子の草壁(くさかべ)皇子への謀反を理由に大津皇子を自害させた。草壁が没するとみずから即位し、天武の方針をうけつぎ、飛鳥浄御原令(きよみはらりょう)を施行し、庚寅年籍(こういんねんじゃく)を作って律令にもとづく政治を進めた。藤原京への遷都後、六九七年(文武元)草壁の子軽(かる)皇子(文武天皇)を皇太子に定め、同年譲位してみずからは太上天皇となり、天皇とともに律令制の基盤を作った。

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草壁皇子(くさかべのみこ)

662~689.4.13 日並知皇子ひなみしのみこ尊とも。天武天皇の第一子。母は皇后鸕良うののさらら皇女(持統天皇)。誕生順では高市たけち皇子についで二番目。六八一年(天武一〇)立太子し、四年後に諸皇子中最高の浄広壱位を授けられた。阿閉あべ皇女との間に、文武天皇・元正天皇・吉備きび内親王をもうけた。六八九年(持統三)皇太子のまま没したが、七五八年(天平宝字二)岡宮御宇おかのみやにあめのしたしろしめしし天皇と追尊された。

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大津皇子(おおつのみこ)

663~686.10.3 天武天皇の第二皇子。誕生順では草壁くさかべ皇子についで三番目。母は天智天皇の女大田皇女で、持統天皇の同母姉。皇子自身文筆の才に優れていたことから、天武の諸皇子中では草壁につぐ皇位継承の有力候補とされた。六八三年(天武一二)にはじめて朝政を聴き政治の場にのぞんだが、六八六年(朱鳥元)天武の死の一五日後、皇太子草壁に謀反を企てたとして捕らえられ、死を賜った。「万葉集」には死にあたって皇子の詠んだ歌が収録され、「懐風藻」にも「五言臨終一絶」を含む詩四編をのせる。妻の山辺皇女も皇子と死をともにした。

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軽(珂瑠)皇子(かるのみこ)

⇒文武天皇(もんむてんのう)683~707.6.15 在位697.8.1~707.6.15 天之真宗豊祖父(あまのまむねのとよおおじ)

草壁皇子の子。母は天智天皇の皇女阿閉(阿部)皇女(元明天皇)。六九七年(文武元)一五歳で皇太子となり、同年藤原宮で即位。七○一年(大宝元)大宝律令の制定により律令政治の基礎を固めた。七○七年(慶雲四)重病となり、母に譲位の意志を示して死去した。藤原不比等(ふひと)の女宮子を夫人とし、首(おびと)皇子(聖武天皇)をもうけた。

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大伴吹負(おおとものふけい)

?~683.8.5 小吹負・男吹負とも。七世紀後半の豪族。壬申の乱の功臣。連姓。咋(いく)の子。兄の馬来田(まくた)とともに大海人(おおあま)の皇子を慕い、近江から大和に退居。六七二年(天武元)六月大海人の挙兵に呼応し、倭京を占領。乃楽山で近江朝延軍と交戦して敗れたが、援軍を得て大勝。さらに難波に転戦し、西国国司を握握して勝利を確実にした。以後の動向は不明。贈大錦中。「続日本紀」に常道頭(常陸守のこと)とある。

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三輪高市麻呂(みわのたけちまろ)

⇒大神高市麻呂(おおみわのたけちまろ)657~706.2.6 大三輪・三輪とも。壬申の乱の功臣。姓は朝臣(あそん)。父は利金。六八六年(朱鳥元)天武天皇の殯宮(もがりのみや)で理官のことを誄(しのびごと)した。六九二年(持統六)の伊勢行幸を農事の妨げとして諫言したが、うけいれられず中納言を辞職。七〇二年(大宝二)長門守となり、政界復帰をはたしたらしいが、左京大夫在職中に没。詩歌をよくし、「万葉集」「懐風藻」に作品を残す。従三位を追贈。

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刑部親王(おさかべしんのう

?~705.5.7 忍壁・忍坂部とも。天武天皇の第九子。誕生順では大津皇子についで四番目。母は宍人臣(しし人のおみ)大麻呂の女●媛娘(かじひめのいらづめ)。六八一年(天武一〇)「帝紀」や上古諸事の撰述に参加。七〇〇年(文武四)には大宝律令選定作業の主宰者となり、翌年完成させた。七〇三年(大宝三)知太政官事に就任したが、七〇五(慶雲二)没。

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藤原不比等(ふじわらのふひと)

