文責:村山芳昭 2008.11.01

『日本書紀』「雄略紀」

二十二年、
秋七月、
丹波國餘社郡筒川人瑞江浦嶋子、
乗レ舟而釣、遂得(二)大龜(一)。
便化(二)爲女(一)。
於レ是浦嶋子感以爲レ婦、
相逐入レ海、到(二)蓬莱山(一)、
歴(二)覩仙衆(一)。
語在(二)別巻(一)。

小島憲之ほか校注・訳 日本書紀② 新編日本古典文学全集3 小学館 1996

『日本書紀』「浦島説話」の述作者

「浦島説話」を収載した『日本書紀』が成立したのは720年(養老4)5月21日、元正天皇の治世である。

我が国初の官撰国史。全30巻、系図1巻から成っていたが、系図は伝存していない。国史編纂事業が着手されたのは681年(天武10)で、40年近い歳月を費やして完成をみた。

文体は正格漢文で、編年体で編纂されている。編纂を主宰したのは天武天皇を父にもつ舎人親王。親王は、死後23年を経て「崇道尽敬皇帝」号が追尊された。

「浦島説話」は『日本書紀』「雄略紀」に載っているが、森博達氏は、「雄略紀」は音博士を務めた続守言(唐人俘虜)が担当したと推測している。そして、「皇極紀」(24巻)からを薩弘恪が担当したと指摘している。(森博達 日本書紀の謎を解く p212中央公論新社 1999年)

薩弘恪は、「浦島説話」の原作者・伊預部馬養連とともに「大宝律令」撰定作業にも関わっている。『日本書紀』の「浦島説話」の記事は、続守言あるいは薩弘恪が何らかのかたちで関わった可能性は極めて高いといえよう。

『日本書紀』「浦島説話」概要

時は雄略22年(478年)秋7月のことである。
丹波國餘社郡筒川に水江浦嶋子という人物がいた。
(ある日)舟に乗って釣りをしていると、遂に大龜を得たが、龜は女性に化してしまった。
女性の放つ妖艶な魅力に引き込まれた浦嶋子は、女性を妻とした。
海に入った二人は、蓬莱山に至る。
そこで、不老不死の仙人をつぶさに目にしたのである。
そして詳細は別巻に在る、で締めくくる。

説話の骨子は、
①出来事を478年7月と年月を具体的に明記していること。
②釣り上げた大龜は女性に変身するが、その美しさに魅了された主人公は彼女を娶る。
③主人公と女性が赴いた世界は、古代中国で神仙の住まう三神山の一つとして知られた
 蓬莱山であった。
④主人公は、異界で多くの仙人を目の当たりにする。

以上が、『紀』が語る「浦島説話」の内容である。

『日本書紀』「浦島説話」解説

「秋七月

『日本書紀』の「浦島説話」は「雄略紀」22年7月条に収載されている。「秋七月」の書き出しで始まる説話記事は、わずか54文字の記録を残すのみである。

「雄略22年」は西暦に換算すると478年、干支紀年では「戊午」年にあたる。旧暦(太陰太陽暦)では、1~3月までは春、4~6月は夏、7~9月は秋、10~12月は冬にあたる。

「倭の五王」の「武」に比定されている獲加多支鹵大王(雄略天皇)は、この年、南朝・宋(420~479年)に遣使した。『宋書』「倭国伝」には「使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」という「武」王への仰々しく厳めしい叙任記事が記されている。

しかし、『紀』は、伝説化の厚い雲に覆われた「浦島説話」については触れつつも、中国の正史に記載されたほどのこの我が国古代外交史上の特筆すべき政治的事柄を記述していない。これは大きな謎である。

「丹波國餘社郡筒川人、瑞江浦嶋子」

『日本書紀』は、「浦島説話」の主人公の名前を「瑞江浦嶋子」とし、「丹波國餘社郡筒川」に住む人と記す。この説話の原作内容を知る手掛かりとなる史料は『日本書紀』と『万葉集』、『丹後國風土記』「逸文」で、始原の三書と呼ばれている。

713年(和銅6)4月、丹波国は丹波と丹後の二国に分置された。そして、加佐・与佐・丹波・竹野・熊野の五郡が丹後国に組み入れられた(『続日本紀』和銅6年4月3日条)。『風土記』撰進の命はその年の5月である。

