文責:村山芳昭 2008.11.01
目次
暦 (こよみ)
中国古代暦法の周期
祖沖之は、如何に円周率\pi = 355/113 を得たか? 曲安京(著) 西北大学数学系, 西安, 710069, 中国 城地茂(訳) 国立高雄第一科技大学応用日語系, 高雄, 811, 台湾 数理解析研究所講究録1257 巻2002 年163-172 p166 表1
易と暦
易とは、約五千年前の古代中国で、帝王伏犠(ふつき)が、天地自然の万象を見て創ったものといわれています。周易は文王・周公をへて、漢の武帝の時代に完成され、後漢では、五経(易経・書経・詩経・礼記・春秋)の中で易経は筆頭にあげられています。易経の中には、処世上の指針となる言葉が多いが、易は、その天の時を六十四卦という象(形相)で表し、その形相から現在の状態、将来の見込みを予知できるのが易です。
相模国一之宮 寒川神社ホームページ
暦の渡来
暦は中国から朝鮮半島を通じて日本に伝わりました。大和朝廷は百済(くだら)から暦を作成するための暦法や天文地理を学ぶために僧を招き、飛鳥時代の推古12年(604)に日本最初の暦が作られたと伝えられています。暦は朝廷が制定し、大化の改新(645)で定められた律令制では、中務省(なかつかさしょう)に属する陰陽寮(おんみょうりょう)がその任務にあたっていました。陰陽寮は暦の作成、天文、占いなどをつかさどる役所であり、暦と占いは分かちがたい関係にありました。平安時代からは、暦は賀茂氏が、天文は陰陽師として名高い安倍清明(あべのせいめい 921-1005)を祖先とする安倍氏が専門家として受け継いでいくことになります。
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元嘉暦(げんかれき)
中国南朝宋の天文学者阿承天(かしょうてん)が編纂した暦法。南朝の宋・斉・梁の諸王朝で、四四五年(元嘉二二)から五○九年まで六五年間用いられた。百済(くだら)へは宋から伝えられ、六六一年の滅亡まで使用された。「日本書紀」の暦日が五世紀中頃から元嘉暦の計算とあうことから、早くから百済を通じて日本でも元嘉暦を用いていたと推定される。「日本書紀」持統四年(六九○)一一月一一日条に「始めて元嘉暦と儀鳳暦(ぎほうれき)とを行ふ」とある記事が初出。以後六九七年(文武元)まで使用された。一九年を二三五ヶ月とし、その間に七回閏をおく一九年閏法に従っており、平朔(へいさく)を用いる。また二十四節気の起点を正月の中(ちゅう)の雨水(うすい)にとっていることが特色。
日本史広事典 日本史広事典編集委員会編 山川出版 1997.11.25 第一版第二刷発行
儀鳳暦(ぎほうれき)
中国唐の天文学者李淳風(りじゅんふう)が編纂し、六六五年から七二八年まで六四年間用いられた暦法。唐では麟徳暦(りんとくれき)とよぶ。日本では唐の儀鳳年間に伝わったので儀鳳暦という。六九○年(持統四)に元嘉暦との併用が命じられ六九八年以降は単独で七六三年(天平宝字七)まで六六年間用いられた。定朔を用いたすぐれた暦法で、一日を一三四○分とし、この数を用いて朔望月や太陽年の長さを定めた。天文定数を定めるのに共通分母(総法)を用いた最初の暦法である。
日本史広事典 日本史広事典編集委員会編 山川出版 1997.11.25 第一版第二刷発行
太陰太陽暦
当時の暦は、「太陰太陽暦(たいいんたいようれき)」または「太陰暦」、「陰暦」と呼ばれる暦でした。1ヶ月を天体の月(太陰)が満ち 欠けする周期に合わせます。天体の月が地球をまわる周期は約29.5日なので、30日と29日の長さの月を作って調節し、30日の月を「大の月」、29日の月を「小の月」と呼んでいました。一方で、地球が太陽のまわりをまわる周期は約365.25日で、季節はそれによって移り変わります。大小の月の繰り返しでは、しだいに暦と季節が合わなくなってきます。そのため、2~3年に1度は閏月(うるうづき)を設けて13ヶ月ある年を作り、季節と暦を調節しました。大小の月の並び方も毎年替わりました。暦の制定は、月の配列が変わることのない現在の太陽暦(たいようれき)とは違って非常に重要な意味をもち、朝廷やのちの江戸時代には幕府の監督のもとにありました。太陰太陽暦は、明治時代に太陽暦に改められるまで続きます。
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暦の普及-具注暦と仮名暦