659~720.8.3 奈良初期の公卿。鎌足(かまたり)の次男。母は車持国子(くるまもちのくにこ)の女与志古娘。本来名は史と記し、養育された田辺史大隅の史姓に由来。六八九年(文武二〕藤原姓の独占的使用を認められ、鎌足の政治的遺産を継承。七〇一年(大宝元)正三位に叙され、大納言に昇る。七〇八年(和銅元)右大臣に至り、左大臣石上(いそのかみ)麻呂の没後は太政官の首班となる。大宝律令制定を主導し、養老律令選定も主宰。元明天皇即位、平城遷都の主唱者と目される。没後に太政大臣正一位を贈られ、淡海公と称せられた。東大寺献物帳に記す黒作懸大刀の由来は、不等人と皇室草壁直系の密接な関係を示す。四男子は中央政府で活躍し、女には文武天皇の夫人宮子、聖武天皇皇后の安宿媛(あすかべひめ)(光明子)、長屋王の妾などがいる。

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道昭(どうしょう)

629~700.3.10 七世紀の僧。河内国丹比郡の人。俗姓船連(ふねのむらじ)。飛鳥寺で得度。六五三年(白雉四)入唐し、玄奘(げんじょう)に師事して法相宗を学び、慧満から禅を学ぶ。六六一年(斉明七)帰朝。翌年元興寺に禅院を建立して将来した経論を収め、法相・禅を広めて日本法相宗の第一伝とされる。諸国をめぐって社会事業を進め、宇治橋架設にも関与した。薬師寺繍仏(しゅうぶつ)開眼の講師となり、六九八年(文武二)大僧都。遺命により大和国栗原(おうばら)で日本初の火葬に付されたという。

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儀礼

即位

皇継が皇位につくこと。またそのための儀式をさすこともある。本来は践祚(せんそ)と同義で、神祇令は中臣(なかとみ)氏が天神の寿詞(かまつかみのよごと)を奏上し、忌部(いんべ)氏が神璽(しんじ)の鏡と剣を奉呈すると規定している。(史料上、その儀式がはじめて具体的に確認されるのは持統天皇の践祚(即位)のときである)。しかし、八世紀頃には践祚と即位が分離しはじめ、桓武天皇の没時以来、剣璽渡御(けんじとぎょ)を内容とする践の儀が行われたのち、同年もしくは翌年に新天皇が高御座(たかみくら)に登っての即位の儀が行われるかたちが一般化し、それぞれの儀式を形成するようになった。以後このかたちが引き継がれたが、一九四七年(昭和二二)制定の現皇室典範では、没後ただちに即位すべきことが規定され、践祚の語はもちいられていない。

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ご即位・立太子・成年に関する用語

宮内庁ホームページ

檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)

天武天皇と持統天皇の合葬

宮内庁 天皇陵ホームページ

持統・文武両帝の火葬

我が国で初めて火葬に付された人物は道昭和尚である。700年(文武4)のことである。持統・文武両帝も火葬に付されている。「私が重視しますのは、道昭に続いて、天皇が火葬されたということの意味とその歴史的背景です。というのは火葬が一般化してきたから、その習が天皇にも及んだというのではなく、日本における火葬は僧に続いて、いきなり天皇からはじまったということに対する疑問であります。これにはどのような理由があるのだろうかということになります。この難問を考えるにあたって、若し従来考えられてきたように、火葬は仏教の葬法であるという見解に立つのであれば、6世紀中頃に伝来した仏教が、飛鳥仏教という造寺造塔の盛行した時代に火葬が全く行われず、それから150年も経過して、僧道昭に続いて持統、文武という天皇がいわば率先したような形で火葬され、しかも持統天皇の場合、埋葬とは思想的背景の異なると主張される火葬を行い、なお埋葬された天武天皇の陵に合葬されるという、異状な様相がなぜ出現したのか。同時に、持統天皇の直系の皇曽孫にあたり、火葬された文武天皇の皇子で、しかも熱烈な仏教徒であった聖武天皇が火葬でないという事情をどのように理解したらよいのかという疑問が生じます」

網干善教 古代の火葬と飛鳥 p.292 飛鳥の歴史と文学② 駸々堂出版 1981年

八角墳

「八角墳が確認されたのは、中尾山古墳(=推定文武天皇陵)が最初であります。それから天智天皇の山科陵、天武・持統天皇の大内陵が八角墳と推定されています。さらに探すと、斉明(皇極)天皇の夫であった舒明天皇の押坂陵も、従来は上円下方墳ともいわれておりますが、「皇陵実測図」などによって検討し直してみますと、八角墳である可能性が強いのです。・・・八角墳は舒明天皇以後、文武天皇にいたるまで代々の天皇陵の特有の墳形であったとみなしてよいことになるかもしれません。ただし、その間では孝徳天皇の大坂磯長陵だけは、八角墳であるかどうか未推定であります」

有坂隆道 古代史を解く鍵 p.300 講談社 1999年

釈奠(せきてん)