「浦島説話」が『丹後國風土記』に収載されたのは713年以後ということになるが、元々この説話の原作が成立したのは700年前後とみるのが通説となっている。

『紀』が「丹波國」と記すのは、原作の成立が713年以前に遡ることを裏付ける一つの根拠でもある。

「逸文」では主人公の名前は「水江浦嶼子」とするが、『紀』は「瑞江浦嶋子」とする。

「乗舟而釣遂得大龜、便化爲女。」

「水江浦嶋子」は舟に乗り、大海原に出て釣りをしていた。彼が漁師であったのか、あるいは単なる釣り人であったのかは、この記述だけでは判明しない。

その後、彼は「大龜」を釣り上げるのであるが、それはたちまち女性に化す。

「浦島説話」といえば、舞台は海。「逸文」は一人「小船」に乗って「出海」する。

『万』は「海界」で「堅魚」や「鯛」を釣るといった具合で、始原の三書は、いずれも背景に「海」がある。

しかし、『万』には亀が登場しない。亀が女性に変身するというモチーフは、『紀』と「逸文」に共通する。

いずれにしても、主人公が漁を生業とする漁師であると断定することは難しい。

ただ、『万』の記述では、主人公は海に出てから「七日」も家に帰らなかったということは何かを示唆しているのであろうか。

「於是、浦嶋子、感以爲婦」

主人公である浦嶋子は女性を婦(め)にする、つまり妻とするのである。

感じて、とは、美し女性の妖しい魅力の虜になってしまったといった意に解せよう。

「感」の字義には「心が動く」「まどわす」といった意味が含まれる。

「感心」には「深く心に感じ入る」意がある。「深く感じ入り心が動く」さまは「感動」であり、「心に深く感じて流す涙」は「感涙」である。一方、「感応」は「心がものに感じて、応じ、動く」ことであるが、「信心が神仏の霊に通ずること」(広辞苑)という意味もある。「感」という文字は人間の感覚、情動と深く結びついている。
この一文字に編者の深い含意が隠されているように思われる。

いずれにしても、「感以爲婦」の4文字には、男女交合という性的な官能表現が併せ含まれていることは確実である。

しかし、女性の本性は大きな亀である。浦嶋子は幻惑され、亀に恋してしまったことになる。

「相逐入海、到蓬莱山」

主人公と女性と化した大龜は海に入っていく。二人は「入海(海に入る)」のであるが、「浦島説話」というと海底にある竜宮城が思い浮かぶ。そのようなイメージが定着しているのは、明治時代の童話作家・巖谷小波の作品が大きく影響している。

「鯛や平目の舞い踊り」という小学唱歌にもあるが、主人公を出迎えるのは多くの魚である。当然、海中、海の底が想定される。

「海に入る」という記述からは、一般的に海中、あるいは海底に向かうという印象を受ける。

「相逐入海」という記述について、重松明久氏は「両人が一緒に海上遥かに漕ぎ出したとの意味をもつと解すべきであろう」と指摘している。そして、漢籍の用例にその根拠を求めている。

重松氏は「例えば『史記』巻6「秦皇本紀」にみえる始皇帝が斉の徐市に命じ、童男女数千人をつれ海に入り、蓬莱・方丈・瀛洲の三神山にいる仙人を求めさせたという場合の「入海」と同趣のものである。一致する表記は、『漢書』巻25上「郊祀志」の同様の説話の場合にも用いられている。一般的に海上への航行の途についたとの意味に解すべきこと、いうまでもなかろう」と指摘している(重松明久 浦島子伝 110頁 現代思潮新社 2006年)。

説話の主人公が赴いた先は蓬莱山。とすれば、『史記』の記述との類似性は説得力を持つと思われる。

「逸文」では、主人公は神女によって目を閉じさせられ、眠りにつくやたちまち「海中博大之嶋」に至る。そこが「蓬山」である。

不老不死の神仙の住む理想的な世界は、渤海沖に存在するといわれたが、渤海沖にはしばしば蜃気楼現象が現れることが知られている。おそらく、海上航行中に、遥か水平線の上に、蜃気楼現象となって浮かぶ山並みを神仙堺と想定したのであろう。

『紀』あるいは「逸文」の記述にしても、遥か海の沖合いに神仙の世界を想像していたのではなかろうか。

「浦島説話」(『紀』)は主人公を「丹波國餘社郡筒川人」とするが、「逸文」にしても説話の内容自体には土地に根ざした匂いは全く感じられない。

前漢の司馬遷が著した『史記』が完成したのは紀元前91年頃とされる。「蓬莱山」(あるいは「蓬山」)は古代中国で神仙思想の影響のもとに語られた異界なのである。つまり、「浦島説話」は中国漢代の思想を背景に成立しているのである。

「歴覩仙衆」

夫婦の契りを交わした二人は、海に入り、蓬莱山に至る。そこで二人は、不老不死の仙人たち(「仙衆」)を次々と目の当たりにしたのである(「歴覩」)。異界は永遠の生命を得た仙人等で溢れていたのである。

[覩]ト・みる「見る」「見分ける」意。

[歴]レキ・ヘる「歴」の旧字体

「語在別巻」

『日本書紀』が伝える「浦島説話」は、わずか54文字を記録するのみである。末尾の「語在別巻」とは、詳しい内容を記した「別巻」が存在したことを示している。この「別巻」こそが、伊預部馬養連が書いた原作であろうとされている。

とすると、末尾以前の50文字は日本書紀編者が書いたことになるが、おそらく編者は、馬養の原作内容を承知していたうえでこの記述をしたのであろう。

『紀』はこの説話を「雄略紀」に記し、「逸文」は「長谷朝倉宮御宇天皇(雄略天皇)御世」のこととし、「蓬莱」(『紀』)、「蓬山」(「逸文」)の記述、また、亀(「大龜」『紀』、「五色龜」「逸文」)が女性に変身し、その女性と結ばれるといった主題も含め、記述に若干の相違はあるものの基本的な共通理解のもとに書かれていることがわかる。