陰陽寮が定める暦は「具注暦(ぐちゅうれき)」と呼ばれ、季節や年中行事、また毎日の吉凶などを示すさまざまな言葉が、すべて漢字で記入されていました。これらの記入事項は「暦注(れきちゅう)」と呼ばれています。また、「具注暦」は、「注」が具(つぶさ=詳細)に記入されているのでこの名があります。「具注暦」は、奈良時代から江戸時代まで使われましたが、特に平安時代の貴族は毎日暦に従って行動し、その余白に自分の日記 を記すことが多く、古代から中世にかけての歴史学の重要な史料となっています。かな文字の普及によって、「具注暦」を簡略化し、かな文字で書いた「仮名暦(かなごよみ)」が登場します。鎌倉時代末期からは手書きでなく印刷された暦も現れ、暦はより広く普及していきます。
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現存する最古の具注暦は正倉院の天平十八年(746)の暦断簡とされてきたが、近年、更に古い木簡の具注暦の断簡が出土している。仮名暦の古いものとしては宮内庁所蔵の嘉禄二年(1226)の書写暦が知られている。栃木県真岡市荘厳寺には仮名暦の3年連続の暦が残されており、そのうちの康永四年(1345)の版暦は完全な形の暦として残存しており、今のところ最も古い。
国立天文台図書室 貴重資料展示室
常設展示 第十二回・『暦(1)具注暦と仮名暦』 (1995/3/9~1995/7/18)
持統3年の具注暦木簡(飛鳥藤原第122 次)
石神遺跡から出土したこの円盤状の木簡は、具注暦と呼ばれたカレンダーの一部です。干支の下には「建、除、満、平、定、執、破、危、成、収、開、閉」の順にめぐる「十二直」が規則正しく並びます。の下には、「九坎」(万事に凶)、「帰忌」(この日の帰宅は凶)、「血忌」(この日の出血は凶)、「天倉」(倉開きに吉)など、その日の吉凶が記されています。「上玄(弦)」(上弦の月)、「望」(満月)といった、月の満ち欠けも書かれています。以上のような情報を読み解くことによって、表面が持統3年(689)3月8日~ 14 日、裏面が同年4月13 日~ 19 日の暦であることがわかりました。日本最古の現存するカレンダーです。「元嘉暦」という、中国から百済を経由して日本に伝えられた最初の暦です。周囲が丸く削られているのは、廃棄後に木器として転用されたからです。もともとは、表面に3月、裏面に4月、それぞれ1ヵ月分の暦日を記した長方形の板であったと推定されます(復元図参照)。具注暦は天皇の名のもと政府が作る正式の暦で、官司や諸国にはその写しが頒布されました。本来は紙に書かれた巻物ですが、同時に多数の役人たちがみられるよう、板材に書き写すという工夫をしたのでしょう。
奈文研ニュース 2003.Mar №8 飛鳥藤原宮跡発掘調査部 市 大樹
干支
「干支は十干(甲、乙、丙、丁、戊、己、庚、辛、壬、癸)と十二支(子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥)の組み合わせによって構成される中国最古の暦表である。干支表は武丁期の頃と考えられる甲骨文字版に既に見られることから、おそらくその起源は更に古いものと推測される。干支表を構成する十干と十二支の起源については研究者が諸説を主張しており、未だに定説はない。しかし、商人が卜旬の中で十日を一旬としていたり、十進法を使用していたことなどから、十干はおそらくこの「十」という単位を重視した習俗に起因しているのではないかと考えられる。十二支については十干の「十」という数からその起源を推測するのと同じく「十二」という数に意味があるのではないかと思われる。「十二」という数はちょうど一年の月の数であり、卜辞には一月から十二月までの月数が見られ、また閏月としては十三月を使用しているので、この十二ヶ月の周期を本としているのではないかと推測したい」
井上聡 古代中国陰陽五行の研究 p.52 翰林書房 1996年
六十干支(ろくじっかんし)
暦注の多くは陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)という古代中国の思想や易から発生し、月日に当てられるようになったもので、その大きな柱となるものが干支です。
干支(えと)は、十干(じっかん)と十二支(じゅうにし)の組み合わせです。
十干はもともと、甲、乙、丙、丁…と、日を順に10日のまとまりで数えるための呼び名(符号)でした。10日ごとに、「一旬(いちじゅん)」と呼び、3つの旬(上旬、中旬、下旬)で一ヶ月になるため、広く使われていました。