儒教のそである孔子とその弟子たちを祭る儀式。七〇一年(大宝元)に始まり、大学と国学で毎年二月と八月の最初の丁(ひとの)の日に拳行することが大宝令で法文化された。吉備真備(きびのまきび)による整備や平安初期の唐礼の継受をへて、九世紀中葉には儀式が充実した。大学での釈奠の式次第は、「延喜式」によれば、廟堂院で孔子以下を祭る饋享(ききょう)と、都堂院での講論および宴座(えんざ)、紀伝道の文人賦詩、明経(みょうぎょう)・明法(みょうぼう)・算道の論義からなり、八月の釈奠には翌日の内裏での内論義が加わる。講論では、「孝経」「礼記(らいき)」「毛詩」「尚書」「論語」「周易」「春秋左氏伝」が一回の釈奠で一書ずつ順番に論義され、七経輪転といった。朝廷の釈奠は中世以降衰微したが、近世になると、江戸幕府が本格的に行うようになった。一六三三年(寛永一〇)に林家(りんけ)の忍岡(しのぶがおか)聖堂で行われ、九一年(元禄四)の湯島への聖堂移転を契機に大規模化した。藩学でも幕府にならって行ったが、明治維新に至って廃絶した。

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役職

撰善言司(せんぜんげんし)

六八九年(持統三)設置された「善言」を編纂するための官司。「善言」とは為政者の倫理の指針となるような教訓を集めた書物で、皇族・貴族の教育に資すべきものであった。施基しき皇子以下、古今の典籍に通じた官人が任命されたが、「善言」の完成を見ることなく解散したと思われる。編纂の途中で集められた史料は「日本書紀」撰述の材料になったと考えられる。

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書物

帝紀(ていき)

「古事記」編纂材料の一つ。同書序文は「先紀」「帝皇日継(ひつぎ)」とも記し、「旧辞(きゅうじ)」とともに編纂材料としたとのべる。また「日本書紀」天武一〇年(六八一)三月条は、川島皇子や刑部(おさかべ)皇子らに詔して「帝紀」および上古の諸事を記し定めさせたと記す。内容については、その名称と「古事記」の記事の分類から、系譜的記事など天皇の事績を編年で記したものであったとする見方が、津田左右吉依頼の通説となっている。しかし「古事記」の系譜的記事は同書編者によって体系づけられたとみるのが妥当で、、実際のところは明らかではない。成立年代もはっきりしないが、六世紀中頃と推測される。

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墓記(ぼき)

古代の氏の祖先の功績を記した書。死に際して奉る誄(しのびごと)を集成したところからの名か。古訓はオクツフミ。「日本書紀」持統五年(六九一)条に大三輪(おおみわ)以下一八氏に「その祖らの墓記」を進めさせたとあり、「日本書紀」編纂の資料としたと考えられる。従来これは「纂記(つぎふみ・さんき)」と考えられていた。また「基記(もとつぶみ)」の誤記とみる説もある。

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新字(しんじ)

「にいな」とも。天武天皇が六八二年(天武一一)に作らせた辞書。四四巻。撰者は境部石積(さかいべのいわつみ)ら。「本朝書籍目録」には書名がみえるが、現在はまったく散逸。そのため内容は不明で、新字体をた定めたもの、漢字の訓などを定めたもの、国字を制定したもの、字体をただしたもの、漢字の新旧を整理したもの、国史編纂のために表記法を定めたものなど諸説ある。

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文化

双六(すごろく)

宮内庁・正倉院ホームページ

正倉院の由来

奈良・平安時代の中央・地方の官庁や大寺には,重要物品を納める正倉が設けられていました。そしてこの正倉が幾棟も集まっている一廓が正倉院と呼ばれたのです。しかし諸方の正倉は歳月の経過とともに亡んでしまい,僅かに東大寺正倉院内の正倉一棟だけが往時のまま今日まで残りました。これがすなわち正倉院宝庫です。

 8世紀中頃,奈良時代の天平勝宝八歳(756)六月二十一日,聖武天皇の七七忌にあたり,光明皇后は天皇の御冥福を祈念して御遺愛品など六百数十点を東大寺の本尊盧舎那仏(大仏)に奉献されました。皇后の奉献は前後5回に及び,その品々は同寺の正倉(現在の正倉院校倉宝庫)に収蔵して,永く保存されることとなりました。これが正倉院宝物の起こりです。そしてこれより二百年ばかり後の平安時代中頃の天暦四年(950)に大仏開眼をはじめ重要な法会に用いられた仏具,什器類が東大寺羂索院の倉庫からこの正倉に移され,光明皇后奉献の品々と併せて厳重に保管されることとなったのです。正倉院宝物は大別してこの二つの系統より成り立っています。

 この正倉院宝庫は,千有余年の間,朝廷の監督の下に東大寺によって管理されてきましたが,明治八年,宝物の重要性にかんがみ内務省の管轄となり,次いで農商務省を経て宮内省に移り,引き続き宮内庁の管轄するところとなっています。なお宝庫としては現在,古来の正倉のほかに西宝庫と東宝庫があり,いま宝物はこの両宝庫に分納して保存されています。

宮内庁・正倉院ホームページより

『竹取物語』と文武、元明朝

村山芳昭 『竹取物語』と文武、元明朝 pp150~165 東アジアの古代文化133号 2007年秋 大和書房

「浦島説話」と『竹取物語』

1.はじめに

「浦島説話」を研究するうえで、『竹取物語』は重要な研究史料になり得る、と考える。

二つの作品は、見えない糸でむすばれているのではないかと考察する。そのように考える理由について触れたい。

2009年9月13日 村山芳昭

2.「浦島説話」と『竹取物語』を結ぶ要素

(1) 成立の端緒

「浦島説話」成立時期(700年前後)と『竹取物語』のそれ(9世紀末から10世紀初頭)との間には、およそ200年余りの時の隔たりがある。しかし、『竹取物語』に登場する五人の貴公子が、大宝元年(701年)時に実在した五人の人物(①石上麻呂、②大伴御行、③阿倍御主人、④藤原不比等、⑤丹比真人島)に照応する、という見解は、現在多くの支持を受けており、こうした考え方を援用する研究者は多い。

さらに、本論は、江戸時代の国学者・加納諸平(1806~57年)が主張する『竹取物語』の「原書」の成立時期についての見解に注意を払いたい。彼は、作中の五人の貴公子が前述の人物に対応するとしたうえで、「原書」の成立時期を「文武天皇の御世の始より、大宝元年の間なるべし」、つまり697年から701年の間、と踏み込んだ見解を示している。

本論が注目するのは、この二つの観点である。というのは、この見解が合理的整合性を持つとするなら、「浦島説話」と『竹取物語』(「原書」)成立の端緒が、いずれも同時期に重なり合うことになるからである。

五人の貴公子が実在の人物に照応するとすれば、作者は、他の登場人物にも同様の意図を含ませた可能性が高いとみるべきではなかろうか。本論は、作者が「かぐや姫」を阿閇皇女(後の元明天皇)に、「御門(帝)」を文武天皇(「御門(帝)」を文武天皇に対応させるという見解は有力視されていることについては拙論で引用した)に仮託したと推論したが、そう設定すると、子が母に求婚する、ということになり、プロットとしても不自然で到底受け入れることはできないし成り立たないという批判があるだろう。「かぐや姫」を采女とみる見解もあるようである。筋立てとしては、そのほうが自然であろう。しかし、作者は、前提として論理的にこの物語を創作しようなどとは考えていないはずである。作者が、大宝元年時を念頭に作品を書いたとしたら、後述するが、この年が持つ歴史的意味に細心の注意を払わなければならないと考える。

(2)「蓬莱山」と「不死」

 「浦島説話」では、主人公が赴く世界は「蓬莱山(蓬山)」。『竹取物語』にも「蓬莱山」が登場する。「かぐや姫」は五人の貴公子にそれぞれ異なる結婚の条件を提示する。「くらもちの皇子」に課せられた条件は「蓬莱山に銀を根に、金を茎とし、白き玉を實として立っている木の一枝」を取ってくるという難題であった。「浦島説話」には全篇を通して不老不死を標榜する神仙思想の影響が看取されるが、『竹取物語』では月の都から派遣された天人が持参したものに「天の羽衣」と「不死の薬」がある。月の都の住人は不死なのであろう。不死の薬が入った壺を手にすることができたのは、登場する地上の人物のうちでは御門だけである点。二十年以上にわたって手塩にかけて育ててくれた「竹取の翁(おきな)」でも「妻の嫗(おうな)」でもない。作者は、月の世界という不死の異界に行くことのできる有資格者として不死の薬が入った壺を設定させていると思う。この箇所は作者の深い含意が込められていると思うのである。不死の薬を手にできたのは、「御門」だけという点についてはよくよく吟味検討する必要性があろうと思う。

『竹取物語』には道教の神仙思想のみならず仏教の影響などもみられるが、「蓬莱山」と「不死」が両書の共通項として触れられていることに留意しておきたい。

(3)「奇数」へのこだわり

本論は、「浦島説話」には易(陰陽)・五行思想の影響が汲み取れるという立場である。易の哲理では、奇数を「天」(陽)の数、偶数を「地」(陰)の数とするが、「逸文」中に奇数がちりばめられていることを拙論(『「浦島説話」と易(陰陽)・五行、讖緯思想』)で指摘した。作者は、易の哲理をもとに、奇数=「天界」という“公式”によって象徴的に異界を表現したと考察した。

「奇数」へのこだわり、という点でいうと『竹取物語』にもそのことがいえる。例えば、「五人」の貴公子、「一枝、折りて」、「五色に光る珠」、「七日」、「七度」、「十五日」、「五尺ばかり」といった記述のほか、とりわけ「三」への強いこだわりが伺える。一つひとつ列挙してみたい。①「三寸ばかりなる人」、②「三月(みつき)ばかりなる」、③「このほど三日」、④「三年ばかり」、⑤「三日ばかりありて」、⑥「三重(みえ)にしこめて」、⑦「三年ばかり」といった具合である。他方、「翁、年七十に余りぬ」、「五百日」、「五十両」、「五十ばかり」等、偶数も散見されるものの、それとて「七」、「五」といった奇数が意識されている。