古代中国では、万物はすべて「陰」と「陽」の2つの要素に分けられるとする「陰陽説(いんようせつ)」と、すべて「木」、「火」、「土」、「金」、「水」の5つの要素からなるとする「五行説(ごぎょうせつ)」という思想がありました。これらを組み合わせて「陰陽五行説」と言い、やがて陰陽五行説を「十干」に当てはめるようになりました。また、日本では、この「陰」と「陽」を「兄(え)」と「弟(と)」に見たて、「兄弟(えと)」と呼ぶようになりました。
一方、十二支は、もともと12ヶ月の順を表わす呼び名でしたが、やがてこれらに12種の動物を当てはめるようになったものです。
干支の組み合わせ(十干と十二支の組み合わせ)は60通りあり、六十干支と呼びます。これが一巡すると還暦となります。例えば、「甲」と「子」を組み合わせた「甲子」は、「こうし」、「かっし」または「きのえね」と読みます。
国立国会図書館 日本の暦 干支①六十干支(ろくじっかんし)
方位(ほうい)
干支は、年、月、日、時間、方位などを示すためにも使われ、それらの吉凶を表わすようにもなりました。
例えば、方位は北から東回り(時計回り)に子、丑、寅…と12等分します。すると北東、東南、南西、西北が表現できないため、中国では易の八卦(はっけ)に基づいた坎(かん)、艮(ごん)、震(しん)、巽(そん)、離(り)、坤(こん)、兌(だ)、乾(けん)を用いて表現していました。日本では、北東(艮)は十二方位の丑と寅の中間なので丑寅(うしとら)、同じように、東南(巽)は辰巳(たつみ)、南西(坤)は未申(ひつじさる)、西北(乾)は戌亥(いぬい)とも呼んでいました。
国立国会図書館 干支②方位神(ほういじん)
方位神(ほういじん)
陰陽家は方位神(ほういじん)と呼ばれる方位の吉凶を司る神を祭り、例えば、今年はこの方向に嫁にいってはいけないなどと、暦上に記していました。方位神は現在でも一部の暦や占いなどで使用されています。
国立国会図書館 干支②方位神(ほういじん)
天文
七世紀の日本天文学
日本の天文記録は,六国史(日本書紀,続日本紀,日本後紀,続日本後紀,日本文徳天皇実録,日本三代実録)に記された.
谷川清隆,相馬 充 国立天文台報 第11巻,31 -55(2008)
飛鳥時代から江戸時代以前の天文記録
日本書紀によれば,620年に赤気(オーロラ)の記録,628年に日食の記録があり,この頃から天文現象に注意を払い始めたようである.天文現象が国の盛衰や吉凶と関係があるという考えから記録されたのであろう.以下に最古の天文現象の記録を中心に天文現象の記録を紹介する.なお,舒明天皇の頃から天文現象の記録が多くなるが,これは第2回遣隋使の留学生である僧日文の帰国の影響であろう.
美星町 星のデータベース
すばる
秋から冬にかけて、うるんだように見える星のかたまりがある。「すばる」と呼ばれる星である。これは和名で「統星」「すまる」とも言われ、首につけた玉飾りを連想してつけられたようだが、後、中国から入ってきた二十八宿の「昴宿」から「昴」の字があてられるようになった。「昴」の意味は薄明かるい、または集団という意味を持つ。
国立天文台図書室 貴重資料展示室
常設展示 第七回・『すばる』 (1993/11/13~1994/1/10)
彗星
彗星は古くから、その姿の様々な様子から、彗・孛、旗雲、白気または客星と記録されている。しかし、科学的な観測がされるようになったのは天明二年(1782)に浅草天文台が出来た後で、観測には地平経儀、象限儀などの儀器が用いられた
国立天文台図書室 貴重資料展示室
常設展示 第九回・『彗星(1)』 (1994/4/10~1994/8/2)
常設展示 第十回・『彗星(2)』 (1994/8/2~1994/11/1)
中国の星座 -歩天歌を中心に-
江戸時代までは星座といえば中国の星座であり、名称も形も意味合いも西洋の星座とは大きく異なっている。これらは、天帝のいる天の北極を中心に、地上の社会を反映するさまざまな人物や事物が配置された構造を持ち、そこで起こる天象から地上の政治を占うために使われていた。形よりも天帝 (天の北極) からの距離に意味があり、二十八宿を用いた赤道座標系で位置を表わすのも特徴となっている。
国立天文台図書室 貴重資料展示室
常設展示 第三十二回・中国の星座‐歩天歌を中心に‐ (2005/3/28~)