奇数へのこだわりという観点をもって両書の共通性を説くことは拙速かもしれないが、奇数へのこだわりが伺える『竹取物語』を書いた作者が、奇数を天の象徴とみる易の哲理にも通暁していた可能性は指摘してよいと思う。易の八卦(乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤)は陰爻と陽爻を「三」本組み合わせたものであるし、「易簡・変易・不易」は易の「三」義といわれる。易は一字に「三」つの意味を含んでいるのである。また、『易経』「説卦伝」では天・地・人を「三才」としている。「三才」は宇宙の万象をも意味し、「三極」、「三元」、「三儀」などともいう。易と「三」とは親和的な関係性があるといえよう。そうした認識を、作者は持っていたと解したい。奇数、とりわけ「三」へのこだわりは、その証左の一つといえるかもしれないとみるのは穿ちすぎであろうか。ただ、「浦島説話」と『竹取物語』にみられる奇数へのこだわりが、両書を考察するうえで一つの参考になるということについて触れておきたい。

(4) 「太陽」と「月」の合一

 拙論(『「浦島説話」と易(陰陽)・五行、讖緯思想』)では、主人公と神女が異界で結ばれるという性的主題を陰陽合一の象徴表現と解した。「逸文」で「女娘」が「嶼子」に「共天地畢、倶日月極」と語りかける場面がある。「天地」「日月」は、男女同様、陰陽におきかえることができる。

 『竹取物語』では、「かぐや姫」は「月の都」の人とされている。この物語で「月」は重要な主題であるが、ここでも、太陽と月の要素を探ることはできる。例えば、「蓬莱山に銀を根に、金を茎とし、白き玉を實として立っている木の一枝」を取ってくることが結婚の条件の一つになっているが、金と銀は太陽と月に対応させることができる。金烏(きんう)は太陽の異称で、銀兎(ぎんと)は月の別名である。作者が、太陽と月の合一を、金の茎・銀の根として表現したと解することもできないことではない。

現在でも、結婚式の際に夫婦となった男女が金屏風の前で披露されることは一般的であるし、故人を偲ぶ会などで銀屏風の前に遺影が飾られることもまた一般的である。こうした伝統文化の背後には、金を太陽に、銀を月に対応させる思想が反映されている。前者は再生(新生)を、後者は死の象徴であり、二つの事柄はまた分かち難く結びついており、そこには両者は合され「永遠」なるものに連なるという思想が投影されている。結婚式に欠かせない金屏風は、男女交合=永遠性のシンボルとしての機能を担っている。植物の茎と根は相即不離の関係にあり、「金の茎と銀の根」の表現もまた同様である。

 「異界」と「天界」、「永遠性」というモチーフを両書の共通項の一つとして指摘しておきたい。

3.「大宝元年」の歴史的意味

 文武天皇即位後4年目の大宝元年、天皇はまだ19歳。当時の政治状況を概観する時、一人の女傑の存在を抜きには語れない。可愛い孫の後ろ盾として眼を光らせていた祖母・持統天皇である。689年、最愛の一人子・草壁皇子を失った女帝は、それ以前からの称制期間を経て翌690年元旦に即位した。以後7年間、孫の即位実現を夢みて全ての情熱を傾けた。697年、大願だった孫の即位が現実のものになると譲位し、太上天皇として孫の支援に尽力した。この間、彼女を裏で支えた重要人物の一人が藤原不比等である。

拙論でも触れたが、藤原氏の側から歴史を俯瞰する時、皇室との結びつきという観点からみると、「大宝元年」は一大エポックメーキングにあたることがわかる。この年、不比等と県犬養三千代との間に安宿媛(光明子)が誕生し、不比等の娘である宮子は文武天皇との間に首皇子(後の聖武天皇)を生んでいる。不比等の喜びはひとしおであったことであろう。おそらく盛大な祝宴が設けられたことであろう。その席には、不比等とともに「大宝律令」撰定作業にあたっていた「浦島説話」の原作者・伊預部馬養連も当然同席していたであろう。馬養は二人の子を目にする機会にも恵まれたはずである。抱き上げてあやしたかもしれない。そして、彼は、二子誕生がもたらす政治的意味の重さを察知していたはずである。

729年(天平元)、それまでの皇族皇后という伝統的慣習が破られ、光明子は初めて「皇后」の地位を得る。この時、不比等はすでに泉下の人となっていたが、彼にしてみれば、悲願がこれをもって満願成就したということができるだろう。大宝元年時、あるいは馬養は、既にそのような未来像を想像していたやもしれない。

繰り返すが、「大宝元年」という年は、不比等のみならず、その後の藤原氏にとって歴史的に特別な意味を持つものになったのである。『竹取物語』の作者が、大宝元年時を念頭に作品を創作したとするなら、こうした歴史的背景に思いを馳せていたと考えるのは自然な推論である。

4.不比等をめぐる二人の女性

 大宝元年に生を受けた二人の人物―安宿媛(後の光明皇后)と首皇子(後の聖武天皇)。共に結ばれることになる二人は29年後、天平文化の主宰者として一つの時代を花開かせることになる。前者の母は県犬養三千代、父は藤原不比等。後者の母は藤原宮子、父は文武天皇。不比等は宮子の父、文武天皇の父母は草壁皇子と阿閇皇女である。

 7世紀末の不比等と三千代、阿閇皇女との関係について、梅原猛氏は『黄泉の王―私見・高松塚―』で次のような描写をしている。

「宮廷側の政治の中心には、草壁未亡人、後の元明帝が位置していたと思われる。ところが、この元明帝にぴったり密着していた一人の女傑がいた。橘三千代である。彼女は文武の乳母として、可愛い孫には眼のない持統と文武帝の母阿閇皇太后に絶対の信任をえていた。この女傑に、不比等は眼をつけたのである。どうやら、この女傑の夫美努王は、大宰帥として都を離れていたらしいが、この夫の留守に、不比等は三千代を己れのものとしたのである。もとより、恋などというものではあるまいと私は思う。よしんば恋ではあっても、計算ずくの恋であろう。権力欲に燃える男は、セックスまでも、権力獲得の手段として利用するのである。不比等は、後世、能や浄瑠璃においては女を利用した知謀豊かな美男子として登場するが、知謀ばかりか、性的魅力においても、彼は、名前の如く、ならびなき、宮廷第一の人であったかもしれない。こうして、後宮の実力者、橘三千代をその性で抑えれば、宮廷はもう彼の思い通りであろう。老上皇は、孫の権力を安泰にしてくれる彼の手腕をたのもしく眺めたであろうし、皇太后草壁未亡人の方は、あるいは三千代と共に彼の男性的魅力の虜になっていたかもしれない。それはいささか不謹慎すぎる想像であるが、この元明-不比等というコンビは、実に息の合ったコンビであり、以後このコンビで、奈良遷都、『記紀』の編纂などの大事業を次々となしとげていったところを見ても、間に橘三千代を置いて見ても、なお親しすぎる関係のように思われる。こうした宮廷における信任によって、不比等は宮子を、文武の夫人に送りこむことができたのであろう。そして大宝元年、親と娘は、それぞれ、女子と男子をもうける。光明皇后と、聖武帝である」(p213 新潮社 1974年)

梅原氏が述べるように、この記述が「いささか不謹慎すぎる想像」であるとしても、大変興味深い指摘であると思う。加納諸平が指摘するように、『竹取物語』の「原書」なるものが697年から701年頃にかけて成立していたとするなら、その内容には当時の政治状況あるいは宮廷の内情が何らかのかたちで反映されていた可能性は捨てきれないとみるべきである。文芸作品も時代の産物である。時代がその作品を生み出すのである。

 物語の作中に「なかとみのふさこ(中臣房子)」なる意味ありげな人物が登場する。拙論では、この人物には県犬養三千代の存在が投影されているのではなかろうかと推論した。県犬養三千代は708年(和銅元)、元明天皇の大嘗会の際、「橘宿禰」姓を賜っている。彼女は、天武・持統・文武・元明・元正帝と続いた治世を通して後宮を裏側から支えた陰の功労者である。また、美努王との間に藤原房前の妻となる牟漏女王を産んでいる。房前は不比等の次男で、藤原北家の祖である。

『竹取物語』としての成立は9世紀末から10世紀初頭とされるが、藤原良房(804~872)、基経(836~891)、時平(871~909)、忠平(880~949)等の北家の流れをくむ人物は皆、9世紀末から10世紀初頭にかけて時の政権の重鎮として体制を支えていた。899年2月、時平が左大臣になった時、右大臣となったのが菅原道真(845~903)である。彼は901年1月、突如大宰権帥に左遷させられるが、これは藤原氏の讒言によるものである。道真は失意のうちに当地で没したが、彼の死後、藤原氏はその怨霊に悩まされることになる。道真は死後90年を経た993年には正一位・太政大臣が追贈された。時は一条天皇の治世。その前年に太政大臣の藤原爲光(942~992)は51歳で亡くなっている。その時、藤原道隆(953~995)は関白・摂政を務めていた。一家から三后を輩出するという慶事に恵まれ、「この世をば我が世とぞ思ふ・・・」と詠んだ道長(966~1027)と道隆は兄弟である。皆、その血脈は北家の祖・房前へとつながっている。

『竹取物語』の作者は未詳とされるが、「なかとみのふさこ(中臣房子)」なる人物を登場させた作者の意図には深い含意が隠されていると思われる。三千代について、土橋寛氏は「天武天皇・草壁皇太子の嫡系皇子による皇位継承を実現するための持統天皇と不比等の盟約を実現させた蔭の功労者」と述べている(土橋寛 持統天皇と藤原不比等 p27 中央公論社 1994年)。土橋氏は、持統天皇と不比等の間で天武・草壁皇統を守る盟約が交わされたとみている。こうした見解を支持する研究者は少なくない。

大宝元年前後の朝廷内のパワーバランスが両者の緊密な関係によって維持されていたことは確かであろうが、当時、不比等をめぐる三千代と阿閇皇女との関係も政治的に極めて重要な意味をもっていた。

「皇太后草壁未亡人の方は、あるいは三千代と共に彼の男性的魅力の虜になっていたかもしれない」と梅原氏は述べるが、両者の関係は果たしてどのようなものであったのであろうか。文武帝がわずか15歳で即位した時、不比等は39歳、阿閇皇女は37歳であった。文武の後見役を担っていた祖母・持統帝は53歳。今でいえば中学三年生で即位した文武帝自身の統治能力は、年齢から推測しても未熟で心もとないものであったはずであるし、それを補佐した不比等の卓越した政治手腕は、文武の母も祖母も含め衆目の一致する認識であったことだけは間違いないだろう。

マキャベリスト・不比等は、冷徹な政治判断のもと、29歳という若さで寡婦となった阿閇皇女の我が子へ注ぐ愛情を、深謀遠慮をもって巧みに利用したと想像するのは不自然ではない。

不比等の能力と手腕に頼らざるを得ない皇女は、文武の母として、そして一人の女性として身の処し方に苦悩したに違いない。702年に持統太上天皇を亡くした後は、なおさら不比等の政治力に依存せざるを得ない状況が強まっていったと考えるのは想像に難くない。不比等の政権戦略にとって、阿閇皇女との強固な関係構築は最重要な政治課題として位置付けられていたはずである。三千代を寝取り我がものとした不比等は、彼女の能力を最大限利用したはずである。彼女をとおして後宮の情報収集はもとより、皇女とその周囲の状況をつぶさに掌握していたであろう。おそらく、皇女は「かぐや姫」のように男性を魅了する美しい人であったに違いない。不比等もその魅力に魅せられたのではなかったか。皇女を篭絡するために、不比等は労力を惜しまなかったはずである。なぜなら、その対価は実質的実権掌握という余りある果実を手にすることにつながるのであるから。その背後には常に三千代の存在があった。

梅原氏の慧眼に基づいた想像は、あながち単なる推論と切り捨てることはできないと思う。ただ、不比等と皇女との関係において、皇女は常に受動的な立場に置かれていたのではなかったか。彼女の運命はいやおうなく当時の政治的激流に翻弄されていたはずである。

そうした状況を勘案して、深い想像力をはたらかせつつ両者の関係を忖度するしかないだろう。

5.作者の隠された意図

 697年から701年の頃にかけて『竹取物語』の「原書」なるものが存在し、物語の作者は大宝元年時を念頭に置いてこの作品を創作した、とする見解は現時点で確かな論証を得ているわけではない。こうした考え方に異論があることも承知している。しかし、それでもなお、本論は、このような解釈に強い関心を持っている。

『竹取物語』が創作された当時(9世紀末から10世紀初頭)は、名実ともに屈指の名族としてのし上がった藤原氏が大きな政治的影響力を確立し、権勢を誇った時代であり、そうした時代背景のもとで作品は産声を上げたのである。

本論は、作者は、この物語を文武朝の治世(特に697~701年前後)に焦点をあてたうえで、周到な計算のもと、読者に対し、①時代設定として「大宝元年」を確信させると同時に、②絶対に特定し断定させない逃げ道を用意するという矛盾する論理のもとに作品を書いたと考えるのである。

まず、①の根拠として五人の貴公子の名前を指摘するが、この中に「いそのかみのまろたり」と「大納言大伴みゆき」を設定していることである。とくに後者は実在の人物と全く同じ読み方をさせている。この点に、作者の確たる創作意図(読者に「大宝元年」を決定的に意識させる)を感じ取ることができる。一方、矛盾するようであるが、それでも作者が文武朝初期という時代設定を決して特定させ断定させることなき逃げ道を用意していると思うのは、どのような理由と根拠をあげたとしても、作者は「それは貴方の勝手な解釈と推測にすぎない」という弁明の余地を残すことができる、というのが②の根拠となる。それはどのような方法によって可能となるか。

 因みに「阪倉篤義校訂・竹取物語・岩波書店・2006年(第54刷)発行」には「五人の貴公子」について次のような註が設けられている。

「五人の貴公子の名」

 「石つくりの御子」は、石作皇子で、乳母の姓よりとった名であるとか、『新撰姓氏録』に見える石作連、『続後紀』に見える石作王と関係づけ、モデルは丹比真人島であるとかする説(加納諸平『竹取物語考』)もあるが、仏の石鉢をいつわったところからつけた名と考えるべきであろう。「くらもちの皇子」は、新井本・蓬左本・吉田本は「くらもりのみこ」とする。加納諸平は前掲書に藤原不比等のことで、その母が車持公、『続紀』に車持朝臣の名も見えるが、車持をクラモチとよむことには確証がない。「右大臣あべのみむらじ」については、蓬左本・大覚寺本その他に「左大臣」とあり、また古本には「みあらし」とある。『源氏物語』絵合の巻には「安部のおほし」とあり、『竹取物語解』は実在の人物と結びつけて御主人(みうし)とする。「大納言大伴のみゆき」は、同名の人物「大伴御行」がいる。「中納言いそのかみのまろたり」については、「まろたふ」(古本)、「まろたか」(蓬左本)、「もろたふ」(京大本)、「もろたり」(古活字十行本)など、いろいろである。石上麻呂という実在の人物があるので、『竹取物語解』はこれに従って改めているが、現存諸本に「まろ」という本文を持つものはない。安部御主人・大伴御行・石上麻呂の三人は天武・持統朝における功臣であり、『日本書紀』をはじめ歴史上に縷々その名が並んで見える。殊に御主人と御行は壬申の乱における抜群の功労者として有名であった。作者は、それらの名を借りてこの物語に利用したのであって、無理に実在の人名と一致させる必要はないのであるが、「石つくりの皇子」「くらもちの皇子」の場合も含めて、いかにも実在の人物を思わせる人名を用いていることには、考えるべき問題がありそうである。(59~60頁)」

 この記述は、『竹取物語』という作品の性質を考えるうえで大変興味深い。現在伝わる『竹取物語』が1000年以上に及ぶ長い歴史の風雪を経る中で、人名を含め原文の原形をどこまでとどめているかという問題もある。だが、「無理に実在の人物を思わせる人名を用いていることには、考えるべき問題がありそうである」という箇所こそが、実は作者の隠された意図ではなかったのか。多義的な解釈を可能とさせるのである。当時、藤原氏を批判するなどということは、場合によっては身の安全が脅かされることにもなる。その危険から逃れるため、作者は、逃げ道を確保しなければならなかったのである、と解すれば、前述の記述には十分な注意を払う必要があるだろう。

6.むすび

 「浦島説話」を研究するうえで、『竹取物語』は重要な研究史料になり得る、と考える理由として、①「浦島説話」と『竹取物語』(「原書」)成立端緒が、いずれも同時期に重なり合うとみられること。②神仙思想を背景にした「蓬莱山」と「不死」の主題が両書に用いられていること。③作者の易の哲理への通暁に基づいたと思われる「奇数」(「天」の象徴性)へのこだわりが両書にみられること。④作中に「太陽」と「月」の合一というモチーフが織り込まれている、といった点をあげておきたい。③と④の要素は、いずれも象徴表現であると解されるが、こうした手法は、両書の筋立てとは関係なく、作品の性質それ自体、全体に関与するという意味で共通性が認められると思われるからである。

「五人の貴公子」が大宝元年時の実在した五人の議政官に、「御門」が文武天皇に照応する、といった見解が、現在、多くの支持を得ていることを踏まえ、「月の王」、「かぐや姫」もまた、実在した人物像が投影されていると推論する本論の見解が成立するか否かについては、まだ研究の緒についたばかりであり、多くの克服しなければならない課題が残されていることは承知している。今後も、いろいろな観点から、この問題を考察していきたいと考えている。

 『紀』天磐戸神話で、磐戸を閉ざし籠ってしまった天照大神を磐戸から出させるために、中臣氏の遠祖である天児屋命(アメノコヤネ)と忌部氏の遠祖である太玉命(フトダマ)は祈祷を行なう。天児屋命は中臣氏の上祖で、卜事をもって仕え、「神事を主(つかさど)る宗源」とされた。『記』天孫降臨の際、五柱の神々がニニギノミコトのお伴として天降るが、その中に、中臣氏の祖神である天児屋命と斎部氏(忌部氏とも)の祖神である太玉命がいる。中臣氏、斎部氏とも宮廷祭祀を司った一族であるが、後に斎部氏は中臣氏の勢力に圧倒されて衰退していくのである。

 『竹取物語』で「かぐや姫」の名付け親は「三室戸斎部のあきた(御室戸斎部の秋田)」なる人物である。この物語が、藤原氏の政治権力並びにその性質に対する批判を意図して創作されているという前提にたてば、斎部氏を連想させる名付け親の名にも作者の深い含意が込められていると解釈することができるのである。